問うていう。
今の世の念仏者を無間地獄というがその理由は何か。
答えていう。
法然の選択集についていうのである。
問うていう。
その選択集の意とは何か。
答えていう。
後鳥羽院の治世の天下・建仁年中に日本国に一つの彗星が出た。名づけて源空法然という。選択集一巻を記して六十紙余りに及ぶ。科段を十六に分けている。
第一段の意は道綽禅師の安楽集に依って聖道浄土の名目を立てている。
その聖道門とは、浄土の三部経等を除いた他の大・小乗の一切経、特に朝廷が帰依された大日経・法華経・仁王経・金光明経等の顕密の諸大乗経の名目と、阿弥陀仏以外の諸仏・菩薩、朝廷が帰依されている真言等の八宗の名目を挙げて、聖道門と名づけている。この諸経・諸仏・諸宗は正・像の機にはかなっているが、末法に入ってこれを修行する者は一人も生死の苦しみを離れることはできないという。
また曇鸞法師の往生論註に依って難易の二行を立てている。
第二段の意は善導和尚の五部九巻の書に依って正雑二行を立てている。
その雑行とは、道綽の聖道門の所見のとおりである。
またこの雑行は末法に入っては往生を求める者のうち千人の中に一人も得られないといっている。
下の十四段には、聖道・難行・雑行を小善根・随他意・有上功徳等と名づけたり、念仏等をもって大善根・随自意・無上功徳等と名づけている。
念仏に対して末代の凡夫は、この聖道・難行・雑行を捨てよ、この門を閉じよ、これを閣けよ、これを抛てよ等の四字をもって制止した。
こうして日本国中の無智の道俗をはじめとして、大風に草木が従うように、すべてがこの義にしたがって、たちまちに法華・真言等に対する随喜の意を止め、建立の思いを廃してしまった。
そうする間に、誰もかれもが平形の念珠をもって阿弥陀の名号を称えたり、毎日三万遍・六万遍・十万遍・四十八万遍・百万遍等と称えるようになり、他の善根はやめて、念仏堂を造ることは稲麻竹葦のように多くなり、その結果法華・真言等の智者と思われる人々もすべてが帰依を受けるために、また往生極楽のために、本宗を捨てて念仏者と成ったり、本宗はそのままで念仏の法門を仰ぐようになった。
今私はいう。
日本国中の四衆の人々は、形は異なり変わるといっても、意根は皆一法を行じてことごとく西方の往生を期している。仏法が繁昌する国と見えるところに一つの大いなる疑いを発する事は、念仏宗の亀鏡と仰ぐべき智者達・念仏宗の大檀那となる大名や小名、並びに有徳の者の多くが臨終が思うようにならないということを聞き、これを見た。しかし善導和尚は十即十生と定め、十遍から一生の間(念仏を称えた)念仏者は一人も漏れず往生を遂ぐことができるとしているが、これらの人の臨終と善導の釈とは水火の違いがある。
ここに念仏者が会していう。
往生に四つある。一つには意念往生・般舟三昧経に出ている。二つには正念往生・阿弥陀経に出ている。三つは無記往生・群疑論に出ている。四つには狂乱往生・観経の下品下生に出ている。
非難していう。
この中の意念・正念の二つはしばらく置く。
無記往生は何れの経論に依って懐感禅師がこれを書いたのか。経論になければ信用することは難しい。
第四の狂乱往生だが、引証は観経の下品下生の文である。
第一に悪人臨終の時に、妙法を覚った善知識に値って覚るところの諸法実相を説いてもらっても、これを聞く者は正念しがたく、十悪・五逆のもろもろの不善の苦に責められて覚ることができない。善知識の実相の初門となるために、称名して阿弥陀仏を念ぜよといったので、音を揚げて唱えたのである。これは苦痛に耐えがたくて正念を失ったのであり、狂乱の者ではない。狂乱の者がどうして十念を唱えられようか。例えば正念往生に含まれ、全く狂乱の往生には例すべきではない。ところが、あなたがたが本師と仰ぐ善導和尚はこの文を受けて転教口称とはいっても、狂乱往生とはいわない。そのうえあなた方が昼夜十二時に祈る願文には、願わくは、弟子等が命終の時に臨んで、心が顛倒せず、心が錯乱せず、心を失念せず、身心に諸の苦痛も無く、身心が快楽にして禅定に入るようなものである。この中の錯乱とは狂乱である。
ところが、十悪・五逆罪を作らない今の世の念仏の上人達並びに大檀那等が臨終の時に、悪瘡等の諸の悪い病や重い病を発し、また臨終のときに狂乱になっている。これは理解できないことである。
しかし、善導和尚が十即十生と定め、また「定得往生」等と釈しているのは疑いの無いことであるから、十人に九人は往生しても、一人往生しなければなお不信になって当然である。まして念仏宗の長者たる善慧・隆観・聖光・薩生・南無・真光等は皆悪瘡等の重病を受けて臨終に狂乱して死んだとのことを聞きまた知った。
それ以下の念仏者の臨終のときの狂乱は数え切れない。善導和尚が定めた十即十生は崩れ、むしろ嫌った千中無一と成ってしまった。
千中無一と定められた法華・真言の行者はほぼ臨終は正念であったと聞いている。
念仏の法門においては、正像末の中では末法に特に流布すべきである。利根・鈍根・善人・悪人・持戒・破戒等の中では、鈍根・悪人・破戒等が特に往生できると説かれている。故に道綽禅師は「唯有浄土一門」と書かれ、善導和尚は「十即十生」と定め、往生要集には「濁世末代の目であり足である」といっている。
念仏の時機はすでに叶っている。行じる者は願い通りになるはずなのに、このような相違は大いなる疑いである。もしこれによって本願を疑えば仏説を疑うこととなる。進退はきわまっている。この疑いを念仏宗の先達並びに聖道の先達に尋ねたが、一人として答える人はいなかった。
念仏者は自宗を弁護していう。
あなたは法然上人の捨閉閣抛の四字を謗法ととがめるのか。あなたの浅い智慧が及ばないだけのことである。
故に上人はこの四字を自分だけの考えで書くと思うのか。源として曇鸞・道綽・善導の三師の釈を用いてこれを出したのである。三師の釈もまた私義ではない。源として浄土の三部経・竜樹菩薩の十住毘婆沙論を用いて出したのである。
雙観経の上巻にこうある。
「もし我、仏を得たらんに乃至十念せん」等と。
第十九の願にはこうある。
「もし我、仏を得たらんに諸の功徳を修し菩提心を発す」等と。
下巻にはこうある。
「乃至一念」等と。
第十八の願成就の文である。
また下巻にこうある。
「その上輩の者は[略]一向に専念し[略]、その中輩の者は[略]一向に専念し[略]、その下輩の者は[略]一向に専念し」
これは十九願成就の文である。
観無量寿経にこうある。
「仏が阿難に告げた。あなたはよくこの語を持て。この語を持つとは即ちこれ無量寿仏の名を持つことである」
阿弥陀経にこうある。
「小善根をもってするべからず。一日または七日」等と。
まず雙観経の意は、念仏往生・諸行往生と説いているが、一向専念といって諸行往生を捨てている。故に弥勒の付属には一向に念仏を付属したのである。観無量寿経の十六観も上の十五の観は諸行往生であるが、下輩一観の三品は念仏往生である。仏が阿難尊者に念仏を付属したのは諸行を捨てよとの意味である。阿弥陀経には雙観経の諸行、観無量寿経の前十五観を束ねて小善根と名づけ、往生を得ることができない法と定めている。
雙観経では念仏を無上功徳と名づけて弥勒に付属し、観経念仏では芬陀利華と名づけて阿難に付属し、阿弥陀経では念仏を大善根と名づけて舎利弗に付属した。最終の付属は一経の肝心を付属している。また一経の名を付属したいる。
三部経には諸の善根が多くあるが、その中では念仏が最上としている。故に題目も無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経等といっている。
釈摩訶衍論や法華論等の論をもってこのことを考えると、一切経の初めには必ず南無の二字がある。梵本をもってこれをいうなら、三部経の題目にはすべて南無がある。雙観経の修諸の二字には、念仏以外の八万聖教が残らず収められており、観無量寿経の三福九品等にある読誦大乗の一句には、一切経が残らず収まっている。阿弥陀経の念仏の大善根に対する小善根の語には法華経等が漏れることなく収まっている。
総じて浄土の三部経の意は行者の願いにしたがうために、しばらく諸行を挙げているが、再び念仏に対する時は諸行の門を閉じて捨閉閣抛していることがあきらかである。例えば法華経を説くために無量義経を説いた時に四十年余りの経を捨てて法華の門を開いたようにである。竜樹菩薩は、十住毘婆沙論を著して一代聖教を難易の二道に分れ、難行道とは三部経の外の諸行である。易行道とは念仏であるとした。
経論はこのように明らかであるのに、中国の人師はこの義を知らず、ただ善導一師のみがこの義を悟った。したがって雙観経の三輩について、観念法門にこのように書いた。
「一切衆生の根性は不同であり、上中下がある。その根性にしたがって仏皆無量寿仏の名を専念することを勧められた」
この文の趣意は「菩提心を発して諸の功徳を修めよ」等と諸行を説いているのは、他力本願の念仏にあわない以前の修行のことであるのを、たちまちにこれを捨てよと言っても行者は用いないので、故にしばらく諸行を許すということである。しかし実際には念仏を離れて諸行をもって往生を遂げる者はいないと書いたものである。
観無量寿経の「仏告阿難」等の文について、善導は疏の四にこれを受けて「上来に定散両門を説くといえども、仏の本願に望めば意衆生をして一向に専ら阿弥陀の名を称するに在り」といっている。
定善・散善とは八万の権実・顕密の諸経のすべてを一括したもので、念仏に対してこれを捨てよといっているのである。
善導の法事讃に阿弥陀経の大小善根の故を釈してこうある。
「極楽は無為涅槃界である。随縁の雑善、恐らくは生じ難し。故に如来要法を選んで、教えて弥陀専修を念ぜしむ」等とある。
諸師の中で三部経の意を得た人はただ善導一人である。如来の三部経においてはこのようであるが、正法・像法の時は根機も利根の故に、諸行往生の機もあったであろう。
ところが、機根が衰えて末法と成り、諸行の機はだんだん失われ、念仏の機のみとなってしまった。更に阿弥陀如来は善導和尚と生まれて中国でこの義を顕し、和尚が日本に生まれて初めは比叡山に入って修行し、後には比叡山を出てひたすら専修念仏して三部経の意を顕されたのである。
あなたは「捨閉閣抛」の四字を謗法ととがめるが、それはいまだ善導和尚の釈や三部経の文を知らないからである。イヌが雷をかむようなものである。地獄の業を増すだろう。あなたは知らないのであれば浄土宗の智者に問いなさい。
不審に思っていう。
上に立てた義をもって法然の捨閉閣抛の謗言を救ったつもりか。実に浄土の三師並びに竜樹菩薩が仏説によってこの三部経の文を開いたとき、念仏に対して諸行を傍としたことはほぼ経文通りである。経文に嫌われた諸行念仏に対して、これを嫌うことは過められることではない。
ただ不審なところは、雙観経の念仏以外の諸行、観無量寿経の念仏以外の定散、阿弥陀経の念仏以外の小善根の中に、法華・涅槃・大日経等の極大乗経を入れ、念仏に対して不往生の善根であると仏が嫌われたものを、竜樹菩薩・三師並びに法然がこれを嫌ったとしても何の失もない。ただ三部経の小善根等の句に法華・涅槃・大日経等が入るとは思わないので、三師並びに法然の釈を用いない。
無量義経などには「四十余年・未顕真実」と説いて、法華経八箇年を除いて、以前の四十二年に説いた大小・権実の諸経は一字一点も未顕真実の語に漏れるとは思えない。それだけではなく四十二年の間に説かれた阿含・方等・般若・華厳の名目を出している。既に大小の諸経を出して生滅無常を説いた諸の小乗経を阿含の句に収め、三無差別の法門を説いた諸大乗経を華厳海空の句に収め、十八空等を説いた諸大乗経を般若の句に収め、弾呵の意を説いた諸大乗経を方等の句に収めている。このように年限を指し、経の題目を挙げて、無量義経によって法華経に対して諸経を嫌い、(天台大師に)嫌われた諸経による諸宗を下したのである。これは天台大師の私見ではない。
あなたがたの浄土の三部経の中に念仏に対して諸行を嫌う文があったとしても、嫌われる諸行が浄土の三部経以外の五十年の諸経であるという現文はない。また無量義経のように、阿含・方等・般若・華厳等も挙げていない。誰が知るのか。三部経では諸の小乗経並びに歴劫修行の諸経等の諸行を、仏が小善根と名づけられたということを。
左右もなく念仏以外の諸行を小善等といわれたのを、法華・涅槃等の一代の教だと決めつけて、捨閉閣抛の四字を置いたことは仏意に背くのではないのかと不審に思う限りである。
例えば、王の所従といったときは、諸人の中に諸国の中の凡下等一人も残らず含まれる。しかし庶民の所従には諸人・諸国の主は入らないようなものである。
誠に浄土の三部経等が一代の諸経に超過する経であるならば、五十年の諸経を嫌うことも、そのいわれはあるだろう。しかし三部経の文よりことが起こって一代を摂することはできない。ただ一機一縁の小事である。どうして一代の諸経より劣るもののなかに収めて嫌うのか。三師並びに法然はこの義を弁えないで、諸行の中に法華・涅槃並びに一代の諸経を収めて「末代においてこれを行じる者は千中無一」と定めたことは、近くは依経に背き遠くは仏意に違う者である。
ただし竜樹の十住毘婆沙論の難行の中に法華・真言等を入れているというのは、論文にたしかにあるのか。たとえ論文にあったとしても、確かな経文にないのであれば不審とすべきである。
竜樹菩薩が権大乗の学者であった時の論であるか、または訳者の入れたものと考えるべきである。その理由は、仏が無量義経に四十年余りは難行道であり、無量義経は易行道であると定められた事は金口の明鏡である。竜樹菩薩は仏の記文通りに出世して、諸経の意を説いた。どうして仏説である難易の二道を破って私見で難易の二道を立てることがあろうか。したがって十住毘婆沙論の一部始終を開いてみても、全く法華経を難行の中に入れた文はない。ただ華厳経の十地を釈するのに第二地に至り終えても宣べていない。またこの論では諸経の歴劫修行の旨を挙げ、菩薩は難行道に堕ち、二乗地に堕ちて永不成仏の思いを成すといっている。法華経以前の論である事は疑いない。
こうした竜樹菩薩の意を知らないで、この論が難行の中に法華・真言を入れたと考えたのだろう。浄土の三師においては書釈を見ると、難行・雑行・聖道の中に法華経を入れたことがほぼ考えられる。しかし法然のような放言はしていない。
それだけではなく、仏法を弘める者は教・機・時・国・教法流布の前後を考えるべきである。
如来は在世に前の四十年余りには大・小を説いたけれども、説時が至らなかったので、本懐をのべられなかった。機根はあったが、時が来ていなかったので、大法を説かれなかったのである。霊鷲山八年の間にはその機ではなかったが、時が来たために本懐をのべられた。権の機は移って実教の機となったのである。
法華経の流通分や涅槃経には実教を前に弘め、権教を後にすべきであるとのことが述べられている。在世には実を隠して権を前にしたが、滅後には実を前として権を後とすべきであるとの道理は明らかである。
しかしインドには正法一千年の間は外道があったり、ただ小乗だけの国があったり、またただ大乗だけの国があったり、また大小兼学の国があった。中国に仏法が渡ってもまたインドど同様であった。日本国においては外道も無く、小乗の機も無く、ただ大乗の機根だけであった。大乗においても法華経以外の機はない。ただし仏法が日本に伝わり始めた時、しばらく小乗の三宗と権大乗の三宗を弘められたが、桓武の時代・伝教大師のときに、六宗は執着する情を破って天台宗となった。倶舎・成実・律の三宗の学者もかの教えにしたがって、七賢位や三道を修行して見惑・思惑を断じて、二乗となろうとは思わず、ただ彼の宗を習って大乗の初門としたのであり、かの極を得ようとは思わなかったのである。
権大乗の三宗を習う者も五性を各々別とする等の宗義を捨てて、一念三千・五輪観等の妙観を求めた。大小・権実を知らない在家の檀那等も一向に法華・真言の学者の教えにしたがって、これを供養した。日本は一国をあげて、インドや中国とは違い、ただ純円の機である。恐らくは霊鷲山八年の機と同じである。このことから考えると、浄土の三師は中国の人であり、権大乗の機を超えない。法然においては純円の機・純円の教・純円の国であることを知らず、権大乗の一分である観経等の念仏や、権実をも弁えない中国の三師の釈をもってこの国に流布させ、実教の機の人に権法を授け、純円の国を権教の国とした、醍醐を味わった者に蘇味を与えるようなもので、その失は誠に甚だしく多い。