同志と共に

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真言天台勝劣事しんごんてんだいしょうれつじ

問う何なる経論に依つて真言宗を立つるや、答う大日経・金剛頂経・蘇悉地経並びに菩提心論此の三経一論に依つて真言宗を立つるなり、 問う大日経と法華経と何れか勝れたるや、答う法華経は或は七重或いは八重の勝なり大日経は七八重の劣なり、 難じて云く驚いて云く古より今に至るまで法華より真言劣ると云う義都て之無し之に依つて弘法大師は十住心を立てて法華は真言より三重の劣と釈し給へり覚鑁は法華は真言の履取に及ばずと釈せり打ち任せては密教勝れ顕教劣るなりと世挙つて此を許す七重の劣と云う義は甚珍しき者をや、答う真言は七重の劣と云う事珍しき義なりと驚かるるは理なり、所以に法師品に云く「已に説き今説き当に説かん而も其の中に於て此の法華経は最も為れ難信難解なり」云云、又云く「諸経の中に於て最も其の上に在り」云云、此の文の心は法華は一切経の中に勝れたり此其一、次に無量義経に云く「次に方等十二部経摩訶般若華厳海空を説く」云云、又云く「真実甚深甚深甚深なり」云云、此の文の心は無量義経は諸経の中に勝れて甚深の中にも猶甚深なり然れども法華の序分にして機もいまだなましき故に正説の法華には劣るなり此其二、次に涅槃経の九に云く「是の経の世に出ずるは彼の果実の利益する所多く一切を安楽ならしむるが如く能く衆生をして仏性を見せしむ、法華の中の八千の声聞記〓を得授するが如く大果実を成じ秋収冬蔵して更に所作無きが如し」云云、籤の一に云く「一家の義意謂く二部同味なれども然も涅槃尚劣る」云云、此の文の心は涅槃経も醍醐味・法華経も醍醐味同じ醍醐味なれども涅槃経は尚劣るなり法華経は勝れたりと云へり、涅槃経は既に法華の序分の無量義経よりも劣り醍醐味なるが故に華厳経には勝たり此其三、次に華厳経は最初頓説なるが故に般若には勝れ涅槃経の醍醐味には劣れり此其四、次に蘇悉地経に云く「猶成ぜざらん者は或は復大般若経を転読すること七遍」云云、此の文の心は大般若経は華厳経には劣り蘇悉地経には勝ると見えたり此其五、次に蘇悉地経に云く「三部の中に於て此の経を王と為す」云云、此の文の心は蘇悉地経は大般若経には劣り大日経金剛頂経には勝ると見えたり此其六、此の義を以て大日経は法華経より七重の劣とは申すなり法華の本門に望むれば八重の劣とも申すなり。 第2章 次に弘法大師の十住心を立てて法華は三重劣ると云う事は安然の教時義と云う文に十住心の立様を破して云く五つの失有り謂く一には大日経の義釈に違する失・二には金剛頂経に違する失・三には守護経に違する失・四には菩提心論に違する失・五には衆師に違する失なり、此の五つの失を陳ずる事無くしてつまり給へり、然る間法華は真言より三重の劣と釈し給へるが大なる僻事なり謗法に成りぬと覚ゆ、次に覚鑁の法華は真言の履取に及ばずと舎利講の式に書かれたるは舌に任せたる言なり証拠無き故に専ら謗法なる可し、次に世を挙げて密教勝れ顕教劣ると此を許すと云う事是れ偏に弘法を信じて法を信ぜざるなり、所以に弘法をば安然和尚五失有りと云うて用いざる時は世間の人は何様に密教勝ると思ふ可き抑密教勝れ顕教劣るとは何れの経に説きたるや是又証拠無き事を世を挙げて申すなり、 猶難じて云く大日経等は是中央大日法身無始無終の如来法界宮或は色究竟天他化自在天にして菩薩の為に真言を説き給へり法華は釈迦応身霊山にして二乗の為に説き給へり或は釈迦は大日の化身なりとも云へり、成道の時は大日の印可を蒙て〓字の観を教えられ後夜に仏になるなり大日如来だにもましまさずば争か釈迦仏も仏に成り給うべき此等の道理を以て案ずるに法華より真言勝れたる事は云うに及ばざるなり、答て云く依法不依人の故にいかやうにも経説のやうに依る可きなり、大日経は釈迦の大日となつて説き給へる経なり故に金光明と最勝王経との第一には中央釈迦牟尼と云へり又金剛頂経の第一にも中央釈迦牟尼仏と云へり大日と釈迦とは一つ中央の仏なるが故に大日経をば釈迦の説とも云うべし大日の説とも云うべし、又毘盧遮那と云うは天竺の語大日と云うは此の土の語なり釈迦牟尼を毘盧遮那と名づくと云う時は大日は釈迦の異名なり加之旧訳の経に盧舎那と云うをば新訳の経には毘盧遮那と云う然る間・新訳の経の毘盧遮那法身と云うは旧訳の経の盧舎那他受用身なり、故に大日法身と云うは法華経の自受用報身にも及ばず況や法華経の法身如来にはまして及ぶ可からず法華経の自受用身と法身とは真言には分絶えて知らざるなり法報不分二三莫弁と天台宗にもきらはるるなり、随つて華厳経の新訳には或は釈迦と称づけ或は毘盧遮那と称くと説けり故に大日は只是釈迦の異名なりなにしに別の仏とは意得可きや、 第3章 次に法身の説法と云う事何れの経の説ぞや弘法大師の二教論には楞伽経に依つて法身の説法を立て給へり、其の楞伽経と云うは釈迦の説にして未顕真実の権教なり法華経の自受用身に及ばざれば法身の説法とはいへどもいみじくもなし此の上に法は定んで説かず報は二義に通ずるの二身の有るをば一向知らざるなり、故に大日法身の説法と云うは定んで法華の他受用身に当るなり、次に大日無始無終と云う事既に「我昔道場に坐して四魔を降伏す」とも宣べ又「四魔を降伏し六趣を解脱し一切智智の明を満足す」等云云、此等の文は大日は始て四魔を降伏して始て仏に成るとこそ見えたれ全く無始の仏とは見えず、又仏に成りて何程を経ると説かざる事は権経の故なり実経にこそ五百塵点等をも説きたれ、次に法界宮とは色究竟天か又何れの処ぞや色究竟天或は他化自在天は法華宗には別教の仏の説処と云うていみじからぬ事に申すなり又菩薩の為に説くとも高名もなし例せば華厳経は一向菩薩の為なれども尚法華の方便とこそ云はるれ、只仏出世の本意は仏に成り難き二乗の仏に成るを一大事とし給へりされば大論には二乗の仏に成るを密教と云ひ二乗作仏を説かざるを顕教と云へり、此の趣ならば真言の三部経は二乗作仏の旨無きが故に還つて顕教と云ひ法華は二乗作仏を旨とする故に密教と云う可きなり、随つて諸仏秘密の蔵と説けば子細なし世間の人密教勝ると云うはいかやうに意得たるや但し「若し顕教に於て修行する者は久く三大無数劫を経」等と云えるは既に三大無数劫と云う故に是三蔵四阿含経を指して顕教と云いて権大乗までは云わず況や法華実大乗までは都て云わざるなり。 次に釈迦は大日の化身〓字を教えられてこそ仏には成りたれと云う事此は偏に六波羅蜜経の説なり、彼の経一部十巻は是れ釈迦の説なり大日の説には非ず是れ未顕真実の権教なり随つて成道の相も三蔵教の教主の相なり六年苦行の後の儀式なるをや、彼の経説の五味を天台は盗み取つて己が宗に立つると云う無実を云い付けらるるは弘法大師の大なる僻事なり、所以に天台は涅槃経に依つて立て給へり全く六波羅蜜経には依らず況んや天台死去の後百九十年あつて貞元四年に渡る経なり何として天台は見給うべき不実の過弘法大師にあり、凡そ彼の経説は皆未顕真実なり之を以て法華経を下さん事甚だ荒量なり、 第4章 猶難じて云く如何に云うとも印真言・三摩耶尊形を説く事は大日経程法華経には之無く事理倶密の談は真言ひとりすぐれたり、其の上真言の三部経は釈迦一代五時の摂属に非ずされば弘法大師の宝鑰には釈摩訶衍論を証拠として法華は無明の辺域・戯論の法と釈し給へり・爰を以て法華劣り真言勝ると申すなり、答う凡そ印相尊形は是れ権経の説にして実教の談に非ず設い之を説くとも権実大小の差別浅深有るべし、所以に阿含経等にも印相有るが故に必ず法華に印相尊形を説くことを得ずして之を説かざるに非ず説くまじければ是を説かぬにこそ有れ法華は只三世十方の仏の本意を説いて其形がとあるかうあるとは云う可からず、例せば世界建立の相を説かねばとて法華は倶舎より劣るとは云う可からざるが如し、 第5章 次に事理倶密の事・法華は理秘密・真言は事理倶密なれば勝るとは何れの経に説けるや抑法華の理秘密とは何様の事ぞや、 法華の理とは迹門・開権顕実の理か其の理は真言には分絶えて知らざる理なり、法華の事とは又久遠実成の事なり此の事又真言になし真言に云う所の事理は未開会の権教の事理なり何ぞ法華に勝る可きや、次に一代五時の摂属に非ずと云う事是れ往古より諍なり唐決には四教有るが故に方等部に摂すと云へり、教時義には一切智智・一味の開会を説くが故に法華の摂と云へり、二義の中に方等の摂と云うは吉き義なり、所以に一切智智・一味の文を以て法華の摂と云う事甚だいはれなし彼は法開会の文にして全く人開会なし争か法華の摂と云わるべき、法開会の文は方等般若にも盛んに談ずれども法華に等き事なし彼の大日経の始終を見るに四教の旨具にあり尤も方等の摂と云う可し、所以に開権顕実の旨有らざれば法華と云うまじ一向小乗三蔵の義無ければ阿含の部とも云う可からず、般若畢竟空を説かねば般若部とも云う可からず、大小四教の旨を説くが故に方等部と云わずんば何れの部とか云わん、又一代五時を離れて外に仏法有りと云う可からず若し有らば二仏並出の失あらん、又其の法を釈迦統領の国土にきたして弘む可からず、次に弘法大師釈摩訶衍論を証拠と為て法華を無明の辺域戯論の法と云う事是れ以ての外の事なり、釈摩訶衍論は竜樹菩薩の造なり、是は釈迦如来の御弟子なり争か弟子の論を以て師の一代第一と仰せられし法華経を押下して戯論の法等と云う可きや、而も論に其の明文無く随つて彼の論の法門は別教の法門なり権経の法門なり是円教に及ばず又実教に非ず何にしてか法華を下す可き、其の上彼の論に幾の経をか引くらんされども法華経を引く事は都て之無し権論の故なり、地体弘法大師の華厳より法華を下されたるは遥に仏意にはくひ違いたる心地なり、用ゆべからず用ゆべからず。