同志と共に

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顕謗法抄けんほうぼうしょう

第一段として八大地獄の因果を明かし、第二段として無間地獄の因果の軽重を明かし、第三段として問答形式で料簡を明かし、第四段として行者の弘経の心構えを明かす。
第一段として八大地獄の因果を明かす。
第一に等活地獄とは。
この世界の地の下、一千由旬にある。この地獄は縦横の広さが等しく一万由旬ある。この中の罪人はたがいに敵愾心をいだく。もし、偶然出会ったなら犬と猿が出会ったように、それぞれ鉄の爪をもって互いにつかみあい引き裂きあう。血肉がなくなればただ骨のみとなる。あるいは獄卒が手に鉄杖を取って頭より足にいたるまで皆打ちくだく。身体はくだけて砂のようになる。または鋭い刀をもって細かく肉を裂く。しかし再び何度もよみがえる。
この地獄の寿命は人間の昼夜五十年をもって、[六欲天の]第一・四王天の一日一夜とする。四王天の天人の寿命は五百年である。その四王天の五百年を等活地獄の一日一夜とした五百年である。
この地獄の業因はというと、生き物の命を断つ者がこの地獄に堕ちる。螻ケラ・蟻アリ・蚊・アブ等の小虫を殺す者も懺悔しなければ必ずこの地獄に堕ちるのである。たとえば、針などでも水の上に置けば沈むようなものである。また、懺悔しても懺悔の後に重ねてこの罪を作れば、後の懺悔ではこの罪は消え難い。たとえば盗みをして牢獄に入れられたが、しばらくして後に許されて牢獄を出たけれども、また重ねて盗みをして牢獄に入れられたならば、今度は出ることが許されないようなものである。したがって今の時代の日本国の人は上一人より下万民に至るまでこの地獄をまぬがれる人は一人もいないであろう。いかに持戒の覚えのある持律の僧であっても、蟻やシラミなどを殺さず、蚊やアブをあやめないことがあろう。ましてその他の山野の鳥や鹿・江や海の魚を毎日殺すものや、それにもまして牛や馬や人を殺すものがこの地獄をまぬがれるはずがない。
第二に黒繩地獄とは。
等活地獄の下にあり、縦横は等活地獄と同じである。獄卒は罪人を捕らえて熱した鉄の地面に伏せさせ、熱い鉄の繩で身に墨縄をうって、熱い鉄の斧で繩に沿って切り裂き削る。また鋸でひく。また左右に大きな鉄の山があり、山の上に鉄の幢ハタホコを立てて鉄の繩を張り、罪人に鉄の山を背負わせて、繩の上を渡らせる。繩から落ちて砕けたり、鉄のかなえに突き落とされて煮られる。この苦は上の等活地獄の苦の十倍である。
人間の百年が第二のトウ利天の一日一夜であるが、そのトウ利天の寿命は千年である。この天の千年を一日一夜として、この第二の地獄の寿命は千年である。殺生をしたうえ、偸盗チユウトウといって盗みを重ねた者がこの地獄に堕ちる。今の世の偸盗の者が、物を盗むうえ物の持ち主を殺す者がこの地獄に堕ちる。
第三に衆合地獄とは。
黒繩地獄の下にあり、縦横は上と同じである。多くの鉄の山がふたつずつ向かい合っている。牛頭ゴズ・馬頭メズ等の獄卒が手に棒を持って罪人を駈りたて山の間に入らせる。この時、両方の山が迫って来て、合わさり押つぶす。身体は砕けて血が流れて地面に満ちる。また種々の苦がある。
人間の二百年が第三の夜摩天の一日一夜である。この天の寿命は二千年ある。この天の寿命を一日一夜として、この地獄の寿命は二千年である。
殺生・盗みの罪のうえに、邪婬といって他人の妻を犯す者がこの地獄の中に堕ちる。したがって、今の時代の僧・尼・在家の男女の多くはこの罪を犯す。特に僧にこの罪が多い。在家の男女はそれぞれに守り合い、人目をしのべないのでこの罪を犯さない。僧は一人身であるために婬欲を満たすことが少ないところに、もし相手が身ごもれば父は誰かとたださればれてしまうので、独身の女性を犯さず、もしかすると隠せると考え、他人の妻をうかがって深く隠しておこうと思うのである。今の時代のことのほか尊く見える僧の中に特にこの罪がまた多くあると思われる。したがって、大部分の今の世の立派に見える僧がこの地獄に堕ちるであろう。
第四に叫喚地獄とは。
衆合地獄の下にあり、縦横は上と同じである。獄卒が荒々しい声を出して、弓箭で罪人を射る。また、鉄の棒で頭を打って焼けた鉄の地面を走らせる。あるいは熱した鉄の平鍋に何度もひっくり返してこの罪人をあぶる。あるいは口を開いて沸騰した銅の湯を入れる。五臓は焼けて下より直ちに出てくる。
寿命は人間の四百年を第四の都率天の一日一夜とする。その都率天の寿命は四千年である。都率天の四千歳の寿命を一日一夜として、この地獄の寿命は四千年である。
この地獄の業因はというと、殺生・偸盗・邪婬の上に飲酒といって酒を飲む者がこの地獄に堕ちる。今の世の僧・尼・在家の男女の四衆で、大酒飲みの者・はこの地獄の苦を免れがたい。
大智度論には酒の三十六の失が挙げられており、梵網経では酒盃をすすめる者は五百生の間手のない身で生まれると説かれている。人師の釈にはみみずのような者となるとある。まして酒を売って人に与える者、それにもまして酒に水を入れて売る者はいうに及ばない。今の世の在家の人々はこの地獄の苦を免れがたい。
第五に大叫喚地獄とは。
叫喚地獄の下にあり、縦横は前と同じである。その苦の有様は上の四つの地獄の多くの苦の十倍重くこれを受ける。
寿命の長短はというと、人間の八百年が第五の化楽天の一日一夜として、この天の寿命が八千年であり、この天の八千年を一日一夜として、この地獄の寿命は八千年である。
殺生・偸盗・邪婬・飲酒の重罪のうえに、妄語といってうそをつく者がこの地獄に堕ちる。今の世の多くの人はたとえ賢人や上人などといわれる人々でも妄語をいわない時があっても妄語をいわない日はない。たとえ日はあっても月はない。たとえ月はあっても年はない。たとえ年はあっても一生妄語をいわない者はいない。したがって今の世の多くの人は一人たりともこの地獄を免れることはできない。
第六に焦熱地獄とは。
大叫喚地獄の下にあり、縦横は前と同じである。この地獄には種々の苦がある。もしこの地獄の豆粒ほどの火を世界に置いたとすると、一瞬で焼き尽くされてしまう。まして罪人の身やわらかいことは綿のようなものであるから、この地獄の人は前の五つの地獄の火を見れば雪のように感じる。たとえば、人間界の火でも薪の火よりも鉄・銅の火のほうが熱いようにである。
寿命の長短は人間の千六百年を第六の他化天の一日一夜として、この天の寿命は千六百歳であり、この天の千六百年を一日一夜として、この地獄の寿命一千六百年である。
業因はというと、殺生・偸盗・邪婬・飲酒・妄語のうえに邪見といって因果を否定する者がこの中に堕ちるのである。邪見とは、ある人がいうには、人が飢えて死んだら天に生まれる等という考え方である。総じて因果を知らない者を邪見という。世間の法では慈悲なき者を邪見の者という。今の世の人々はこの地獄を免れがたい。
第七に大焦熱地獄とは。
焦熱地獄の下にあり、縦横は前と同じである。前の六つの地獄の一切の苦より十倍重く受ける。その寿命は半中劫である。
業因はというと、殺生・偸盗・邪婬・飲酒・妄語・邪見のうえに戒を清浄にたもつ尼を犯す者がこの中に堕ちる。また僧侶が酒をもって不邪婬戒を持つ婦女をたぶらかしたり、財物を与えて犯す者がこの中に堕ちる。今の世の僧の中の多くがこの重罪を犯している。大悲経の文に、末代には在家の多くは天界に生じ、僧・尼の多くは地獄に堕ちるだろう、と説かれているが、この姿のことであろうか。心ある人々は恥じるべきである。
総じて上の七大地獄の業因は諸経論によって考え、今の世の日本国の四衆にあてはめて見ると、この七大地獄を離れることができる人を見ない。また聞かない。
涅槃経にこうある。
「末代に入って人間として生まれる者は爪の上の土のように少ない。三悪道に堕ちるものは十方世界の微塵のように多い」
もしそうであるなら、私たちの父や母・兄弟等で死んだ人は、皆上の七大地獄に堕ちているだろう。残念というほかはない。
竜と蛇と鬼神と仏・菩薩・聖人をいまだ見たことがない。ただその名称を聞くのみである。今の世で上の七大地獄の業を造らない者をいまだ見たことがない。また音にも聞かない。
ところが我が身をはじめ、多くの人々で自分が七大地獄に堕ちると思っている者は一人もいない。たとえ言葉で堕ちるとはいうものの、心では堕ちると思っていない。
また、僧や尼・在家の男女も、地獄の業を犯していると思っていても、地蔵菩薩等の菩薩を信じたり、阿弥陀仏等の仏を信じたり、種々の善根を修めた者もあり、皆自分はこのように善根をたもっているので堕ちるはずがないなどと思って地獄をも恐れない。
あるいは様々な宗派を学ぶ人々はそれぞれの智慧の分際を信じて、また地獄の因を恐れない。しかし、仏や菩薩を信じている人でも、子を愛し、夫や妻などを愛し、父母や主君などを敬うことに比べれば、その思いに雲泥の差がある。仏・菩薩等を軽く考えている。したがって今世の人々が、仏や菩薩を信じているから、宗教を勉強しているから、地獄の苦は免れるだろうなどと思うのは、間違いではないか。心ある人々はよくよく思慮すべきであろう。
第八に大阿鼻地獄とは。
またの名を無間地獄という。欲界の最底にあり、大焦熱地獄の下にある。
この地獄は縦横八万由旬である。外に七重の鉄の城がある。地獄の極苦はしばらく省略する。前の七大地獄並びに別な一切の苦をもって一分とすると、大阿鼻地獄の苦はその一千倍勝る。この地獄の罪人が大焦熱地獄の罪人を見れば、他化自在天が楽しんでいめように見える。この地獄の臭いのくささを人が嗅ぐと、世界中・欲界・六天の天人はすべて死んでしまう。しかし出山・没山という山がこの地獄の臭気をさえぎって人間界へ来させないのである。したがって世界の者は死なないようである。もし仏がこの地獄の苦を細かく説かれたなら、聴いた人は血を吐いて死んでしまうので、くわしく仏は説かなかったのであろう。
この無間地獄の寿命の長短は一中劫である。一中劫というのは、この人の寿命を無量歳として、百年に一寿を減じ、また百年に一寿を減じていくうちに、人寿が十歳の時になるまで減じることを一減とする。また十歳から百年に一寿を増し、また百年に一寿を増していくうちに、八万歳に増すまでを一増という。この一増・一減の時間を小劫として、二十の増減を一中劫という。この地獄に堕ちた者はこれほど長期間無間地獄にとどまり大苦を受けるのである。
業因はというと、五逆罪を造る人がこの地獄に堕ちる。五逆罪というのは一に殺父・二に殺母・三に殺阿羅漢・四に出仏身血・五に破和合僧である。今の世には仏はおられない。したがって出仏身血はない。和合僧もないので破和合僧はない。阿羅漢もいないので殺阿羅漢もこれまたない。ただ殺父・殺母の罪のみがある。しかし王法の戒めが厳しくあるのでこの罪は犯しがたい。もしそうであるなら、今の世では阿鼻地獄に堕ちる人は少ない。ただ似たような五逆罪はある。木画の仏像や堂塔等を焼いたり、かの仏像等の寄進した所を奪い取ったり、率兜婆等を切って焼いたり、智者を殺したりするものが多くいる。これらは大阿鼻地獄の十六の別のところに堕ちるのである。したがって今の世の人々の多くは十六の別の小地獄に堕ちる者が多いのである。また謗法の者もこの地獄に堕ちる。
第二段として無間地獄の因果の軽重を明かす。
問うていう。
五逆罪以外の罪によって無間地獄に堕ちることはあるのか。
答えていう。
誹謗正法の重罪である。
問うていう。
証文は何か。
答えていう。
法華経第二にこうある。
「もし人がいて信じずにこの経を毀謗すれば[中略]その人は命を終えて阿鼻獄に入る」
この文によって謗法は阿鼻地獄の業と見えるのである。
問うていう。
五逆罪と謗法との罪の軽重は。
答えていう。
大品経にこうある。
「舎利弗が仏にたずねられた。
『世尊よ、五逆罪と破法罪は同じですか』
仏が舎利弗に告げた。
『同じとは言えない。理由はというと、もし般若波羅蜜を破れば則ち十方諸仏の一切智・一切種智を破ることになる。仏宝を破るために法宝を破るり、僧宝を破るために三宝を破るり、則ち世間の正見を破ることになる。世間の正見を破れば○則ち無量無辺阿僧祇の罪を得るのである。無量無辺阿僧祇の罪を得終わって則ち無量無辺阿僧祇の苦を受ける』」
また
「破法の業因縁が集まるゆえに無量百千万億歳の間大地獄の中に堕ちる。この破法の人たちは一大地獄から一大地獄へと転々とする。もし劫火が起きた時は他方の大地獄の中に至る。このように十方をあまねくめぐっている間に劫火が起こる。そのためそこで死んでも破法の業の因縁はまだ尽きていないので、この間また大地獄の中に還って来る」
法華経第七にこうある。
「四衆の中に瞋恚を生じ、心の不浄な者がいて。悪口罵詈して『これは無智の比丘である』という。あるいは杖木や瓦石で打ったりする。[中略]千劫の間阿鼻地獄において大苦悩を受ける」
この経文の趣旨は法華経の行者に悪口を言い、杖で叩いたりするものが、その後に懺悔したとしても罪はいまだ消滅せず、千劫の間阿鼻地獄に堕ちたということである。懺悔した謗法の罪ですら五逆罪の千倍である。まして懺悔しない謗法においてはなおさらである。阿鼻地獄を出る時期は来ないであろう。
したがって法華経第二にこうある。
「経を読誦し書持する者を見て、軽んじて賤しんだり憎んで嫉み結みを懐くならば[中略]その人は命を終えて阿鼻獄に入り、一劫が尽きてまた阿鼻獄に生れる。このように繰り返して無数劫に至る」
第三段として問答形式で料簡を明かす。
問うていう。
五逆罪と謗法罪との罪の軽重はわかった。謗法の具体的な内容はどうか。
答えていう。
天台智者大師の梵網経の疏にこうある。
「謗とは背くことである」
法に背くことが謗法といえるだろう。
天親の仏性論にこうある。
「憎むとは背くことである」
この文の心は、正法を人に捨てさせることが謗法ということである。
問うていう。
詳しく謗法の内容を知りたいので、大略を示してほしい。
答えていう。
涅槃経第五にこうある。
「もし人がいて、如来は無常だと言ったとする。どうしてこの人の舌が堕落しないわけがあろうか」
この文の心は、仏を無常と言う人は舌がただれて落ちてしまうということである。
問うていう。
多くの小乗経に仏を無常と説いているうえ、また所化の人々も皆無常と談じている。もしそうであるなら、仏並びに所化の衆の舌ただれて落ちてしまうのか。
答えていう。
小乗経の仏を小乗経の人が無常と説き談じるときは舌はただれないだろう。しかし、大乗経に向って仏を無常と談じ、小乗経に対して大乗経を破折すれば舌はただれて落ちてしまうだろう。このことから考えると、自分の依経には随っても、依経より勝れている経を破折することは破法となる。したがって、たとえ観経・華厳経等の権大乗経の人々が、所依の経の文のように修行したとしても、かの経より勝れた経々に随わなかったり、また勝れていないなどと談じたならば謗法となるだろう。ゆえに観経等の経のように法を会得したとしても、観経等を破折する経が出来した時、その経に随わなければ破法となるだろう。このことは小乗経をもって、なぞらえて心得るべきである。
問うていう。
雙観経等に「乃至十念・即得往生」などと説かれているが、この経の教えのとおりに念仏を称えて往生できるものを、後の経によって言い破るなら謗法になるのではないか。
答えていう。
仏は、観経等の四十年余りの経々をまとめて「未顕真実」と説いておられるので、この経文によって「乃至十念・即得往生」等は実際は往生できないというのである。この経文がなければ謗法となる。
問うていう。
ある人が言っている。
「無量義経の『四十余年未顕真実』の文はけっして四十年余りの一切の経々や文々・句々をすべて『未顕真実』と説いているのではない。ただ四十年余りの経々のところどころに、決定性の二乗を永不成仏と嫌われて、釈迦如来を始成正覚と説かれたその言葉だけをさして『未顕真実』と言われたのである。けっして他の事を言ったのではない。それをむやみに四十年余りの文を見て、観経等で凡夫のために『九品往生』などを説いているのをみだりに往生はできないなどと主張する。なんと恐ろしい謗法の者だろう」
このように言っているが、どのように考えるか。
答えていう。
この考えは東国の得一の解釈に似ている。
得一は
「『未顕真実』とは決定性の二乗を仏が爾前経において永不成仏と説かれたことを『未顕真実』と嫌った。前四味の一切にはわたるものではない」
といった。
伝教大師は前四味の一切にわたって、文々句々に「未顕真実」と立てられた。よってこの考え方は昔の謗法者の考えに似ている。
ただしこれからしばらくは、あなた方の考え方に従って尋ねて明らかにしよう。
問う。
法華経以前で二乗作仏を嫌ったことを今「未顕真実」というならば、まず決定性の二乗を仏が「永不成仏」と説かれた処々の経文だけは「未顕真実」の仏の妄語であると承伏されるのか。そうであるなら、仏の妄語は勿論認めるのであろう。もしそうであるなら、妄語の人のいったことをあるということも、ないということも、共に用いてはいけないことになる。決定性の二乗・永不成仏の言葉だけが妄語となり、もし他の菩薩・凡夫の往生成仏等が実語となるとするならば、信用しがたいことである。
たとえば、東方を西方と妄語する人は、西方を東方というだろう。二乗を永不成仏と説く仏が他の菩薩の成仏を許してもまた妄語ではないのか。五乗はただ一仏性である。二乗の仏性をかくし、菩薩・凡夫の仏性をあらわすことはかえって菩薩・凡夫の仏性をかくすことになる。
ある人が「四十余年未顕真実」とは成仏の道だけが未顕真実であり、往生等は「未顕真実」ではないと言っているというが、また論難する。
四十年余りの間に説かれた成仏を「未顕真実」と承伏されるのなら、雙観経に説かれる「不取正覚成仏已来凡歴十劫(正覚を取らず...成仏して以来およそ十劫を歴ている)」等の文は未顕真実と承伏されるのか。
もしそうであるなら、四十年余りの経々において、法蔵比丘が阿弥陀仏にならなかったとしたら、法蔵比丘の成仏はすでに妄語である。もし成仏が妄語であるなら、いかなる仏が修行者を迎えてくださるのか。
また、かれはこの論難を通していうだろう。「四十年余りの間成仏はなかった。阿弥陀仏は今の成仏ではなく、過去の成仏である」などと。
今難じていう。
今日の四十年余りの経々において、実際の凡夫の成仏を許されないならば、過去遠遠劫の仏の四十年余りの権経によっても成仏は叶いがたいだろう。三世の諸仏の説法の儀式はすべて同き順序をとるからである。
あるいはまたこう言うだろう。
「不得疾成・無上菩提(すみやかに無上菩提を得ることができない)」と説かれているから、四十年余りの経々ではすみやかに仏にはならないけれども、久しい劫を経たならば成仏できるのではないか」
非難していう。
次下の大荘厳菩薩等の領解にこうある。
「不可思議無量無辺阿僧祇劫を過ぎたとしても結局無上菩提を成ずることはできない」
この文のとおりであるならば、いかに長い劫を経ても爾前の経だけでは成仏はできないだろう。
ある人はこうもいうだろう。
華厳宗の解釈にはこうある。
四十年余りの中には華厳経だけは入らない。華厳経にすでに往生成仏が説かれている。どうして華厳経を修行して、往生成仏を遂げないわけがあろうか」
答えていう。
四十年余りの中に華厳経は入ないというのは、華厳宗の人師の義である。
無量義経にはまさしく四十年余りの中に「華厳海空」と名目を呼び出して四十年余りの中に数え入れられている。人師を根本とすれば仏に背くことになる。
問うていう。
法華経を離れて往生成仏を遂げることができないのであれば、仏は世に出られて法華経だけを説けばよいのに、どうしてわざわざ四十年余りの経々を説かれたのか。
答えていう。
この論難は仏自らが答えられている。
「もしただ一仏乗を説けば、人々は理解に苦しみ混迷に陥って、法を破り不信となり、かえって三悪道に墜ちてしまう」等の経文がこれである。
問うていう。
どうして爾前の経を人々は誹謗しないのか。
答えていう。
爾前の経々には多くの違いがあるが、束ねてこれを論ずれば、随他意といって人々の心を説かれたのである。それゆえに違背する事はありえない。
たとえば水に石を投じても争うことがないようなものである。また、いろいろな説教があるが、九界の人々の心を出ていない。人々の心は皆、善につけ悪につけて迷いを根本とするゆえ仏にはなれない。
問うていう。
人々が誹謗するので、仏は最初に法華経を説かれずに、四十年余りの後に法華経を説かれたのであるなら、あなたはどうして今の世において権経を説かず、ためらうことなく法華経を説いて人に誹謗させて悪道に堕オとしているのか。
答えていう。
仏の在世には、仏が菩提樹の下に端座されて衆生の機根を考えられた。そして、当時法華経を説いたなら人々は誹謗して悪道に堕ちただろう。四十年余りが過ぎた後に説いたならば誹謗せずに、初住不退から妙覚にのぼるだろうと知見されたのである。
しかし、末代濁世には機根にあてはまって初住の位に入ることができる人は万に一人もいない。また能化の人も仏ではないので、機根を考えることも難しい。したがって逆縁・順縁のために先ず法華経を説きなさいと仏は許されたのである。
ただし、また仏の入滅後であっても、まさにその機根の者にはまず権教を説く事もある。また、悲を先とする人は先ず権経を説く。釈迦仏のようにである。慈を先とする人は先ず実経を説くべきである。不軽菩薩のようにである。
また、末代の凡夫は何につけても悪道を免れることは難しい。同じく悪道に堕ちるのであれば、法華経を誹謗させて堕ちるならば世間の罪によって堕ちることとはおおいに異なる。「聞法生謗・堕於地獄・勝於供養・恒沙仏者(妙法を聞いて誹謗を生じ、地獄に堕ちたとしても、恒沙の仏を供養するより勝れている)」等の文の通りである。この文の心は法華経を誹謗して地獄に堕ちることは、釈迦仏・阿弥陀仏等の恒河沙の仏を供養し、帰依渇仰する功徳よりも百千万倍勝れていると説かれているのである。
問うていう。上の義のとおりであるなら、華厳・法相・三論・真言・浄土等の祖師はみな謗法に堕ちてしまうのか。
華厳宗では、華厳経は法華経と比べて雲泥の相違のように超過しているといい、法相・三論もこのようにいっている。
真言宗では、日本国に二つの流れがある。東寺の真言は、法華経は華厳経より劣っているのであるから、大日経より劣るのは当然であるとしている。
また天台の真言では、大日経と法華経とは理は同一であるが、印と真言等は(大日経が)はるかに優れているといっている。
これらはすべて悪道に堕ちるのだろうか。
答えていう。
一宗をたて、経々の勝劣を判ずるのに二つの義がある。
一つは似破であり、二つは能破である。
一に、似破とは他の義が勝れていると思っていても、これを破折することである。その正義を分明にあらわすためであろうか。
二に、能破とは実際に他人の義が勝れていることるを弁えずに、迷って自分の義が勝れていると思い、本心からこれを破折することを能破という。
したがって、彼の諸宗の祖師には似破・能破の二つの義があるのである。
心中では法華経が諸経より勝れていると思っていても、しばらく違背することによって法華経の義を顕そうと思い、これを破折する事がある。提婆達多や阿闍世王・諸の外道が仏のかたきとなって、かえって仏徳を顕わし、後には仏に帰依したようなものである。また実際に迷う凡夫が仏のかたきとなって悪道に堕ちる事も多い。それゆえ諸宗の祖師の中で、回心の筆[前の悪説を悔い改めて正義を書くこと]を書かなければ謗法の者であり、悪道に堕ちたと知るべきである。三論宗の嘉祥・華厳宗の澄観・法相宗の慈恩・東寺の弘法等は回心の筆があるかどうか、よくよく調べてみるべきである。
問うていう。
本当にこのたび生死の苦しみを離れようと思うならば、何を嫌い何を願うべきか。
答える。
諸の経文には、女性等を避けるべきであると説かれているが、釈尊が沙羅双樹で最後に説いた涅槃経にはこうある。
「菩薩よ、この身に無量の過ちや患いが具足し充満すると見えても、涅槃経を受持しようと願っているのであるから、この身をよく助け護って、乏しく欠けるようにしてはならない。菩薩よ、悪象等に対しては心に恐怖することはない。しかし悪知識においては怖畏の心を生じなさい。なぜかというと、悪象等はただ身を壊るだけで心を壊る事はない。しかし悪知識は心身ともに壊るからである。悪象などはただ一身を壊るだけであるが、悪知識は無量の身・無量の善心を壊る。悪象のために殺されても三悪道には至らないが、悪友のために殺されたならば三悪道に堕ちる」
この経文の心は後世を願う人は一切の悪縁を恐れなさい。また一切の悪縁よりも悪知識を恐れなさいと説かれているのである。
したがって、大荘厳仏の滅後の四人の僧は自ら悪法を行じて十方の大阿鼻地獄を経るだけではなく、六百億人の檀那等をも十方の地獄に堕としてしまった。鴦堀摩羅オウクツマラは摩尼跋陀マニバツダの教えに随って九百九十九人の指を切り、最後には母や仏を殺害しようと図った。善星比丘は仏の御子であり、十二部経を受持して四禅定を得、欲界の煩悩を断じたけれども、苦得外道の法を習って生身のまま阿鼻地獄に堕ちた。提婆達多は(外道の)六万蔵・(仏法の)八万蔵を暗唱したが、外道の五法を行じて現身のまま無間地獄に堕ちた。阿闍世王が父を殺し母を害そうとはかり、大象を放って仏を亡き者にしようとしたのも、悪師提婆達多の教えである。倶伽利比丘クギヤリビクは舎利弗と目連をそしって生身のまま阿鼻地獄に堕ちた。大族王は全インドの仏法僧を滅ぼした。大族王の弟は加シュ弥羅国の王となって、健駄羅国の率都婆や寺塔など一千六百箇所を破壊した。金耳コンニ国王は仏法を滅ぼし、波瑠璃王は九千九十万人の人を殺してその血は流れて池のようになった。設賞迦王は仏法を滅ぼし、菩提樹を切り根を掘り起こした。後周の宇文王は四千六百余りの寺院を破壊し、二十六万六百余人の僧や尼を還俗させた。これらは皆悪師を信じ、悪鬼がその身に入った結果である。
問うていう。
インド・中国では外道が仏法を滅ぼし、小乗が大乗を破っていると見える。この日本国もそうなるのか。
答えていう。
インド・中国には外道もあり小乗もあったが、この日本国には外道はなく小乗の者もいない。紀典博士[平安時代、紀伝道を教えた博士]等はいたが、仏法の敵となるものはない。また小乗の三宗はあるが、それらの宗によって生死を離れようとは思わず、ただ大乗を修得する手段としての学問と考えている。ただこの国には大乗の五宗のみがあり、人々が皆それらの宗々によって生死を離れようと思っているので、争いも多く起こっている。また檀那の帰依も多くあるために自利自養の心も深い。
第四段として行者の弘経の心構えを明かす。
そもそも仏法を弘めようと思う者は必ず五義を心得て正法を弘めなければならない。
五義とは、一には教・二には機・三には時・四には国・五には仏法流布の前後である。
第一に教とは、釈尊一代五十年の説教には大・小、権・実。顕・密の差別がある。
華厳宗では五教を立て、一代の説教をおさめている。その中で華厳・法華を最勝とし、華厳・法華の中では華厳経をもって第一としている。南三・北七・並びに華厳宗の祖師、日本国の東寺の弘法大師はこの義を立てている。
法相宗では三時教に一代をおさめ、その中に深密・法華経を一代の聖教のなかで勝れているとしている。深密・法華の中では、法華経は了義経の中の不了義経、深密経は了義経の中の了義経であるとしている。
三論宗ではまた二蔵と三時教を立てている。三時教の中の第三・中道教とは般若と法華である。般若・法華の中では般若が最第一としている。
真言宗には日本国に二つの流れがある。東寺流は弘法大師が十住心を立て、第八に法華・第九に華厳・第十に真言として、法華経は大日経に劣るばかりか、なお華厳経にも劣るとしている。天台の真言では慈覚大師等が大日経と法華経とは広略の差異があり、法華経は理秘密、大日経は事理倶密である。
浄土宗では聖道門・浄土門・難行道・易行道・雑行・正行を立てる。浄土の三部経よりほかの法華経等の一切経は難行・聖道・雑行としている。
禅宗には二つの流れがあり、一流は一切経・一切の宗の深義は禅宗にあるとする。一流は如来一代の聖教はすべて言説に出たものであり、如来の口を通して示された方便である。禅師は如来の秘密の本意であり、それは言説に説きあらわさず、教外の別伝であるとする。
倶舎宗・成実宗・律宗は小乗宗である。インド・中国には小乗宗の者が大乗を破折することが多いが、日本国ではそのようなことはない。
問うていう。[大聖人からの問いである]
諸宗の異義はまちまちである。それぞれにその根拠があり得道できるのか。それとも諸宗はすべて謗法となってただ一宗だけが正義となるべきなのか。
答えていう。
異論や相違はあるがすべて得道できる。仏の入滅後四百年にあたって健駄羅国の迦弐色迦カニシカ王は仏法を貴んで一夏の間、僧を供養し仏法について問いただした。一人ひとりの僧に異義が多かった。この王は不審に思い、「仏説は必ず一つであろう」と最後に脇尊者キヨウソンジヤに質問した。
尊者は答えた。
「金の杖を折って種々の物を作るのに形は別であっても金の杖は一つである。形の異なることを争ったとしても、金であることを争うことはない。教えの門はそれぞれ不同なので入口は争うけれども、入って得る真理は一つである」
また求那跋摩クナダツマが言った。
「諸論はおのおの異なるけれども、修行して得る真理に二つは無い。偏執によって是非は生じるけれども、通達者は相違を争うことはない」
また五百羅漢になりえた真因はそれぞれ異なるけれども、同じく聖理を得た。大智度論の四悉檀の中の対治悉檀や、摂大乗論の四意趣の中の衆生意楽意趣などは、あるときにはこの善業を嫌い、他の時にはこの善業をほめる。すなわち檀・戒・進等の修行一つ一つをあるときにはそしり、一つ一つをあるときにはほめる。しかし皆得道できる。これらのことから考えると、護法・清弁の争い、智光・戒賢の空理と中道の争い、南三・北七の頓・漸・不定・一時・二時・三時・四時・五時・四宗・五宗・六宗の教判、天台の五時、華厳の五教、真言密教の東寺と天台の争い、浄土宗の聖道門と浄土門、禅宗の教外と教内、入る門は異なっていても、実理に達する事はただ一つであるといえるだろう。
(今の回答に対して)論難していう。
華厳宗の五教・法相・三論宗の三時・禅宗の教外別伝・浄土宗の難行道・易行道・南三北七の五時教判等が、教門は異なっているが、悟入する真理は一つであり、すべて仏意に叶い謗法にならないといいうならば、謗法という義は成立しないのではないか。
謗法というのは法に背くという事である。法に背くというのは、小乗の立場でいえば小乗経に背き、大乗の立場でいえば大乗経に背くことである。法に背けばどうして謗法とならないことがあろうか。謗法となればどうして苦果をまねかずにいようか。(今の答えは)この道理に反している。これが第一である。
大般若経にこうある。
「般若を誹謗する者は十方の大阿鼻地獄に堕ちるだろう」
法華経にこうある。
「もし人が信じないで[中略]その人は命を終えて阿鼻獄に入るだろう」
涅槃経にこうある。
「世に治し難い病が三つある。一つには四重禁・二つには五逆罪・三つには大乗を誹謗することである」
これらの経文がどうしてむなしいことがあろうか。これらは証文である。それゆえ無垢論師・大慢婆羅門・熈連禅師キレンゼンジ・嵩霊法師スウリヨウホツシ等は正法を誹謗して生きた身のままで大阿鼻地獄に堕ち、舌が口中でただれた。これは現証である。天親菩薩は小乗の論を作って諸大乗経を破折した。後に無著菩薩に対してこの罪を懺悔するために舌を切ろうとするほど悔やんだのである。
謗法がもし罪とならないのであれば、どうして千部の論師が懺悔をするのか。闡提とはインドの言葉である。漢語では不信と訳する。不信とは「すべての人々にことごとく仏性が備わっている」ということを信じないことであり、これを闡提の人というのである。
不信とは謗法の者である。ガンジス河に入った七種の衆生の第一は一闡提・謗法・常没の者である。第二は五逆罪・謗法・常没等の者である。どうして謗法をおそれないでおれようか。
答えていう。
謗法とはただ理由もなく仏法を誹謗することを謗法といえよう。自身の宗を立てるために他の法を誹謗するのは謗法ではないのではないか。摂大乗論の四意趣の中の衆生意楽意趣とは、もしある人が一生の間一善をも修せず、ただ悪を作るだけの者がいて、小縁にあっていかなる善であれ一善を修めようというならば、これは随喜讃歎すべきである。
また善人がいて、一生の間ただ一善を修めたが、他の善へ導くためにその善を謗る。一つの事に対して、しかったり、ほめたりするということはこれである。大智度論の四悉檀の中の対治悉檀もまたこれと同じである。浄名経の弾呵というのは阿含経の時にほめた法を謗ることである。
これらのことから考えると、あるいは衆生の多くが小乗の機根であれば大乗を謗って小乗経の信心を増したり、あるいは衆生の多くが大乗の機根であれば小乗を謗って大乗経の信心を厚くしたり、あるいは衆生が阿弥陀仏に縁があれば諸仏を謗って阿弥陀の信心を増したり、あるいは衆生の多くが地蔵菩薩に縁があれば諸菩薩を謗って地蔵菩薩をほめたり、あるいは衆生の多くが華厳経に縁があれば諸経を謗って華厳経をほめたり、あるいは衆生が大般若経に縁があれば諸経を謗って大般若経をほめたり、あるいは衆生が法華経に、あるいは衆生が大日経等に縁がある場合なども同じように心得るべきである。
機根を見て、讃めたり毀ったりするのは、共に謗法とはならない。ところが機根を知らない者がみだりに讃めたり謗るのは謗法となるのである。例えば華厳宗・三論・法相・天台・真言・禅・浄土等の諸師が諸経を破折して自分の宗を立てるのは謗法とはならないのである。
論難していう。[大聖人からの問いである]
一宗を立てるために諸経・諸宗を破折し、自分の仏や菩薩を讃めるために他の仏や菩薩を破折し、他の善根を修せさせるためにこの善根を破折する。これがさしつかえがないのならば、阿含宗等の諸の小乗経に華厳経等の諸大乗経を破折した文はあるのか。また華厳経に法華・大日経等の諸大乗経を破折した文があるのか。
答えていう。
阿含・小乗経に諸大乗経を破折した文はないが、華厳経は二乗・大乗・一乗をあげて二乗・大乗を破折し、涅槃経は諸大乗経をあげて涅槃経に対してこれらを破折している。密厳経では「一切経中王」と説き、無量義経では「四十余年未顕真実」と説き、阿弥陀経では念仏に対して諸経を小善根と説いている。これらの例は一つではない。故に、またそれぞれの経々をよりどころとしている人師は皆この義を知っている。これらのことから、宗旨を立てる側から自分の宗に対して諸経を破折することは問題ない。
論難していう。[大聖人からの問いである]
華厳経では小乗・大乗・一乗とあげ、密厳経では「一切経中王」と説き、涅槃経では「是諸大乗」とあげ、阿弥陀経では念仏に対して諸経を小善根と説かれているいが、無量義経のように「四十余年(未顕真実)」と年限を指して、その間の大部の諸経を阿含・方等・般若・華厳等の名を呼びあげて勝劣を説いたことはない。涅槃経の「是諸大乗」の文だけは雙林最後の経として「是諸大乗」と説かれているので、涅槃経では一切経は嫌われていると思われるが、「是諸大乗経」と挙げて、つぎに諸大乗経を列ねたところには、「十二部」・「修多羅」・「方等」・「般若」等とあげている。しかし無量義経・法華経は載せていない。ただし無量義経で挙げているところは四十年余りに説かれた阿含・方等・般若・華厳経をあげている。いまだ法華経・涅槃経の勝劣は説かれていない。密厳経に「一切経中王」とあげているが、一切経をあげる中で、華厳・勝鬘シヨウマン等の諸経の名をあげて「一切経中王」と説いているだけで法華経等の名は説かれていない。阿弥陀経の小善根は時節もあげていない。善根の相貌も明らかではない。誰が小乗経を小善根というのか。また人・天の善根を小善根というのか。また観経・雙観経に説かれる諸善を小善根というのか。いまだ一代聖教を念仏に対して小善根というとはどこにも説かれていない。
また大日経・六波羅蜜経等の諸の秘教の中にも、釈尊一代の一切経を嫌ってその経をほめている文はない。ただし無量義経だけは以前の四十年余りの諸経を嫌い、法華経一経に限って已説の四十年余りに説かれた諸経、今説の無量義経、当説の未来に説かれる涅槃経を嫌って、法華経だけをほめている。
釈迦如来や過去・現在・未来の三世の諸仏が世に出現されて、各々一切経を説かれる際にいずれの仏も法華経第一とされるのである。例えば、なにを上郎・下郎とするかは不定である。田舎で百姓・郎従等は侍を上郎という。都では源平等以下を下郎という。(公家の)三家を上郎という。また主人を王というならば、百姓も家の中では王である。地頭・領家等もまた村・郷・郡・国の王である。しかし大王ではない。小乗経では無為涅槃[煩悩を断じつくし肉体も滅無に帰した灰身滅智の状態]の理が王である。小乗の戒・定等に対しては智慧が王である。諸大乗経では中道の理が王である。また華厳経は円融相即が王、般若経では空理が王、大集経では守護正法が王である。
薬師経は薬師如来の別願を説く経の中での王であり、雙観経は阿弥陀仏の四十八願を説く経の中での王、大日経は印や真言を説く経の中での王である。一代一切経の王ではない。
法華経は真諦・俗諦・空仮中・印や真言・無為の理・十二大願・四十八願などの一切の諸経が説くところの究極の法門の大王である。この教を知る者なのである。
ところが、善無畏・金剛智・不空・法蔵・澄観・慈恩・嘉祥・南三・北七・曇鸞・道綽・善導・達磨等が自分が立てた依経を釈尊が一代で説いた中で第一といっているのは教を知らないものである。ただ一切の人師の中においては天台智者大師ひとりだけは教を知る人である。
曇鸞・道綽等が説く聖道・浄土・難行・易行・正行・雑行はもともと十住毘婆沙論によるものである。しかしその論に説かれる難行の内に法華・真言等を入ると考えるのは間違った見解である。論主の意図と論の始中終を知らないという過ちがある。
慈恩は深密経に基づいて立てた三時教に一代をおさめているが、この経に説く三時に一切経が含まれない事を知らない過ちがある。
法蔵・澄観等が五教に一代をおさめた中で、法華経・華厳経を円教と立て、また華厳経は法華経より勝れていると思ったのは、彼らの依経の華厳経では二乗作仏・久遠実成を明かしていないのに、説かれていると信じ、華厳よりもはるかに優れている法華経を我が経よりも劣ると思ったのは間違った考えである。
三論宗の嘉祥が二蔵等の義を立て、また法華経よりも般若経が勝れていると思った事も間違いである。善無畏等が大日経は法華経よりも勝れているというのし、法華経の心を知らないだけでなく、大日経をも知らないものである。
問うていう。
これらが皆謗法ならば悪道に堕ちたというのか。
答えていう。
謗法には上・中・下・雑の謗法がある。
慈恩・嘉祥・澄観等の謗法は上・中の謗法であろう。そのうえ自身も謗法と知ったのか、悔い改めた筆がある。
また他師を破折するのに二種がある。能破と似破である。教えは勝っていると知っているが、是非を明かにするためにその法を破折するのは似破である。能破とは実際に勝っている経を劣っていると思ってこれを破折する。これは悪能破である。また現実に劣っているのを破折する。これは善能破である。ただし脇尊者の金杖の譬えは、小乗経は多いといっても、すべて同じ苦・空・無常・無我の理を説いているとの意である。多くの人が一同にこの義を理解しているので、十八部・二十部のあいだで互いに論争しているが、それはただ入門の争いであって、理の争いではない。したがって共に謗法とはならない。
外道が小乗経を破折するのは、外道の理は常住であり、小乗経の理は無常であり空である。したがって外道が小乗経を破折することは謗法となる。
大乗経の理は中道であり、小乗経は空である。よって小乗経の者が大乗経を破折することは謗法となる。しかし、大乗経の者が小乗経を破折することは破法とはならない。諸大乗経の中の理は未開会の理であり、いまだ記小久成は説かれていない。法華経の理は開会の理であり記小久成が説かれている。したがって諸大乗経の者が法華経を破折することは謗法となる。法華経の者が諸大乗経を誹謗することは謗法とはならない。
大日経・真言宗は未開会であり記小久成も説かれておらず、法華経以前である。たとえ開会・記小久成を許したとしても涅槃経と同じである。ただ善無畏三蔵・金剛智・不空・一行等の性悪の法門・一念三千の法門は天台智者の法門を盗み入れたものであろう。そうであれば善無畏等の謗法は似破かまた雑謗法であろう。五百人の阿羅漢の真因は小乗の十二因縁の悟りであり、無明・行等を縁として空理に入ったと見える。理に入る門は争っても謗法とはならない。
摂大乗論の四意趣や、大智度論の四悉檀等は無著菩薩・竜樹菩薩が釈尊入滅後の論師として、法華経をもって一切経の心を知りえて、四悉・四意趣等を用いて爾前の経々の意を判じたのである。未開会の四意趣・四悉檀と開会の四意趣・四悉檀を混同すれば謗法ではないか。これらをよくよく知ることが教を知る者なのである。
信解には四句ある。一に信而不解・二に解而不信・三に亦信亦解・四に非信非解である。
問うていう。
信而不解の者は謗法なのか。
答えていう。
法華経にこうある。
「信を以って入ることを得たり[信があれば理解はなくとも謗法とはならない]」
涅槃経の九にもこうある。
「此の経を聞き終わってすべて皆菩提の因縁となる[信はあるが理解のない者は謗法とはならない]」
非難していう。
涅槃経三十六にこうある。
「仏は経の中において二種の人がいて仏法僧を謗ると説いた。一には不信であり怒りの心があるからである。二には信じるけれども教義をできないからである。弟子たちよ、もし人に信心があっても智慧がなければこの人は無明を増長する。もし智慧があって信心の無い人は邪見を増長する。弟子たちよ、不信の人は怒りの心があるので仏法僧の三宝はないと言う。信心はあっても智慧のない者は教義を誤って理解するので法を聞く者に仏法僧を誹謗させるだろう」
この二種の人の中で、信じて解のない者を謗法と説いているが。
答えていう。
この信而不解の者は涅槃経の三十六に説かれた恒河の七種の衆生の第二の者を説いている。この第二の者は涅槃経の「一切衆生悉有仏性(すべての衆生はことごとく仏性を具えている)」の説を聞いてこれを信じるけれども実際には不信の者である。
問うていう。
どうして信じていても不信というのか。
答えていう。
「一切衆生悉有仏性」の説を聞いて一往これを信じるが、心を爾前の経に寄せる一類の衆生を無仏性の者という。これは信而不信の者である。
問うていう。
証文は何か。
答えていう。恒河第二の衆生を説いて涅槃経にこうある。
「このような大涅槃経を聞くことができて信心を生ずる。これを名づけて出という」
また、
「仏性は衆生に具わっていると信じるけれども、必ずしもすべて皆ことごとく具えているのではないと思っている。このため名づけて信不具足という」
これらの文のとおりであるなら、口では涅槃経を信じるといっても、心には爾前の義をいだいている。またこの第二の人を説いてこうある。
「信じる者でも智慧がなければ教義を逆に理解してしまう」
この顛倒解義とは、実経の文を得て、権経の義を覚る者のことである。
問うていう。
信而不解でも得道できる文はあるのか。
答えていう。
涅槃経の三十二にこうある。
「菩提の因はまた無量であるが、もし信心を説けばすでにその中にすべての因がおさまり尽くす」
また九にこうある。
「この経を聞き終えてことごとく皆菩提の因縁となる。説法の声や光明が毛孔から入る者は必らず阿耨多羅三藐三菩提[無常の悟り]を得ることができる」
法華経にはこうある。
「信によって仏道に入ることを得た」
問うていう。
解而不信の者はどうか。
答える。
恒河の第一の者である。
問うていう。
証文は何か。
答えていう。
涅槃経の三十六に第一を説いてこうある。
「人がいて、この大涅槃経の如来常住無有変易常楽我浄[如来は常住であって変化することがなく、常楽我浄の四句を具えられている]を聞いても、終に涅槃経の一切衆生悉有仏性を信受しなければ、一闡提の人である。方等経を謗り、五逆罪を作り、四重禁を犯す者でも必ず菩提の道を成就することができる。また須陀オンの人[初めて聖道に入った人]・斯陀含シダゴンの人[六品まで断じ終わった人]・阿那含の人[欲界の煩悩をすべて断じ尽くした聖者]・阿羅漢の人[小乗の最高の悟りの境地の人]・辟支仏[十二因縁など縁にふれて、あるいは外縁によって自ら覚る者]等も必らず無常の悟りを得ることができる。しかし(一闡提は)この言葉を聞き終えて不信の心を生じるのである」
問うていう。
この文では不信とだけと見える。解而不信とは説いていないのではないか。
答えていう。
第一の結文にこうある。
「もし智慧があっても信心の無いこの人は則ちよく邪見を増長する」