同志と共に

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十如是事じゅうにょぜじ

我が身が三身即一身の本覚の如来であることを法華経に説いている。
如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等である。
初めに如是相とは、我が身の姿形にあらわれている相をいう。これを応身如来[人々に慈悲を施す力。衆生の機根に応じて現れる姿]とも、または解脱[煩悩・生死の苦しみ等から離れて大自在の力用を起こすこと]とも、または仮諦[一切の諸法や存在は、有為転変しているものが因縁によって仮に和合しているという真理]ともいう。
次に如是性とは、我が心性をいう。これを報身如来[真理を体得する仏の能性の智慧]とも、または般若[迷いや煩悩を転じて一切の真理を明らかに覚知する高い智慧]とも、または空諦[万法の性分は空であり、我がないという真理]ともいう。
三に如是体とは我がこの身体である。これを法身如来[真理を体とする仏身・所証の理]とも、または中道[万法の本体]とも法性[一切諸法が本然的に備える真実不変の性分]とも寂滅[悟りの境地]ともいう。
したがってこの三如是を三身如来という。この三如是が三身如来であられるのを、よそにあると思って隔てていたが、実は我が身の上にあることであると、こう知る者を法華経を悟った人というのである。
この三如是を根本として、これより残りの七つの如是は出ており、十如是と成る。
この十如是が百界にも千如にも三千世間にも成る。このように多くの法門と成って、八万法蔵といわれるけれども、すべてただ一つの三諦の法であり、三諦以外に法門はないのである。
その理由は百界というのは仮諦である。千如というのは空諦である。三千というのは中諦である。空と仮と中を三諦というのであるから、百界千如・三千世間までの多くの法門と成るといっても、ただ一つの三諦なのである。
したがって、はじめの三如是の三諦と最後の七如是の三諦はただ一つの三諦であり、始めと終わりは我が一身の中の理であって、ただ一つのものであり不可思議であるので、本と末とは究竟して等しいと説かれているのである。
これを如是本末究竟等という。
はじめの三如是を本とし、終わりの七如是を末として、十の如是であるのは、我が身の中の三諦のことである。
この三諦を三身如来ともいうのであるから、我が心身以外には善悪に付けて少しの法もない。ゆえに、我が身がそのまま三身即一身の本覚の如来であるということである。
このことがよそにあると思うことを衆生とも迷いとも凡夫ともいう。
このことは我が身の上のこととと知ることを如来とも覚りとも聖人とも智者ともいう。
こう理解し明らかに観ずれば、この身がそのまま今生の中に本覚の如来をあらわして即身成仏といわれる。
たとえば春夏に田を作り、(稲を)植えれば、秋冬には(刈り取って)蔵に収め。心のままに用いるようなものである。
春より秋を待つ間は長いようであるが、一年の内に待ち望んでいるようになるように、この覚りに入って仏をあらわすまでは長いようであるが、一生の内にあらわして我が身が三身即一身の仏となるのである。
この(仏)道に入る人にも上・中・下の三根があるが、同じく一生の内にあらわすのである。上根の人は聞いたその場で覚りを極めてあらわす。中根の人は一日、もしくは一ケ月、もしくは一年のうちにあらわす。下根の人は理解に進展がなく、行き詰まったままであり、しかも一生の内に限られたことであるから、臨終の時に至って諸の見ていた夢も覚めてうつつになるように、今まで見ていた生死・妄想の間違った思いや偏見が跡形もなくなって、本覚のうつつの覚りにかえって法界を見れば、すべて寂光の極楽であり、日ごろ賤しいと思っていた自分の身が三身即一身の本覚の如来となるのである。
秋の稲には早ワセと中と晩オクの三種の稲があるが、(いずれも)一年の内に収めるように、これも上中下の差別があっても同じく一生の内に諸仏如来と一体不二と思い合わせることができるのである。
妙法蓮華経の法体が素晴らしいことは、どのような体であろうかと調べてみると、我が心性が八葉の白蓮華であるということである。
ゆえに、我が身の体性を妙法蓮華経というのであるから、経の名ではなくもはや我が身の体であると知るならば、我が身がすなわち法華経であり、法華経は我が身の本体を呼びあらわしてくださった仏の御言葉であるので、やがて我が身は三身即一身の本覚の如来となる。
こう覚るならば、無始より以来今まで思い習わしてきた間違った考えの妄想は、昨日の夢を追い払うように、跡形もなくなることとなる。
このことを信じて、一遍でも南無妙法蓮華経と唱えるならば、法華経を覚って、如法に一部を読み奉ることとなる。
十遍は十部、百遍は百部、千遍は千部を如法に読み奉ることになる。こう信じる人を如説修行の人という。南無妙法蓮華経。