釈迦仏は私たちにとって主であり、師であり、親である。
(ただ我)一人が(すべての衆生を)救い護ると説かれている。
阿弥陀仏は私たちにとって主でもなく親でもなく師でもない。それゆえ天台大師はこれを解釈していわれている。
「西方(十万億土)は仏も別であり、機縁も異なっている。仏が別であるから隠顕の義[仏が隠れたりあらわれたりしながら衆生を教化すること]は成立しない。
縁が異なるゆえに子父の義も成立しない。またこの経の最初から終わりまでには全くこの旨はない。眼を閉じて深く考えなさい」
実に釈迦仏は中インドの浄飯大王の太子として(生まれ)、御年十九歳で家を出られて檀特山という山に篭られた。高い峰に登ってはたきぎをとり、深い谷に下っては水を汲み、難行苦行して御年三十のときに仏になられ、一代聖教を説かれたのである。
しかし、表面的には華厳・阿含・方等・般若等の種々の経々を説かれたが、内心では法華経を説こうと思われていた。
けれども、衆生の機根がまちまちであり、一様でなかったので、仏の御心は説かれず、人の心に随って多くの経を説かれたのである。
このようにして、四十二年の間は心苦しく思われていたが、今法華経に至って"我が願いは既に満足した。自分と同じように衆生を仏にしよう"と説かれたのである。
久遠の昔より、鹿や熊となり、あるときは鬼神に食われた。このような功徳を、法華経を信じる衆生は真の仏子であり、真実の我が子であるから、この功徳をこの人に与えようと説かれたのである。
これほどに思ってくださる親の釈迦仏をないがしろに思い、「唯以一大事(ただ一大事の因縁をもって)」と説かれた法華経を信じない人が、どうして仏になることができようか。
よくよく心に留めて思案しなさい。
(法華経の)第二巻にこうある。
「もし人が信じないでこの経を毀謗するならば、即ち一切世間の仏種を断つことになる。[中略]法華経以外の経の一偈でも受けてはならない」
文の主旨は、仏になるためにはただ法華経を受持する事を願い、法華経以外の経の一偈一句でも受けてはならないということである。
第三巻にはこうある。
「飢饉の国から来て、いきなり大王の膳に遇うようなものである」
文の主旨は、飢えた国から来て、たちまち大王の膳に遇うようなものである。その心は、犬や野干[狐に似た動物]の心をもったとしても、迦葉や目連等のような小乗の心を起こしてはいけない。破れた石が合致することがあっても、枯れた木に花が咲いたとしても、二乗は仏になることはできないと(仏が)仰られたので、須菩提は茫然として手の一鉢を落とし、迦葉の泣き叫ぶ声は大千世界を響かせるほど嘆き悲しんだが、今法華経に至って、迦葉尊者は光明如来の記別を授かったので、目連・須菩提・摩訶迦旃延等はこれを見て、私たちも必ず仏になる。飢えた国から来てたちまちに大王の膳に遇うようなものであると喜んだ文である。
私たち衆生は、限りない昔から妙法蓮華経の如意宝珠を片時も離れなかった。しかし、無明の酒にたぶらかされて、衣の裏にかけてあることを知らずに、少しの利益を得て満足だと思っていた。南無妙法蓮華経とさえ唱えるならば、速やかに仏に成ることができる衆生であるのに、五戒や十善戒等のわずかな戒を持って、あるときは天に生まれて、大梵天や帝釈天という身と成って、素晴らしいことと思ったり、あるときは人として生れて多くの国王・大臣・公卿・殿上人等の身と成って、これほどの楽しみはないと思って、少しばかりの果報を得て満足だと思って喜んでいた。
これを仏は夢の中の栄であり、幻の楽しみである。ただ法華経を持って速やかに仏になるべきであると説かれたのである。
また第四巻にこうある。
「しかもこの経は如来が現に在ます時でさえ猶怨嫉が多い。まして滅度の後においては」
釈迦仏は師子頬王キヨウオウの孫であり、浄飯王の嫡子である。十善の位を捨てて、また全インド第一の美女であった耶輸多羅女ヤシユタラニヨを捨てて、御年十九歳で出家して修行につとめた。御年三十歳で成道されて、三十二相・八十種好のお姿となり、御幸される時は大梵天王や帝釈天が左右に立ち、多聞天・持国天等の四天王が前後を取り囲んだ。法を説かれる時は、四弁・八音の説法が祇園精舎に満ち、三智・五眼の徳は四海に行き渡った。
したがって、何れの人が仏を憎むであろうかと思われたが、なお怨嫉するものは多かった。
まして入滅された後、毛筋ほどの煩悩も断じることができず、少しの罪も弁えない法華経の行者を憎み嫉む者が雲霞のように多くなるだろうと考えられる。
したがって、末代悪世にこの法華経をありのままに説く人には敵が多いと説かれているのであるが、世間の人々が、自分も持った、自分も読んだ、行じたといっているが、敵がいないのは仏の虚言であるのか、法華経が真実ではないのか。
また真実の経でないなら、今の世の人々が法華経を読んでいるのは、うわべだけなのか。真実の行者ではないからなのか。
よくよく心得るべきことであり、明らかにしなければならないことである。
第四巻の多宝如来は、釈迦牟尼仏が御年三十にして仏に成られ、初めに華厳経という経を十方蓮華蔵世界において、毘盧遮那仏が法を説かれる姿をもって、別教に円教を兼ね、頓教の大乗の法輪を、法慧・垢徳林・金剛幢・金剛蔵の四菩薩に対して三七[二十一]日の間説かれたときには来られなかった。
そのときの二乗の機根がかなっていなかったからなのか。瓔珞細ナンの衣[宝石などで飾られた衣]を脱ぎ捨てて、ソ弊垢膩の衣[ぼろぼろの垢じみた服]を着て、波羅奈ハラナイ国の鹿野苑ロクヤオンに赴いて、十二年の間、生滅四諦の法門を説かれたところ、阿若倶鄰アニヤクリン等の五人が証果を得、八万の諸天は無生忍の位を得た。
次に欲と色の二界の中間の大宝坊の儀式や、浄名の御室に三万二千の牀トコを立てた時や、般若時の白鷺池の辺ホトリの十六会の儀式で、染浄虚融ゼンジヨウコユウの理を説かれた時にも来なかった。
法華経でも一の巻から四の巻の人記品までは来られず、宝塔品に至って初めて来られた。
釈迦仏は今まで四十年余りの経を、自ら虚事であると仰せられたが、人は信用しなかった。
法華経は真実であると説かれても、仏というものはうそのない人であり、長い間うそを言わないと聞いていたのに、一日や二日ではなく、ひと月やふた月でもなく、一年・二年でもなく、四十年余りの間うそをついていたと仰られたので、またこの経を真実と説いていることも虚言だろうと不審に思ったのである。
この不審は釈迦仏一人や、舎利弗(をはじめとする弟子等)では晴れがたい。(そこで)この多宝仏が宝浄世界よりはるばる来られて、「法華経はすべて真実である」と証明されたので、今までの四十年余りの経は虚言であったと仰られたことは事実であったと定まった。
また、法華経以外のすべての経を暗誦して、文々句々を阿難尊者のように覚り、富楼那の弁舌のように説くこともそれほど難事とはしない。
また、須弥山という山は十六万八千由旬の金山であるが、(それを)他方の世界へ小石のように投げる者があっても難しい事ではない。
しかし、仏が入滅された後、今の世・末代悪世において法華経をありのままによく説くことは難しいことであると説かれている。
全インドにおいて一番の力持ちであった提婆達多も、長さ三丈五尺・幅一丈二尺の石を仏になげつけた。また中国で一番の怪力であった楚の項羽という人も、九石コク入りの釜に水を満たして持ち上げたといわれる。
しかしここでは須弥山をなげる者があっても、この経を説かれたように読む人はいないと説かれているのに、人ごとにこの経を読んだ・書いた・説いたというのは、経文を虚言にして、今の世の人々はすべて法華経の行者であると思うべきなのか、よくよく心得なければならないことである。
五の巻提婆品にこうある。
「もし善男子・善女人がいて、妙法華経の提婆達多品を聞いて、浄い心で信じ敬い、疑惑を起こさない者は、地獄界・餓鬼界・畜生界に堕ちず、十方の世界の仏の前に生まれるだろう」
この品には二つの大事がある。
一つには提婆達多というのは、阿難尊者には兄であり、斛飯王には嫡子であり、師子頬王には孫であり、仏のいとこであったが、仏が一閻浮提第一の道心者であったことをうらんで、自分はそれでは世界一の邪見放逸の者となろうと誓って、多くの悪人を誘って仏に怨嫉し、三逆罪を作って生きた身のままで、大地が破れて無間地獄に堕ちた。しかし天王如来という記別を授けられる品なのである。したがって、善男子といわれているように、男がこの経を信じて聴聞するならば、提婆達多ほどの悪人でさえ仏になったのである。まして末代の人はたとえ重罪であるとしても、多くは十悪をすぎることはないので、深く持つ人が仏にならないわけがない。
二つには娑竭羅シヤカツラ竜王の娘の竜女という八歳のへびが仏に成った品である。このことは珍しく貴い事である。
その理由は、華厳経にこうある。
「女性は地獄の使いである。よく仏の種子を断つ。外面は菩薩のようであるが、内心は夜叉のようである」
文の趣旨は、女性は地獄の使いであり、よく仏の種を断つ。外面は菩薩に似ているが内心は夜叉のようであるということである。
またこうある。
「一度女性を見る者は、眼の功徳を失う。たとえ大蛇を見ることがあっても女性を見てはならない」
またある経には「所有の三千世界の男子の諸の煩悩を合わせ集めて一人の女性の業障とする」とあり、三千大千世界のあらゆる男子の多くの煩悩を取り集めて、女性一人の罪とするとしている。またある経には「三世の諸仏の眼が脱けて大地に堕ちることがあっても、女性が仏に成ることはできない」と説かれている。この品の趣旨は、人と畜生のことをいうなら、畜生である竜女でさえ仏に成った。まして私たちは形のように人間の果報を受けている。かの果報に勝っているのであるから、どうして仏に成れないことがあろうか、と思うべきである。
なかでも、(法華経には)三悪道におちないと説かれている。
その地獄というのは、八寒地獄・八熱地獄である。
八大地獄の中で、初めの浅い等活地獄はというと、この一閻浮提の下一千由旬のところにある。
その中の罪人は互いに常に殺害心を抱いている。もし、たまたま出会うことがあれば、猟師が鹿にったように各々鉄の爪で互いにつかみ合い、引き裂きあう。血肉はすべて尽いてただ残るのは骨だけである。
あるいは、獄卒が棒で頭から足の裏に至るまですべて打ち砕く。身は破れて砕け砂のようになる。
焦熱地獄などというのは、たとえようのない苦しさである。鉄の城壁が四方を囲み、門を閉じれば力士でも開きがたい。猛火が高く登り、金翅鳥の翼でも(その上を)翔けることはできない。
餓鬼道というのはその住処に二つある。一つには地下五百由旬の閻魔王宮にあり、二つには人界・天界の中に混じっている。その姿は様々である。腹が大海のようであり、喉は鍼のようなので、明けても暮れても食べており、満足することはない。まして五百生・七百生なども飲食の名さえも聞かない。また、自分の頭を砕いて脳を食べるものもいる。また、一晩に五人の子を生んで夜の内に食べるものもいる。
多くの果実が林に実っており、取ろうとすればことごとく剣の林になる。多くの水が大海に流れて入るが、飲もうとすれば猛火となる。どのようにかればこの苦を免れることができるのか。
次に畜生道というのはその住所に二つある。根本は大海に住み、枝末は人界・天界に混じっている。短いものは長いものに飲まれ、小さいものは大きいものに食べられ、互いに食べあって、しばらくも休むことがない。鳥や獣に生まれたり、牛や馬となっても、重い物を背負わされ、西へ行こうと思えば東へやられ、東へ行こうとすれば西へやられる。山野に多くある水と草のことだけを思ってほかは知ることがない。
しかし善男子・善女人がこの法華経を持ち、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、この三罪から脱れることができると説かれた。何事がこれ以上であろうか。頼もしいことである。頼もしいことである。
また五巻にこうある。
「私は大乗教をひらいて苦しむ衆生を救済する」
心の、私は大乗の教えをひらいてというのは法華経のことをいう。苦しむ衆生とは誰か。地獄の衆生ではない。餓鬼道の衆生でもない。ただ女性を指して苦しむ衆生と名づけているのである。
五障三従といって、三つ従うことがある。また、五つの障りがある。
竜女は、自分が女性の身を受けて、女性の苦しみを積んで知った。したがって、ほかはともかく、女性を導こうと誓った。南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。