そもそも考えてみると、仏法が流布したころは世の中は穏やかに治まっていた。神を崇め奉るところは、国土豊饒である。このことによりインドより日本にかけて、君王より人民に至るまで、この義は改めることのない真理とされている。
さて、後鳥羽院の時代に源空法師という者がいた。道俗を欺くために、専修念仏を興して顕密の教理を破り、男女をたぶらかすために邪義を構えて、仏や神の威光を滅らし、常に四衆を誘ってこう言った。
「浄土三部経以外の衆経を棄て置きなさい。称名の修行以外の余行は捨てて退けなさい。まして天神地祇や鬼神などの恭敬においては。まして孝養や報恩の善事はなおさらである。これを信じない者は阿弥陀仏の本願を疑っているのである」
こうしておろかで強情な者は甚深の妙典を軽慢し、無智の族は神明の威徳を蔑如した。なかんずく「止観業・遮那シヤナ業の学窓に臨む者は出離をおさえる愚か者である。三論や法相の稽古に励む者は菩提を塞ぐ狂人である」と言う者もいた。
これにより仏法は日に衰え、迷執は月ごとに増した。そこで、南都や北嶺の高僧が上奏して天皇のお耳に入れたので、源空は処罰を逃れ難いとされ、遠流の命令を受けて流罪の地に赴いた。
その後、源空の門徒はなおも勅命をはばからずに、ますます専修を興した。それはほとんど先代を超えた。違勅の至りであり、責めても責めたりない。そこで重ねて専修を停廃し、源空の門徒を流罪すべきであると天皇の仰せがしきりに下された。また鎌倉幕府の命令も勅宣に沿って提出された。
門下等は逃れる術を失い、山林に流浪したり遠国に逃げ隠れした。こうして都会より田舎まで、称名をなげうち男女は正しい教えに帰するようになった。しかし、また近年、先の法規を弁えない輩や、仏神を崇めない連中が、再び専修の行を企て、さらに邪悪を増すこと甚しい。
日蓮は不肖ではあるが、天下の安寧を思うため、また仏法を繁栄させるために、ひたすら先賢の言葉を宣説し、称名の行を停廃しようと思う。また愚懐の勘文を添えて、いささか邪人の慢幢を倒そうと思う。考え記された文は多くあり見いだすのは難しい。そこで理解しやすくする為に、要点を取りだして諸モロモロを省略し、五篇を列挙する。詳しいことは広本にある。
奏状篇(要典を取り出して記す。詳しいことは広本にある)
南都の奏状にこうある。
一、人を謗り、法を謗っている事
右について、源空が顕密の諸宗を軽んじることは土のようであり砂のようである。智慧と修行を備えた高位の僧を蔑ろにすることは蟻のようであり螻のようである。常に自讃してこういう。
「広く一代聖教を見て知っているのは自分である。八宗の細かな点までを理解する者は自分である。その私が諸行を捨てたのである。まして他の人はなおさらそうすべきである」
愚かな道俗がこれを仰ぐことは仏に対するようである。弟子の偏った執着は師をはるかに超え、檀那の邪見は本の説よりますます倍増し、日本中に広くひろがって、事の奇特を聞くと驚かずにおれない。
その中でも、法華経の修行を専修のかたきとしている。法華経を読む者は皆地獄に堕ちるといい、あるいは法華経を修行する者は永く生死の苦しみに留まるといい、あるいはわずかに仏道の結縁を許し、あるいはすべて浄土往生の正因を妨げるという。
そのため、もと法華経八巻並びに開結を含めた十巻の文を読誦しること千部・万部という功徳を積んできた者も永く廃して退いてしまい、そればかりか法華経の修行は間違いであったと悔いている。捨てた法華経の修行による宿習は実に深く、やろうとしている念仏の薫習は未だ積んでいないとして、中途で天を仰いで歎息する者が多い。このほか、般若・華厳への帰依、真言・止観への結縁は十人うちの八・九人は皆棄て置いている。(以下略す)
一、霊神を蔑如する事
右について、我が国は本来神国である。百王は神の血筋をうけて、世の中はその加護を仰いでいる。しかしながら、専修の輩は永く神明をわきまえず、権化か実類かを論ずることなく、宗廟や祖社を恐れず、「もし神明を礼拝すれば魔界に堕ちる」などという。
実類の鬼神においてはさておき、権化の垂迹についていえば、まぎれもなく大聖である。上代の高僧はすべて帰伏している。
行教和尚が宇佐の宮に参った際、釈迦三尊の影が月のように現れ、仲算大徳が熊野山に詣でたときは、飛滝千仭の水が簾スダレのように巻きあがり、観音菩薩が現れたという。
およそ行基・護命・増利・聖宝・空海・最澄・円珍等は皆神社において新たに霊異を感じている。かれらは源空に及ばない人であろうか。または魔界に堕ちる類の者か。(以下略す)
山門の奏状にこうある。
一、一向専修の党類が神明に向背するのは不当であるという事。
右について、我が国は神国である。神道を敬うをもって国の勤めとする。謹んで百神の本源を尋ねてみれば、諸仏の垂迹でないものはない。
いわゆる伊勢大神宮・八幡・加茂・日吉・春日等はすべて釈迦・薬師・弥陀・観音等が姿を変えて現れたのである。それぞれが宿習の地を選び、有縁の人々を守り、その内証にしたがって法を施しているのである。念誦・読経などは神によってその所作は異なるが、世を挙げて信じており、人ごとに利益を受けている。
しかしながら、今専修の徒は事を念仏に寄せて、永く神明を敬うことが無い。既に国の礼を失い、なお神をないがしろにする罪を犯す。力ある神々は必ず降伏する眼をもって厳しく睨んでおられることを知るべきである。(以下略す)
一、一向専修は日本や中国の例からみて快くないという事。
右について、慈覚大師の入唐巡礼記を調べると、唐の武宗皇帝は会昌元年に、章敬寺の鏡霜法師に勅令して、諸寺に於て弥陀念仏の教えを伝え、寺毎に三日巡輪して絶えることがなかった。同じく二年、廻鶻国の軍兵等が唐の界を侵した。同じく三年、河北の節度使がとつぜん乱を起こした。その後大蕃国が更に命を拒み、廻鶻国は再び地を奪われた。兵乱は秦項の代と同じで、火災は村のほとりまで起こった。まして、武宗は大いに仏法を破り、多くの寺塔を滅ぼしたので、乱をおさめることができず遂に滅んだ(以上取意)。これはすなわち、ほしいままに浄土の一門を信じて、護国の諸教を仰がなかったことによる。しかるに、わが国は一向専修が弘通して以来、国は衰微し民衆は多く苦しんでいる。(以下略)
また、音の響きの哀楽で国の盛衰を知る。詩経の序にこうある。
「治世の音は安らかで楽しさに溢れる。その政治が和いでいるからである。乱世の音は怨みを含み怒っている。その政治が道をはずれているからである。亡国の音は哀しみを含み思いに沈む。その民が苦しんでいるからである」
近代の念仏の曲を聞くと、世を治め民を安じる音に背き、哀しい嘆きの響きを成している。これは亡国の音といえる(これが第四)。以上奏状。
山門の奏状の要点を取ると以上の通りである。
また大和の荘の法印である俊範、宝地房の法印の宗源、同坊の永尊竪者(後に僧都となり、並に題者である)等は、源空の門徒を対治するためにそれぞれ子細を述べている。その文は広本に在る。また諸宗の高僧がそれぞれに書を作り、選択集を破折して専修を対治する書籍を世に伝えている。
宣旨篇
南都[奈良興福寺]と北嶺[比叡山延暦寺]の訴状によって、専修念仏を対治し行者を流罪すべきであるとたびたび出された宣旨の内、今は少しを載せ多くは省く。詳しくは広本にある。
永尊竪者の状にはこうある。
弾選択等を上奏された後、山上に披露した。弾選択については誰もがこれを賞賛し、顕選択は多くの人が誹謗した。法然上人の墓所は感神院の犬神人ツルメソウに命じて破壊した。その後天皇に申し上げて裁許を受けた。七月の上旬に法勝寺の御ミ八講の際に、山門より南都にこのように告げた。清水寺や祇園の辺の、南都と山門の末寺にて専修念仏の輩が居住する草菴についてはすべて破壊した。その身柄については検非違使庁に命じて捕縛した。これにより阿弥陀仏を礼讃する声や黒衣の色は、京洛の中ですべて制止した。張本人三人は流罪と決定したが、逃走したのでいまだ配所に向っていない。山門は今も訴え出ている。
この十一日の評議において、法然房が著した選択集は謗法の書である。天下にこれを留め置いてはならない。したがって、あちこちで所持しているものや、その印板は大講堂に取り上げて、三世の仏恩を報じるために焼失すべきである、と天皇に申し上げた。重ねて命をくだされるであろう。恐恐。
嘉禄三年十月十五日
専修念仏の張本人である成覚法師が讃岐の大手嶋に経回しているという。事実か否かは分明しない。確かなことを実際に調べよと延暦寺の人々が申している。
調べて報告せよというのが殿下の意向である。よって以上のとおり通達する。
嘉禄三年十月二十日
参議範輔 在り判
修理権亮殿
関東より宣旨に対する御返事
隆寛律師の事は右大弁宰相家の御奉書を拝見した。件の律師は去る七月フヅキのころ、都より下って鎌倉近辺を経回していたが、京都の制符にしたがって念仏者を追放したため、奥州の方へ流浪したということである。早く居場所を調べて探し出し、命じられた内容にしたがって対馬の嶋においやるべきである。この旨を申し上げるようにとのこと。鎌倉殿の仰せによって以上のとおり通達する。
嘉禄三年十月十五日
武蔵守 在り判
相模守 在り判
掃部助殿
修理亮殿
専修念仏について、停廃すべしとの宣下が重ねて下っているが、なおもひそかに行なわれているということである。これは公家の関知するところではない。ひとえに所轄の役人の怠慢である。早く先の命令にしたがって禁止されるべきである。そのうえ、衆徒の蜂起に対してはぜひ制止を加えられるべきである。天皇のご意向によって以上のとおり申し上げる。信盛・頓首恐惶謹言。
嘉禄三年六月二十九日 左衛門権佐信盛 奉ずる
進上 天台座主大僧正御房 政所
右弁官下す 延暦寺
早く僧の隆寛・幸西・空阿弥陀仏の度牒を取り上げるべき事についての書。
権大納言・源朝臣雅親が奉勅を宣する。件の隆寛等の罪科は配流であり、よろしく彼の寺に命じて度牒を取り上げるべきである。以上よろしく承知して宣旨によって行うように。間違いがあってはならない。
嘉禄三年七月六日
左太史小槻オツギ宿禰 在り判
左少弁藤原朝臣 在り判
大政官符
五畿内の諸国司は必ず専修念仏の行為を停廃し、早く隆寛・幸西・空阿弥陀仏等の遺弟が留まる場所で禁法を犯している輩を捕らえて搦めとるべきの事。
弘仁の聖代の格の条文は眼前にあるように明らかである。左大臣が奉勅を宣する。必ず五畿七道に命じて行為の道を停廃し、違犯の身を捕縛するように。諸国司はよろしく承知して宣旨によって行うように。符が到着したら執行するように。
嘉禄三年七月十七日
修理右宮城使正四位下行右中弁藤原朝臣
修理東大寺大仏長官正五位下左大史兼備前権介小槻宿禰
専修念仏の輩を停止すべきの宣旨が五畿七道に下された。それとともに御存知になるであろう。以上、天皇のお言葉はこのようである。頼隆・誠恐頓首謹言。
嘉禄三年七月十三日 右中弁頼隆 在り判
進上 天台座主大僧正御房 政所
隆寛は対馬の国に改めらるべきと宣旨がくださられた。このことを知らせるようにとの旨が仰せ下された。この趣をもって申し入れさせるべき書状は以上である。 右中弁頼隆 在り判
中納言律師御房
隆寛律師は専修念仏の張本人であり、山門より訴えがなされたので、陸奥ミチノクに流罪となった。ところが衆徒よりなお申し入れがあった。よって配所を改めて対馬の嶋に追い遣らるべきである。現在東国の辺を経回しているようである。日を置かず彼の島に追いやられるべきであると関東[鎌倉幕府]に申し上げていただきたい。天皇のご意向によって以上のとおり申し上げる。
嘉禄三年九月二十六日 参議 在り判
修理権亮殿
専修念仏の事、京畿七道に命じて永く停止されるべきであると、先日宣旨が下された。ところが諸国になおその行われているとのことである。宣旨の状を守って沙汰すべきであると、地頭・守護所等に命令すべきであると山門が訴え出ている。指図していただきたい。この旨を通達せよというのが殿下のご意向である。以上のとおり申し上げる。
嘉禄三年十月十日 参議 在り判
武蔵守殿
嵯峨に下された院宣
近頃、破戒・不善の輩が厳禁にもかかわらず、なお専修念仏を企てているとのうわさがある。さて、先師・法眼が存命の時、清涼寺の辺に多く留まり住んでいたといわれる。遺跡を継いでもし同じ意向であらば、彼の寺の執務がたとえ相承の理を帯すとも免許の義があってはならない。早くこの旨を心得て禁止させるべきである。院宣は以上である。以上のとおり申し上げる。
建保七年二月四日 按察使アゼチ 在り判
治部卿律師御房
謹んで請ける 院宣一紙
右のとおり当寺の境内にいる破戒・不善の専修念仏の輩は、法に基づいて制止されるであろう。更に親切心を加えることはない。もしなおも寺当局の力で制止できないときは、事の理由を申し上げる。以上謹んで請けた。
建保七年閏二月四日 権律師良暁
左弁官下す 綱所
必ず諸寺の執務人に命じて専修念仏の輩を糾断させるべき事。
右について左大臣が奉勅を宣する。専修念仏の行は諸宗衰微の基である。よって去る建永二年の春、厳制五箇条の裁許をもって太政官符の施行が先になされた。傾く者は、進んでは法律を恐れず、退いては仏勅をはばからない。あるいは寺院を居所としたり、村里や都に隠れ住む。破戒の僧侶は道場に結集し、ひたすら勝手に考え出したり偽りをなしている。仏の名号を称えるために、みだりに邪音をなし、まさに人心を堕落させ放逸にしようとしている。大勢の見ているところでは、賢人や善人の格好をしているが、ひっそりとした夕方には、俗人がだらしなく寝ている姿と異ならない。これはすなわち発心して善行を修しているのではない。乱れた行為を企てているのである。どうして仏陀の元意にかなった僧徒の所行といえようか。
必ず役人に命じて間違いなく糾断させるべきである。もしなお違反する者は先符のとおりに罪科に処すべきである。ただし道心を持って修行している人を仏法に違反するの者と混乱してはならない。更に阿弥陀の教説をおろそかにするのではない。ただ釈尊の法文をなくさないようにするためである。あわせてまた諸寺の執務をする人や、五保を監督する輩が聞き知って言わなければ与同罪を許してはならない。よろしく承知して宣旨によって執行するべきである。
建保七年閏二月八日 太史小槻宿禰 在り判
謹んで請ける 綱所
宣旨一通に記載されているのは、まさに諸寺の執務人に命じて専修念仏の輩を糾断させるべきであるとの事。
右の宣旨の状に基づき諸寺に告げ知らせるべきとの通達を謹んで請けた。
建保七年閏二月二十二日にこれを執行した。
近年来、恥知らずの徒や法に逆らう僧侶が如本来の戒行を守らず、たびたびの厳制を恐れず、好き勝手に念仏の別宗を建て、みだりに衆僧の勤学を誹謗している。それだけではなく、内心には妄執を凝らして仏意に背き、外面には哀音を引いて人心を迷わしている。国中、いたるところ専修の一行に帰し、僧俗の殆んどが顕密の両教をさげすんでいる。仏法の衰滅の原因はここにある。勝手な奸悪は誠に禁じすぎることはない。
これによって教雅キヨウガ法師については本源を温ねて遠流し、このほかの仲間の残党等はたしかにその行を帝土の中に停廃し、ことごとくその身を洛陽の外に追放せよ。ただし自分自身の修行あるいは化他の為に心から一心に念じて、如法修行する輩においては制止の限りではない。
天福二年六月晦日 藤原中納言権弁 奉る
天福二年に文暦と改元する。後堀河院の太子である四条院の時代である。武蔵前司入道殿が執権の時。
祇園の執行に仰せつけられた山門の下知状。
大衆の評議はこうである。専修念仏者が天下にはびこっている。これはすなわち、近年延暦寺が処置しないでいた結果である。これらの輩は八宗仏法の怨敵である。円頓の行者の順魔である。まず京都を行き来する連中や在家で念仏を称えるところは、先の例にしたがって犬神人に命じて必ず停止させるべきである。大衆評議の旨はこの通りである。早く先例に従って犬神人等に命じて専修念仏者を停止させるべきである。恐恐謹言。
延応二年五月十四日 公文勾当審賢
四条院の時代、武蔵前司殿の執権の時。
謹上 祇園の執行・法眼御房
追って申し上げる。先日の夜、大衆が評議してまずこの専修念仏者について、とくに犬神人に命じてこれを責めなさいと確認した。
よって実名を提出する。専修念仏の張本人は、唯仏・鏡仏・智願・定真・円真・正阿弥陀仏・名阿弥陀仏・善慧・道弁が真如堂での狼藉の張本人である。唐橋油小路並びに八条大御堂ミドウ・六波羅の総門の向かいの堂、以上が当時行っていた所である。
延暦寺 別院雲居ウンゴ寺
早く一向専修の悪行を禁断すべき事
右について、近年愚癡蒙昧で結党し、心がねじけてよこしまな会衆を名づけて専修と呼ぶ者たちが田舎や都会にはびこっている。心に一分の慧解も無く、口に多くの罪となる悪言を吐き、言を一念十声シヨウの悲願に寄せて敢えて三毒・五蓋の重悪を憚からず、是非をも弁えない道理のわからない輩が、ただ情に従うことで多く愚かな教えに信伏している。持戒・修善の人を笑い、その修行を雑行と呼び、鎮国護王の教えを謗って、それを魔業と称している。諸の善行を退けて捨て、多くの悪行を選択し、罪を山岳のように積み、報いとして地獄の苦を招いている。毒気が深く入って禁じても改めることも無く、ひたすら欲や悦楽をたしなんで、自ら止めることはできない。あたかもアオバエが唾の粘りのために捕らわれて離れられないようであり、狂った犬が雷を追って走るのとなんら異ならない。好き勝手に三寸の舌を振るって衆生の成仏のための修行を抜き、自分の五尺の身を養うために諸仏の肝心を滅ぼす。まさに仏法の怨魔となり、さながら仏門の妖怪といえる。
これによって邪師は存生中は永く罪条に沈み、滅後の今はまた屍骨を暴かれた。その門徒の住蓮と安楽は原野で処刑され、成覚と薩生は流罪の刑を蒙った。この現罰を見てその後世の報いを察しなさい。まさに今、釈尊の遺法を護るためにも、衆生の塗炭の苦しみを救うためにも、諸国の末寺・荘園・神人・寄人等に命じて重ねて彼の邪法を禁断するべきである。たとえ片時といえども彼の凶悪な仲間を寄宿してはならない。たとえ一言であってもその邪説を聴聞してはならない。もしまた延暦寺の管轄内に専修興行の輩がいたならば、永く重罪に処して許してはならない。三千人の衆徒の評議にしたがって以上のとおり通達する。
延応二年
延暦寺の申状
近来、二つの妖怪がいて人の耳目を驚かしている。いわゆる達磨の邪法と念仏の哀音である。
顕密の法門に属さず、王臣の祈請を致さず、誠に身動きせずに世を蔑り、暗証でありながら人を軽んじている。小僧の浅い知識を崇めて見性成仏の仁であるとし、長年修行を積んだ長老を笑ってケラやアリの類になぞらえる。議論をしないので才能の長短を表さず、判断の場にいないので智慧の賢愚を測ることができない。ただ壁に向かって独り仏道を得たといい、三衣をわずかにまとい、七慢がひたすら強盛である。長く経巻を抛つ附仏法の外道がわが国に既に出現したのである。妖怪の極みであり、気をつけなければならない。なぜわざわざ亡国流浪の僧を撰んで伽藍を伝持する主とすることがあろう。
御成敗式目には、「右大将家以後、代々の将軍並びに二位殿の時代の事は、まったく判決を改めることはない」とあり、追加の状には、「嘉禄元年より仁治に至るまでの御成敗の事。正嘉二年二月十日に評定。右について今より以後に於ては三代の将軍並びに二位家の御成敗に準じて判決を改めてはならない」とある。
念仏を停廃する事について、宣旨と御教書の趣旨や南都・北嶺の書状はおおむね以上の通りである。日蓮は力なき身ではあるが、勅宣並びに御下知の旨を守って、ひとえに南北明哲の賢懐を述べた。なおこの義を棄置されるのでなければ、天皇の命令や徳政を図られるべきであろう。また御下知を仰せられるべきであろう。称名念仏の行者を賞賛されているが、既に違勅の者である。関東の御勘気はいまだとかれていない。どうして好き勝手に関東の近くに住むことを企てられようか。とりわけ、武蔵前司殿の御下知に至っては、三代の将軍並びに二位家の御成敗に準じて判決を改めてはならないといわれている。
しかし今、念仏者は何の威勢によってか宣旨に背くのみだけではなく、御命令を軽蔑して重ねて称名念仏の専修を企んでいる。人によって処置が異なるというこのようないわれがあろうか。どうして好き勝手に都や田舎を縦横に歩き回ることができようか。
勘文篇
念仏者追放宣旨御教書の事