十二因縁図について。
問う。
流転の十二因縁とは何か。
答える。
一には無明である。
倶舎論にこうある。
「宿惑シユクワクの位[過去世において煩悩を起こした位]は無明である」
無明とは、昔、愛欲の煩悩が起こったことをいう。男は父に瞋イカリを成して母に愛を起こす。女は母に瞋を成して父に愛を起こす。倶舎論の第九に記されている。
二には行である。
倶舎論にこうある。
「宿ムカシの諸業[過去世の身口意による善悪の種々の業]を行と名づける」
昔の造業を行という。業に二つある。一つは牽引の業である。私たちがまさしく生を受ける業をいう。二つには円満の業である。その他の一切の造業である。いわゆる足を折ったり手を切ったりする先業をいう。これは円満の業である。
三には識である。
倶舎論にこうある。
「識とはまさしく生を形づくる蘊ウンである」
まさしく母の腹の中に入る時の五蘊である。五蘊とは色・受・想・行・識である。また五陰ともいう。
四には名色[身心が胎内で発育し六根を形成するまでの五陰]である。
倶舎論にこうある。
「六処[六根を具足して胎内から出生しようとすること]の前は名色である」
五には六処である。
倶舎論にこうある。
「眼等の根が生じてから、三和[認識の三つの要素である根・境・識が和合すること]の前は六処である」
六処とは眼・耳・鼻・舌・身・意の六根が出来することをいう。
六には触ソク[幼児のときは苦楽の分別がなく物にふれて感じるのみのこと]である。
倶舎論にこうある。
「三受[苦受・楽受・不苦不楽受]の因が異なることから、未だ了知しないときを触と名づける」
火が熱いことも知らず、水が冷たいことも知らず、刀は人を切るものとも知らない時である。
七には受である。
倶舎論にこうある。
「婬愛の前にあるのは受である」
寒さ熱さを知って未だ婬欲を起こさない時である。
八には愛である。
倶舎論にこうある。
「資具[道具や財宝]と淫欲を貪るのは愛である」
女性を愛して婬欲等を起こすことをいう。
九には取である。
倶舎論にこうある。
「諸の境界[五境の享楽]を得るためにあまねく走り回ることを取と名づける」
今世にある時、生活を営んで、他人の物を貪り取る時をいう。
十には有ウである。
倶舎論にこうある。
「有とはまさしくよく当有の果[未来の生存]を引き寄せる業をつくる」
未来世もまたこのように生を受けるべき業を造ることを有という。
十一には生である。
倶舎論にこうある。
「当の有を結することを生と名づける」
未来世にまさしく生を受けて、母の腹に入る時をいう。
十二には老死である。
倶舎論にこうある。
「当の受に至るまでは老死である」
生老死を受けることを老死・憂悲・苦悩という。
問う。
十二因縁を三世・両重(の因果)に分別すればどうなるのか。
答える。
無明と行とは過去の二因である。
識と名色と六入と触ソクと受は現在の五果である。
愛と取と有は現在の三因である。
生と老死は未来の両果である。
私の略頌としていえば、過去の二因・無明行、現在の五果・識名色六入触受、現在の三因・愛取有、未来の両果・生老死となる。
問う。
十二因縁の流転の順序とは。
答える。
無明は行の縁となり、行は識の縁となり、識は名色の縁となり、名色は六入の縁となり、六入は触の縁となり、触は受の縁となり、受は愛の縁となり、愛は取の縁となり、取は有の縁となり、有は生の縁となり、生は老死憂悲苦悩の縁となる。
これによってその生死海に流転するのである。このようにして凡夫となる。
問う。
還滅ゲンメツ門の十二因縁の様子はどうか。
答える。
無明が滅すれば行が滅する。行が滅すれば識が滅する。識が滅すれば名色が滅する。名色が滅すれば六入が滅する。六入が滅すれば触が滅する。触が滅すれば受が滅する。受が滅すれば愛が滅する。愛が滅すれば取が滅する。取が滅すれば有が滅する。有が滅すれば生が滅する。生が滅すれば老死憂悲苦悩が滅する。これがその還滅の様である。仏はこのようにして煩悩を滅していくのである。私見を述べれば、中有の人[死の瞬間から次の誕生までの人]には十二因縁は見えていない。また天上界の人もすべては具えていない。また無色界にもすべては見えていない。
一念三千理事について
十如是とは。
如是相は身である。
法華玄義の二にこうある
「相は外面に拠る。覧ミて別けることができる」
法華玄義釈籤の六にこうある。
「相はただ色にあらわれる」
如是性は心である。
法華玄義の二にこうある。
「性は内面によっている。自らの性分というものは改まらない」
法華玄義釈籤の六にこうある。
「性はただ心にあらわれる」
如是体は身と心である
法華玄義の二にこうある。
「主質[体・実体]を名づけて体とする」
如是力は身と心である。
摩訶止観にこうある
「力は堪忍[じっと持ちこたえ得る働き]とする」
如是作は身と心である。
摩訶止観にこうある。
「建立を作と名づける」
如是因は心である。
摩訶止観にこうある。
「因とは果を招くことを因とする。また名づけて業という」
如是縁とは。
摩訶止観にこうある
「縁とは縁由である。業を助けることによる」
如是果とは。
摩訶止観にこうある。
「果とは剋獲コツカク[勝ち取ること]を果とする」
如是報とは。
摩訶止観にこうある。
「報とは酬因[因に対する報い]を報という」
如是本末究竟等とは。
法華玄義の二にこうある。
「初めの相を手本とし、後の報を末とする」
三種世間とは五陰世間である。
摩訶止観にこうある。
「十種の五陰と十八界が不同であるから、五陰世間と名づける」
衆生世間とは。
摩訶止観にこうある。
「十界の衆生に異なりがあるので衆生世間と名づける」
国土世間とは
摩訶止観にこうある。
「十種の衆生が居住するところを通じて国土世間という」
五陰とは、新訳には五蘊という。
陰とは集まるという意味である。
一に色陰とは五色のことである。
二に受陰とは受け入れることである。
三に想陰について、倶舎論には「想は像として形づくることを体といる」とある。
四に行陰であるが、造作を行という。
五に識陰であるが、分別了解することを識という。
摩訶止観の五では、十住毘婆沙論を引いて「識がまず分別了解し、次に受は受け入れ、相は相貌を形作り、行は違従を明らかにし、色は行によって感じる」とある。
百界千如・三千世間の事。
十界互具は即ち百界と成る。
地獄(衆生世間・十如是)・五陰世間(十如是)・国土世間(十如是・地下赤鉄)、
餓鬼(衆生世間・十如是)・五陰世間(十如是)・国土世間(十如是・地下)、
畜生(衆生世間・十如是)・五陰世間(十如是)・国土世間(十如是・水、陸、空)、
修羅(衆生世間・十如是)・五陰世間(十如是)・国土世間(十如是・海の畔ホトリ・底)、
人(衆生世間・十如是)・五陰世間(十如是)・国土世間(十如是・須弥山を中心に四州)、
天(衆生世間・十如是)・五陰世間(十如是)・国土世間(十如是・宮殿)、
声聞(衆生世間・十如是)・五陰世間(十如是)・国土世間(十如是・同居土)、
縁覚(衆生世間・十如是)・五陰世間(十如是)・国土世間(十如是・同居土)、
菩薩(衆生世間・十如是)・五陰世間(十如是)・国土世間(十如是・同居土、方便土、実報土)、
仏衆(衆生世間・十如是)・五陰世間(十如是)・国土世間(十如是・寂光土)。
摩訶止観の五にこうある。
「心と縁が合わさるならば、則ち三種の世間・三千の性相は皆心より起こる」
止観輔行伝弘決の五にこうある。
「故に摩訶止観で(第五の段に至って)正しく観法を明すとともに、三千の法をもって(修行の)指南とした。すなわちこれは終窮究竟シユウグクキヨウの極説である。故に序の中で(章安大師が)"自分の心の中に行ずる法門を説いた教えである"とあるのはまことに意味のあることである。こいねがわくは、尋ねて読む者は、心に異縁があってはならない」
またこうある。
「妙境の一念三千を明さなければ、どうして一に一切を摂することを識ることができよう。三千(の諸法)は一念の無明を出ることはできない。このためにただ苦因苦果のみがある」
またこうある。
「一切の諸業は十界・百界・千如・三千世間を出ることはない」
法華玄義釈籤の二こうある。
「仮ケは即ち衆生であり、実は即ち五陰及び国土であり、三世間となる。千如の法は皆三世間があり、故に三千世間となる」
止観輔行伝弘決の五にこうある。
「一念の心において十界に約さなければ(あまねく)事象を収めることはできない。三諦に約さなければ理を摂することはできない。十如を語らなければ因果は備わらない。三世間が無ければ依報・正報をおさめ尽くすことはできない」
法華文句記の一にこうある。
「もし三千でなければあまねく一切をおさめることはできない。もし円心でなければ三千を摂することはできない」
法華玄義の二にこうある。
「ただ衆生法は(横に十方界らわたるので)はなはだ広く、仏法は(縦に十方界の頂上の悟りの世界であるから)はなはだ高い。初学の者においては難しいとし、心(を観ずること)は則ち易しいとする」
止観輔行伝弘決の五にこうある。
「初めに華厳経を引くならば、心は巧みなる画師のように種々の五陰を造る。一切世界の中に法として造らないものはない。心のように仏もまた同じである。仏のように衆生も同様である。心と仏及び衆生、この三つに差別は無い。もし人が三世一切の仏を求めようと願うならば、まさにこのように]観じるべきである。心が諸の如来を造るのであると」
金ペイ論にこうある。
「実相は必ず(三千の)諸法であり、諸法は必ず十如(の因果があり)・十如(の因果があるところには)は必ず十界(の差別があり)・十界のあるところには必ず身[色心]と国土がある」
三身についての解釈
まず法身とは
天台大師は大経[涅槃経]を引いてこう解釈されている。
「一切の世俗の法も、もし如来の眼から見ればそのまま第一義諦の真理である。しかし衆生は顛倒して仏法ではないと思っている」
そうであれば、自と他・依と正・魔界と仏界・染・浄、因・果などと異なるけれども、ことごとく皆諸仏の法身に背く事ではないので、善星比丘が不信であっても、楞伽リヨウガ王の信心と同じであり、般若蜜外道の意ココロが邪見であっても、須達長者の正見と異らない。
即ち、この法身の根本は衆生の当体であり、十方諸仏の修行と誓願もただ法身を証得するためであると知るべきである。
次に報身とは
天台大師はこう述べている。
「法性平等の如如の智慧が、如如真実の道に乗じて来て妙覚と成る(ゆえに如来という)のである。智慧は如[真如法性]の理に合うから、その理については如と名づけ、智のほうは来と名づける。即ち報身如来である。また盧舎那と名づけ、ここには浄満と訳す」
これは如如法性の智が如如真実の道に乗じて、妙覚究竟の理智・法界とが冥合した時に、理を如と名づけ智は来となるのである。