同志と共に

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蓮盛抄れんじょうしょう

禅宗はいう。
涅槃の時、世尊は法座に登り、華をひねって弟子たちに示した。迦葉だけが顔をほころばせて微笑んだ。
仏は言われた。
「私には正法眼蔵[一切経の眼である正しい法がある]・涅槃の妙心[悟りの不思議な心]・実相無相[森羅万象の真実の相は相対的な差別の相を持たない]・微妙の法門がある。文字を立てず、教外別伝[経典や教説とは別に心から心へ伝えること]し、摩訶迦葉だけに付属する」
問うていう。
何という経文か。
禅宗は答えていう。
大梵天王問仏決疑経の文である。
問うていう。
その経はどのような三蔵の訳か。貞元・開元の録の中にかつてそのような経典はない。
禅宗は答えていう。
この経は秘密の経である。故に文だけがインドから伝わった。
問うていう。
どの聖人・どの人師の時代に伝わったのか。跡形は無い。この文は上古の録[大蔵経の目録]に載っておらず、中頃からこのことを載せている。この事は禅宗の根源である。最も古い目録に載っているべきである。知ることのない虚偽の経典である。
禅宗はいう。
涅槃経の二にこうある。
「私は今所有の無上の正法をことごとく摩訶迦葉に付属する」
この文をどう考えるか。
答えていう。
無上という言葉は大乗に似ているが、これは小乗を指すものである。外道[仏教以外の法]に対すれば小乗も正法といえる。例えば、大法東漸というのを妙楽大師の解釈の中に「大法とは通じて仏教を指す」といって、大小権実をまとめて大法というようなことである。外道に対すれば小乗も大乗といわれ、身分の低いものでも対比によっては殿と呼ばれ、身分の高い方といわれるようなものである。
涅槃経の三にこうある。
「もし法宝[大乗]を阿難やその他多くの僧に付属すると、長く存在することはできない。なぜかというと、一切の声聞や大迦葉はことごとく無常であるからである。かの老人[声聞の比丘]が他の贈り物を受けるようなものである。そのために無上の仏法を多くの菩薩に付属するのである。多くの菩薩はよく問答するので、このような法宝は長く存在することができ、無量千世増益熾盛(計り知れないほどの多くの世まで利益を盛んに増すこと)にして、衆生を利益し安穏にするのである。かのさかんな人[多くの菩薩]が他の贈り物を受けるようなものである。この理由のゆえに諸大菩薩にはよく問うことができるのである」
大乗・小乗の付属がそれぞれ別であることが明白である。
同経の十にはこうある。
「汝等よ。文殊菩薩は四衆の為に広く大法を説くだろう。今この経法を文殊菩薩に付属する。(中略)迦葉・阿難等も来るならば、またこのような正法を付属すべきである」
ここで知ることができる。文殊菩薩や迦葉それぞれに大法が付属されたのであると。
しかし仏から付属された法は小乗である。悟性論にこうある。
「人が心を悟ることがあれば菩提の道を得る。故に仏と名づく」
だが菩提にも五種類ある。どの菩提なのか。得道もまた種々ある。どの得道なのか。法華経以外に明かすところは大菩提ではない。また無上道でもない。
無量義経にこうある。
「四十余年未顕真実(四十年余りは未だ真実を顕さず)」
問うていう。
法華経において、貴い者・賤しい者・男・女は何れの菩提の道を得られるのか。
答えていう。
「(中略)一偈でも皆成仏することは疑いない」(法華経法師品)
またこうある。
「仏の本意通りに方便を捨て、ただ無上道を説く」(法華経方便品)
これらのことから、法華経の菩提は最高であることがわかる。
またこうある。
「一瞬でも法華経を聞いて、直ちに無上の完全なる悟り極めることができる」
この菩提を得ることは、一瞬でもこの法門を聞く功徳である。
問うていう。
須臾とは三十の須臾を一日一夜という。「須臾聞之(須臾もこれを聞いて)」の須臾はこれを指すのか。
答える。
そのとおりである。
天台大師は魔訶止観の二でこう述べている。
「須臾も廃してはいけない」
止観輔行伝弘決にはこうある。
「しばらくも廃することを許さない故に須臾という」
したがって須臾とは刹那[瞬間]のことである。
問うていう。
(禅宗では)本分の田地に基づくことを禅の手本とするといっている。
答える。
本分の田地とは何ものか。またどの経に出ているのか。
法華経だけが人界・天界の人々を幸福な境涯に変える法である。そのため人界・天界の人々を教化されたのである。故に仏を天人師と呼ぶ。この経を信じる者は、自分自身の内にある仏を見るだけではなく、過去・現在・未来の三世の仏を見ることができる。それは浄頗梨ジヨウハリ鏡に向かうと、はっきりと姿を見るようなものである。
このことは法華経法師功徳品にこう説かれている。
「また浄明鏡に、ことごとくすべての姿を見るようなものである」
禅宗がいう。
この心はそのまま仏であり、この身体がそのまま仏である。
答えていう。
正法念処経にこうある。
「心は第一の怨である。この怨を最も悪とする。この怨は人を縛って閻魔大王のところに連れていく。あなたは一人地獄の炎に焼かれて、悪業のために養っている妻子や兄弟等の親族も救うことはできない」
涅槃経にはこうある。
「願って心の師となって、心を師としてはいけない」
愚かで恥を知らない心で、「即心即仏」と立てるのは、まさしく豈未得謂得・未証謂証(まだ悟りを得ていないのにあたかも得たかのように錯覚し、まだ悟りの証が立っていないのにあたかも立っているかのように錯覚すること)と思う人ではないか。
問う。法華宗の本意は何か。
答える。
経文[法華経化城喩品]にこうある。
「具三十二相・乃是真実滅(三十二相を具える。すなわちこれが真実の悟りである)」
またこうある。
「速成就仏身(すみやかに仏身を成就する)」(寿量品)
しかし禅宗は理としての仏性を尊んで、自分が仏に等しいと思い増上慢に堕ちる。必ず阿鼻地獄に堕ちる罪人である。
したがって法華経(方便品)にこうある。
「増上慢の僧侶はまさに大きい穴に墜ちようとする」
禅宗では、"毘盧遮那仏ビルシヤナブツの頂を踏む"という。
毘盧遮那仏とは何者か。
もし法界を周りあまねく行き渡る宇宙そのものの法身であるなら、山や川・大地もすべて毘盧遮那仏の身体と国土である。理としての仏性の毘盧遮那仏である。この身体と国土であるなら犬やキツネの類も踏む。禅宗の教義でもなんでもない。
また、もし実際仏の頂を踏むというのであれば、梵天もその頂を見ることができないといっているのに、下劣な凡夫にどうしてこれを踏むことができようか。
そもそも仏は一切衆生において主師親の徳がある。もし恩徳の広い慈父を踏むなどとは、不孝であり逆罪を犯す大愚人・悪人である。孔子の書物でさえこのような輩は排斥される。まして如来の正法ではなおさらである。どうしてこのような邪な者や間違った法を讃めて、量り知れないほど多くの重罪を得てよいものか。釈尊在世の迦葉は「頭頂礼敬(頭頂をもって礼敬す)」といっていたのに、入滅後の愚かな禅宗の信徒は仏の頭頂を踏むという。恐るべきことである。
禅宗はいう。
「教外別伝不立文字(教の外に別に伝えて文字を立てない)」
答えていう。
およそ世の中に流布している教えには三種類がある。
一には儒教である。これには二十七種類がある。
二には道教である。これには二十五家がある。
三には十二分教[仏教]である。天台宗では四教・八教を立てている。
禅宗はこれらの教えの外に立っているというのか。医師の決まりで、医学本道の外を外経師という。人間の言葉では姓の続いていないものを外戚という。仏教では経論にはずれたものを外道という。
涅槃経にこうある。
「もし仏の所説に従わない者がいるならばまさに知るべきである。この人は魔の眷属である」
止観輔行伝弘決の巻九にはこうある。
「法華経が説かれる以前は外道の弟子である」
禅宗はいう。
「仏祖不伝(仏や祖師は伝えず)」
答えていう。
それではどうしてインドの二十八祖や、中国の六祖を立てるのか。
摩訶迦葉に付属したという立義はすでに破綻しているではないか。自語相違ではないのか。
禅宗はいう。
「向上の一路(絶対の悟りの境地に達する一筋の道)は先代の聖人も伝えていない」
答える。
そうすると今の禅宗も向上の一路については誰も理解できないではないか。もし理解できなければ禅といえないではないか。
だいたい向上の一路ということをいいながら驕慢にとらえられ、いまだ迷いの心も対治しないのに、わが仏性を見れば成仏できると奢り、機根と法が互いに離反したままである。この責任は重大である。いずれにせよ化儀を妨げるものである。その過失はますます多い。
教外といいながら教外を学び、文筆を嗜みながら文字を立てないという。言葉と心が相応していない。まさしく天魔の部類・外道の弟子ではないか。仏は文字によって人々を救済されるのである。
問う。
その証拠は何か。
答えていう。
涅槃経の十五にこうある。
「願わくは多くの衆生はことごとくすべて仏教の文字を受持しなさい」
また像法決疑経にこうある。
「文字による故に衆生を救い菩提を得る」
もし文字を離れるならば何をもって仏事[衆生教化]とするのか。
禅宗は言語を人に示さないのか。もし示さないというなら、南インドの達磨は楞伽経四巻によって五巻の注釈書を作り、弟子の慧可に伝える時に、"私が中国の仏教界を見たところ、ただこの経だけが人々を救うことができるだろう。あなたはこの経によって世の人々を救済しなさい"と言った。この通りなら教外別伝というのは筋が通らない。
次に仏祖不伝という言葉にいたっては、"冷煖二途・唯自覚了(冷たい・暖かいの二つはただ自分で覚知するしかない)"というのも文字によるのではないか。それも文字によって相伝を受けた後に、冷たい・暖かいを自分で知るのである。このことは法華経にこうある。
「悪い師匠や友人を捨てて善い友に親近せよ」
魔訶止観にはこうある。
「師と出会わなければ邪な智慧が日ごとに増し、生死の苦しみは月ごとに甚しい。密林で曲がった木を引っ張るように苦しみから出る時期は無い」
だいたい世間の問題でさえ他人に相談する。まして出世間の深い真理をたやすく自分を本分とできようか。
故に経にこうある。
「近くを見ることができないことは人の睫マツゲのようであり、遠くを見ることができないのは空中の鳥が飛んだ跡のようである」
上根・上機の坐禅はしばらく置く。
今の世の禅宗はかめを被って壁に向うようなものである。
法華経にこうある。
「眼が見えないために偉大な仏や苦しみを断つ法を求めず、深く多くの間違った考えにとらわれて、まるで苦しみで苦しみを捨てようとしている」
止観輔行伝弘決にはこうある。
「世間の明らかな言葉すら知らない。まして仏法の中道の深遠な真理を認識できるはずがない。円満で常住の秘密の妙法の教えをどうして簡単に認識できるであろう」
今の世の禅者はすべて大きく誤った考えを持つ人々である。とりわけ三惑をいまだ断じていない凡夫の禅僧の語録を用いて、四智が円満に具わる如来の言葉や教えを軽んじるのか。かえすがえす過った者である。
病気になっても効く薬を与えず、人々にその機根にかなった教えを示さないようなものである。
仏の位に等しい菩薩ですら、なお教えを必要とする。位の低い愚人がどうして経を信じないでおれようか。
このような禅宗が中国に興こったのでその国はたちまち亡んだのである。日本が滅ぶ前兆として闇証の禅師が充満している。
魔訶止観にこうある。
「これはすなわち法を滅ぼす妖怪である。またこれは時代の妖怪である」
禅宗はいう。
法華宗は不立文字という教義を破折するが、どうして仏は「一字不説(一字も説かず)」と説かれたのか。
答える。あなたは楞伽経の文を引用した。本住法[真理は不変で仏は明らかにしただけであり、勝手に一言・一字を説いたものではない]と自証法[仏の内証の真実]の二義を知らないのか。学んでいないのなら習いなさい。
そのうえ楞伽経は「未顕真実」と破折されている。どうして指南としてよいだろう。
問うていう。
像法決疑経にこうある。
「如来が一句の法ですら説いたのを見たことはない」
答える。
これは常施菩薩の言葉である。
法華経にこうある。
「菩薩はこの法を聞いて疑いの網をすべて既に除くことができた。千二百の阿羅漢もことごとく作仏するだろう」
すなわち八万の菩薩も千二百の阿羅漢もことごとく列座して聴聞し随喜したが、常施菩薩一人だけはいなかった。
どちらの説によるべきか。
法華経の会座に挙げられる菩薩の上首の中に常施菩薩の名はない。「如来が一句の法ですら説いたのを見たことはない」というのも道理である。
ましてその次にこうある。
「しかし多くの衆生が迷いの苦しみを出たり没したりするのを見て、法を説いて人を救う」
どうして"説かない"の一句を留めて、"説くべし"の妙理を失うのか。
あなたの立てる義はひとつひとつが大きな誤りの見解である。執着心を改めて法華経に帰伏しなさい。さもなければ求道心のない者となる。