(天台宗では)二乗が三界[六道の凡夫の境界]を出なければ、即ち(二つ欠けるので)十法界の数量を失うといっている。
問う。
十界互具を知らない者が、六道流転の分段の生死[三界六道を輪廻する迷いの凡夫の生死]を出離して、変易の土[聖者の住む国土]に生まれることができるだろうか。
答える。
二乗は既に見思惑を断ち、三界に生まれる因が無い。どうして三界内の土に生まれるができよう。
したがって、二乗は永く六道に生まれないのである。故に法華玄義の第二にこうある。
「そもそも変易(の土)に生まれる者に三種がいる。三蔵教の二乗・通教の三乗・別教の三十心の菩薩である」
これらの人はすべて通惑を断じ、変易の土に生まれることができ、三界内の分段の不浄の国土には生じない。
難じていう。
小乗の教えはただ心生の六道を論じているにすぎず、心具の六界を論じていない。したがって、二乗は六界を顕すことはなく、心具を談じない。どうしてただ六界にある見思惑を断じて六道を出ることができようか。ゆえに寿量品にいう「一切世間・天・人・阿修羅」とは爾前経と法華経迹門の両教の二乗、三教の菩薩、そして五時の円人をすべて天・人・阿修羅と表現したのである。どうしていまだ見思惑を断じていない人といわないのか。
答える。
十界互具とは法華経の淵底エンデイ[最も奥深い教え]である。この宗の沖微チュウビ[究極]である。四十年余りの諸経の中にはこのことは秘して伝えていない。ただし四十年余りの多くの経教の中で、無数の凡夫が見思惑を断じて無漏の果[煩悩を断じた境地]を得て、よく二種の涅槃の無為を証得し、塵ほど多い数の菩薩が通・別の惑を断じ、速やかに二種の生死の束縛を超えている。
無量義経の中で、四十年余りの諸経を挙げて「未顕真実」と説くが、しかもなお爾前経においては三乗の得益を許している。
法華経の中において「正直捨方便(正直に方便を捨てて)」と説くが、なお「見諸菩薩授記作仏(多くの菩薩が成仏の記別を受けて作仏するのを見た)」と説く。このような文では、爾前経の説において当分の利益を許しているではないか。
ただし、爾前の諸経では二つの事を説いていない。すなわち真実の十界円融の仏が無くもまた久遠実成を説いていないのである。
したがって、等覚の菩薩に至るまで始成正覚に執着する思いがある。この一点において天・人と同じく迷いの門を挙げ、生死や煩悩を一時に断壊することができないのであり、ただ「未顕真実」と説いたのである。六界の互具を明かさないゆえに、(三界六道を)出ることはできないというこの論難ははなはだ不可解である。六界が互具するならば、それは即ち十界互具することとなる。なぜかというと、権教の果位の心生とは六道の凡夫の区別である。心生を観じることにどうして四聖の高低が無いことがあろうか。
第三重の難としていう。
立てられているところの義は誠に道理があるように見える。詳しく一代聖教の前後を考察すれば、法華経本門並びに観心の智慧を起こさなければ円仏とは成らない。したがって、実の凡夫であり権果さえも得られない。ゆえにあの外道が全インドに出て四顛倒[四徳(常楽我浄)をさかさまに見ること]を立てていたのに対し、如来が出世して四顛倒を破折するために苦・空・無常・無我等を説いた。これは則ち外道の迷情を破折するためである。それゆえ外道の我見を破して無我に住することは、火を捨てて水にしたがうようなものである。頑なに無我に執着して見思惑を断じ六道を出ると思っている。これは迷いの根本である。ゆえに身心をともに滅するという見解に陥る。大集経等の経々に断常の二見と説くのはこのことである。例えば、有漏外道[仏法外の外道]が自ら得道したと思っても、無漏智[煩悩を断じて証得した三乗の清浄の智慧]から見ればいまだ三界を出ていないようなものである。仏教にあわずに三界を出るというのは根拠のないことである。
小乗の二乗もまた同様である。(釈尊が)鹿苑で小乗を説いたとき、外道の我を離れて無我の見解を得た。この迷情を改めないで四十年余り草庵に宿泊するという思いは、しばらくも離れる時は無かった。
また大乗の菩薩において心生の十界を説くが、しかし心具の十界を論じない。またある時は九界の色心を断じ尽くして仏界の一理に進む。このゆえに自ら三惑を断じ尽くして変易の生を離れ、寂光に生まれるだろうと思っている。ところが九界を滅すると考えれば、すなわち断見[生命は生で始まり死で終わる今世だけのものとする考えに執着する誤った見解]である。進んで仏界にると考えれば、すなわち常見[世界が常住不変であると共に人の自我も過去・現在・未来にわたって常住であり、死滅せず、その自我には間断がないと執着する誤った見解]である。九界の色心の常住を滅すると思うことがどうして九法界に迷い惑うことでないことがあろう。
また妙楽大師は述べている。
「ただし心を観じるというのは、理にかなっていない」
この釈の趣意は、小乗の観心は小乗の理にさえかなわないということである。
また天台大師の法華文句第九にこうある。
「七方便はいずれも究竟の寂滅ではない」
この釈は爾前の前三教の菩薩も実際には不成仏というのである。
ただし「未顕真実」と説きながら、三乗の得道を許し、「正直捨方便」と説きながら、しかも「見諸菩薩授記作仏」というのは、天台宗において三種の教相があり、第二の化導の始終の時、過去の世において法華結縁の衆生がいた。爾前の中においてしばらく法華経に導くために、三乗の当分の得道を許した。いわゆる種・熟・脱の中の熟益の位である。これはなお迹門の説である。本門観心の時はこれは実義ではなくなる。一往許しただけである。
その実義を論ずると、如来の久遠実成の本地に迷い、一念三千を知らないので永く六道の流転を出ることはできないのである。
したがって釈にこう説いている。
「円乗の外を名づけて外道となす」また「諸の善男子よ、小法をねがう徳が薄く垢の重い者」
もしそうであれば、経文も釈とともに道理は必然である。
答える。
執着による難詰があっても、その義は不可である。理由は如来の説教は機根に応じて説かれたものであり、虚偽ではないからである。
これをもって頓・漸・秘密・不定等の化儀の四教、蔵・通・別・円等の化法の四教は八種の機根のために説いたものであって、得益が無いわけがない。
ゆえに無量義経には「このゆえに衆生の得道は差別がある」と説く。まことに「ついに無上菩提を成ずることを得ず」と説くといっても、しかも三法・四果の利益がないわけではない。ただこれは、速疾頓成[すみやかに成仏すること]と歴劫迂回[長い道程を経ること]の違いがあるだけである。一向に得道がないわけではない。
したがって、三明六通もあり、あるいは普く色身を現す菩薩もいる。たとえ一心三観を修行して、同体の三惑[見思惑・塵沙惑・無明惑の本体が同一であること]を断じなくても、既に析智[すべての事物・事象を分析して空を観ずる智]をもって見思惑を断じているのであり、どうして三界二十五有を出ないことがあろうか。
このゆえに(天台大師の法華文句の)解釈にこうある。
「もし衆生に遇って小乗を修させると私は慳貪の罪に堕ちる。このことは不可であるとしても、ただ二十五有を出離する」
ここで知ることができる。このことは不可と説くが、しかも三界からの出離はあると。
ただこれは不思議の空を観じないゆえに不思議の空智を顕さないが、どうして小分の空解を起こさないことがあろうか。もし空智をもって見思惑を断じないというなら、開善寺の無声聞の義[法華経の会座には仮に声聞の姿をした菩薩はあっても本当に声聞道にある声聞は参加していなかったとする説]と同じではないか。まして今の法華経は正直に権を捨てて、純粋無二・円融円満の教えであり、一仏乗・真実義を説く経である。多くの爾前の声聞の得益を挙げて「諸の漏がすでに尽きて、もはや煩悩は無い」と説き、また「実に阿羅漢を得てこの法を信じない。これは道理のあることではない」といい、また「三百由旬を過ぎて一城を方便力で作った」と説いている。もし多くの声聞が全く凡夫と同じであるならば、五百由旬一歩も行かなかったことになる。
またこうある。
「自ら得た功徳において滅度の思いを生じて、まさに涅槃に入るだろう。私は他の国において作仏して、更に異なった名になるだろう。この人(声聞)は滅度の思いを生じて涅槃に入るといっても、しかもかの土において仏の智慧を求めて、この経を聞くことを得るだろう」
この文は、既に証果の阿羅漢が法華の会座に来ないで無余涅槃に入り、方便土に生じて法華経の説法を聞くと述べたものである。もしそうであれば、既に方便土に生じているので、どうして見思惑を断じていないことがあろうか。
したがって、天台大師や妙楽大師も「彼土得聞(かの方便土で法華経を聞く)」と釈している。
また爾前の菩薩について「はじめて我が身を見、我が所説を聞いて即ち皆信受し、如来の智慧に入った」と説いている。ここで、爾前の多くの菩薩が三惑を断除して仏慧に入ったと知ることができる。
ゆえに解釈にこうある。
「初めの(華厳の仏慧と)後の(法華の)仏慧と、円頓の義は等しい」[法華玄義]。
あるいは「故に初め(華厳)と終わり(法華)を挙げているが、本意は仏慧にある」[法華玄義釈籤]とある。
もしこれらの説の意義や経・釈がともに誤っているなら、「正直捨権」の説・「唯以一大事」の文、妙法華経の「皆是真実」の証、これらはすべて無益となる。
「皆是真実」の言葉は、一部八巻にわたる。釈迦仏・多宝如来・十方世界の分身の仏が真実を証明するために舌を梵天に至らしめる相を示した神通力、三世諸仏の説いた真理、虚偽ではない真実の証は、むなしく泡沫に同じるであろう。
ただし小乗の断常の二見に至っては、しばらく大乗に対して小乗をもって外道と同じとするのであって、(小乗に)小益が無いわけではない。
また「七方便しいずれも究竟の寂滅ではない」という釈、あるいは「ただし(小乗でも)心を観じるが、実理にかなっていない」という釈は、また円実の大益に対して七方便の利益を下して「究竟の寂滅ではない」・「実理にかなっていない」と解釈したものである。
第四重の難としていう。
法華経本門の観心の意をもって一代聖教を考察すると、菴羅果アンラカを取って掌中に捧げるようなものである。
理由は何かというと、迹門の大教が起これば爾前の大教が亡び、本門の大教が起これば迹門・爾前が亡び、観心の大教が起これば本迹・爾前は共に亡ぶのであって、これは如来の所説の聖教は、浅いところから深いところに至って、次第に迷いを転じるからである。
しかし如来の説は一人のために説かれたのではない。この大道を説いて迷いの一念を除かなければ生死の流転から出ることは難しい。
もし、爾前の中に八教があるというのは、頓はすなわち華厳経・漸はすなわち三味[阿含経・方等教・般若経]・秘密と不定とは前四味[華厳経・阿含経・方等経・般若経]にわたる。蔵はすなわち阿含・方等にわたる。通は方等・般若、円・別はすなわち前四味の中の鹿苑の説[阿含経・]を除く。このように八教の機根がそれぞれ不同であるから教説もまた異なり、四教の教主も不同であるから、その教にあたる機根は他の余仏を知らない。
ゆえに解釈にこうある。
「おのおの衆生はそれぞれの仏がひとりその前におわすと見る。[魔訶止観]
人・天は五戒・十善、二乗は四諦・十二因縁、菩薩は六度[六波羅蜜]・(蔵教の菩薩は)三僧祇・百大劫、あるいは(通教の菩薩は)動逾塵劫、あるいは(別教の菩薩は)無量阿僧祇劫という長い間修し、円教の菩薩は初発心の時、すなわち正覚を成ずると明らかに知ったのである。機根が別であるので仏の説教もまた別なのであり、教が別であるので行もまた別なのである。行が別であるので得果も別である。これは衆生の機根に応じた各別の得益であって不同である。
しかし今、法華経方便品に「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」と説かれたのである。そのとき、八教の機根ならびに四悪趣の衆生がことごとく皆同じく釈迦如来と成り、互いに五眼を具し、一界に十界を具し、十界に百界を具している。
そのとき爾前の諸経を思惟すると、諸経の諸仏は自界に二乗を具えず、二乗もまた菩薩界を具えない。三界の人・天などは成仏の望みも絶えて二乗や菩薩の断惑がそのまま自身の断惑であると知らない。三乗や四聖の智慧は四悪趣を離脱することに似ているが、お互いに界々を隔てているので、真に離脱していない。
しかし法華経ではすべて一体なのである。昔の経では、二乗はただ自界の見思惑を断除すると思って、六界の見思惑を断じることを知らない。菩薩もまた同じである。自界の三惑を断尽しようと欲するが、六界・二乗の三惑を断じることを知らない。真実に証明する時は一衆生即十衆生・十衆生即一衆生である。もし六界の見思惑を断じなかったなら、二乗の見思惑を断じることはできない。
このように本門では説くが、迹門はただ九界が別であるとの迷情を改め、十界互具を明かすゆえに即ち円仏と成るのである。(迹門では)爾前の当分の利益を嫌うことが無いので「三界の諸の漏がすでに尽きて」「三百由旬を過ぎて」「はじめて我身を見る」と説いたのである。また、爾前で滅に入った二乗は実際には見思惑を断じていない。したがって六界を出離しないが、迹門は二乗作仏が本懐であるので、「彼の土においてこの経を聞くことを得る」と説いたのである。既に「彼の土に聞くことを得る」というゆえに、爾前の諸経には方便土は無いと知るのである。
ゆえに(爾前経には)実際は実報土も常寂光土もない。菩薩の成仏を明かすゆえに実報土・寂光土を仮に立てたのである。しかし菩薩に二乗を具するので、二乗が成仏しなければ菩薩も成仏することはできない。衆生無辺誓願度も満足しない。二乗が空理に沈み身智を滅し尽くすことはそのまま菩薩が空理に沈み身智を滅し尽くすことである。凡夫が六道を出なければ二乗も六道を出ることはない。劣った方便土さえ明ささないのであるから、どうして勝れた実報土・寂光土を明かすことがあろう。実際に見思惑を断じたならばどうして方便土を明かさないことがあろうか。菩薩が実際に実報土・寂光土に至るなら、どうして(二乗が)方便土に至らないことがあろうか。ただ菩薩が無明を断つというゆえに、仮に実報土・寂光土を立てたのであるが、しかも上の二土は本当はないので凡聖同居土の中において、影の姿として現れた実報土・寂光土を仮に立てただけである。したがってこの「三百由旬を過ぎ」たといっても、実際には三界を出ていないのである。
迹門には、ただ始成正覚の十界互具を説いただけで、未だ本覚本有の十界互具を明かしていない。ゆえに教化される大衆も教化する円仏もすべてことごとく今はじめて覚るという立場である。もしそうであるなら、「本無今有」という欠陥をどうした免れることができようか。まさに知るべきである。四教の四仏が円仏と成るというのは一往の立場で迹門の説いたものである。したがって無始の本仏を知らない。ゆえに無始無終の義が欠けて具足していない。また無始の色心常住の義もない。「この法は法位に住する」と説いているのも、未来へ向けての常住であり、過去からの常住ではない。本有の十界互具を顕さないから、本有の大乗の菩薩界もない。このことから、迹門の二乗は未だ見思惑を断じておらず、迹門の菩薩は未だ無明を断じていず、六道の凡夫は本有の六界に住さないので、有名無実ということがわかるのである。
ゆえに涌出品に至って、爾前経や法華経迹門において無明惑を断じたとする菩薩に対して「五十小劫・半日のごとしといえり(地涌の菩薩が仏を讃嘆した五十小劫という長期間を半日のようであると思わせた)」と説くのである。これはすなわち寿量品の久遠実成の円仏の寿命は、長期間であるとか短期間であるとかではなく、長いも短いも自在であるという教えに迷っているからである。
爾前経や法華経迹門の断惑とは、外道の有漏断が修行から退くとすぐ起こるようなものである。いまだ久遠実成の円仏を知らないことをもって、惑者の根本とするのである。ゆえに四十一品の無明を断じた弥勒でさえ、本門において行を立てる発起ホッキ・影響ヨウゴウ・当機・結縁の四衆の地涌千界の衆[地涌の菩薩]の一人も知らなかったのである。既に一分の無始の無明を断じて十界の一分の無始の法性を得ていれば、どうして等覚の菩薩を知らないことがあろう。たとえ等覚の菩薩を知らなくとも、どうして当機・結縁の衆を知らないことがあろう。「すなわち一人もしらず」の文はまぎれもなくいまだ三惑を断じていないゆえである。
ここから本門に至っては、すなわち爾前経や法華経迹門に対して随他意の釈を加え、また天・人・修羅に収め、「貪著五欲(五欲に貪著し)」・「妄見網中(妄見の網の中に入った)」・「為凡夫顛倒(凡夫が顛倒するをもって)」と説き、それを釈した法華文句の文には「私は昔道場に坐したが、一法の真実も得られなかった」といわれた。蔵・通の両仏が見思惑を断じたということも、別・円の二仏が無明惑を断じたということも、いずれもすべて実際には見思惑・無明惑を断じていない。ゆえに随他意というのである。所化の衆生が三惑を断じていると思っているのも、まったく真実の断惑ではないのである。
第三の答の文に、開善寺の智蔵が爾前経には声聞はいないと説いた義と同じであるといって非難しているが、それではあなたもまた光宅寺の法雲が法華の会座には声聞がいたという義と同じとするのか。天台大師は有無の説は共に破折されている。開善寺は爾前経において声聞はいないと判断し、光宅寺は法華において声聞がいたと判断している。したがって有無の説は共に疑難がある。
天台大師は「爾前経には声聞はいる。法華経にはいない。所化の迷情によると声聞はいる。長者[仏]の見識ではいない」という。
このような破折する文はすべて爾前経や法華経迹門との相対の釈であり、有・無共に法華経本門から望むと(爾前経では二乗は三界を出離できないという)疑難はない。
「ただし七方便はいずれも究竟の滅ではない」、また「ただし心を観ずるが、実理にかなっていない」との釈について、円益に対して当分の利益を下して「いずれも究竟の滅域ではない」・「すなわち実理にかなっていない」というのであるが、金ペイ論には「ひたすら清浄の真如に執着するなら、なお小乗の真如をも失っていまう。仏性はどこにあるのか」という釈をどのような解釈するのか。ただしこの「なお小乗の真如をも失って今う」という釈は普段は出してはいけない。最も秘蔵すべきである。
ただし「妙法蓮華経は皆これ真実である」という文をもって法華経迹門において爾前の得道を許すゆえに爾前得道の義があるといっているが、これは迹門を爾前経に対して真実と説いたものである。しかもいまだ久遠実成を顕していないから、迹門は未顕真実と同じ領域である。ゆえに無量義経で大荘厳等の菩薩が四十年余りの得益を挙げたのに対して、仏が答えられたとき、「未顕真実」の言葉をもってされたのである。
また涌出品の中に、弥勒菩薩が疑ってこう質問した。
「如来が悉多太子であったとき、釈迦族の宮殿を出て伽耶城を去ってから遠くない、[中略]四十年余りが過ぎた」
仏は答えられた。
「一切世間の天人及び阿修羅は皆今の釈迦牟尼仏は釈迦族の宮殿を出て伽耶城を去ってから遠からず、円満な悟りを得たと思っている。私は実に成仏して以来(無量無辺百千万億那由他劫である)」
「我は実に成仏して」とは寿量品以前を「未顕真実」ということと同じではないか。
このゆえに法華文句記の九にこうある。
「昔の七方便より真実の悟りに至るまでを七方便の権というのは、しばらく昔の権に寄せたものであり、もし果位本門に対すれば権・実はともに随他意である」
この釈から明らかに知ることができる。迹門をもなお随他意というのである。
寿量品の「皆実不虚(皆実にして虚ムナしからず)」を天台大師は法華文句で釈された。
「円頓の衆生に約すれば迹本二門において、本円は一実、迹円は一虚である。」
法華文句記の九にはこうある。
「ゆえに知ることができる。迹門の実は本門においてはなお虚であると」
迹門がすでに虚であることは論ずるにおよばない。
ただし、「皆是真実(皆これ真実)」とは、もし本門に望むならば迹は虚であるが、法華経の会座のなかにおいて虚実を論ずるゆえに本と迹の両門はともに(いちおう)真実と言ったのである。例えば、迹門の法説周の時の譬説・因縁の二周も、この会座において聞き知らないことはない。したがって顕と名付けるようなものである。
法華文句記の九にこうある。
「もし方便教は(因門・果門の)二門ともに虚である。因門を開き終わって果門に望むれば、すなわち一実一虚である。本門が顕れ終われば、すなわち二種はともに実である」
この釈の趣意は、本門がいまだ顕れない以前は、本門に対すればなお迹門を名づけて虚とする。もし本門が顕れ終われば迹門の仏因は本門の仏果となるので、天月(本門)・水月(迹門)は本有の法となって、本・迹ともに三世常住と顕れるのである。一切衆生の始覚を名づけて迹門の円因といい、一切衆生の本覚を名づけて本門の円果とする。(妙楽大師が法華玄義釈籤に)「一の円因を修して一の円果を感ずる」というのはこのことである。このように法門を談じる時、迹門・爾前教はもし本門が顕れなければ六道を出ることはできない。まして九界をどうして出ることができようか。