去る文永八年太歳辛未九月のころより御勘気をかほりて北国の海中・佐渡の嶋に・はなたれたりしかば、なにとなく相州・鎌倉に住しには生国なれば安房の国はこひしかりしかども我が国ながらも人の心も・いかにとや・むつびにくくありしかば、常には・かよう事もなくして・すぎしに御勘気の身となりて死罪となるべかりしが、しばらく国の外に・はなたれし上は・をぼろげならではかまくらへはかへるべからず、かへらずば又父母のはかをみる身となりがたしと・をもひつづけしかば、いまさらとびたつばかり・くやしくて・などか・かかる身とならざりし時・日にも月にも海もわたり山をも・こえて父母のはかをもみ・師匠のありやうをも・とひをとづれざりけんと・なげかしくて、彼の蘇武が胡国に入りて十九年かりの南へとびけるを・うらやみ、仲丸が日本国の朝使として・もろこしにわたりてありしが・かへされずしてとしを経しかば月の東に出でたるをみて、我が国みかさの山にも此の月は出でさせ給いて故里の人も只今・月に向いて・ながむらんと心をすましてけり、此れもかく・をもひやりし時・我が国より或人のびんにつけて衣を・たびたりし時・彼の蘇武が・かりのあし此れは現に衣あり・にるべくもなく・心なぐさみて候しに、日蓮は・させる失あるべしとは・をもはねども此の国のならひ念仏者と禅宗と律宗と真言宗にすかされぬるゆへに法華経をば上には・たうとむよしを・ふるまい心には入らざるゆへに、日蓮が法華経を・いみじきよし申せば威音王仏の末の末法に不軽菩薩を・にくみしごとく・上一人より下万人にいたるまで名をも・きかじ・まして形をみる事はをもひよらず、されば・たとひ失なくとも・かくなさるる上は・ゆるしがたし、まして・いわうや日本国の人の父母よりも・をもく日月よりも・たかくたのみ・たまへる念仏を無間の業と申し・禅宗は天魔の所為・真言は亡国の邪法・念仏者・禅宗・律僧等が寺をばやきはらひ念仏者どもが頚をはねらるべしと申す上、故最明寺・極楽寺の両入道殿を阿鼻地獄に堕ち給いたりと申すほどの大禍ある身なり、此れ程の大事を上下万人に申しつけられぬる上は設ひ・そらごとなりとも此の世にはうかびがたし、いかにいわうや・これはみな朝夕に申し昼夜に談ぜしうへ平左衛門尉等の数百人の奉行人に申しきかせ・いかにとがに行わるとも申しやむまじきよし・したたかに・いゐきかせぬ、されば大海のそこのちびきの石はうかぶとも天よりふる雨は地に・をちずとも日蓮はかまくらへは還るべからず、但し法華経のまことにおはしまし日月我をすて給はずばかへり入りて又父母のはかをも・みるへんもありなんと心づよく・をもひて梵天・帝釈・日月・四天はいかになり給いぬるやらん、天照太神・正八幡宮は此の国にをはせぬか、仏前の御起請はむなしくて法華経の行者をばすて給うか、もし此の事叶わずば日蓮が身のなにともならん事は・をしからず、各各現に・教主釈尊と多宝如来と十方の諸仏の御宝前にして誓状を立て給いしが今日蓮を守護せずして捨て給うならば正直捨方便の法華経に大妄語を加へ給へるか、十方三世の諸仏をたぼらかし奉れる御失は提婆達多が大妄語にもこへ瞿伽利尊者が虚誑罪にもまされたり設ひ大梵天として色界の頂に居し千眼天といはれて須弥の頂におはすとも日蓮をすて給うならば阿鼻の炎には・たきぎとなり無間大城にはいづるごおはせじ、此の罪をそろしと・おぼさばいそぎ・いそぎ国土にしるしを・いだし給え、本国へ・かへし給へと高き山にのぼりて大音声を・はなちて・さけびしかば、九月の十二日に御勘気・十一月に謀反のもの・いできたり、かへる年の二月十一日に日本国のかためたるべき大将ども・よしなく打ちころされぬ、天のせめという事あらはなり、此れにや・をどろかれけん弟子どもゆるされぬ。 而れども・いまだゆりざりしかば・いよいよ強盛に天に申せしかば頭の白き烏とび来りぬ、彼の燕のたむ太子の馬烏のれい・日蔵上人の・山がらす・かしらもしろく・なりにけり、我がかへるべき・時やきぬらん・とながめし此れなりと申しもあへず、文永十一年二月十四日の御赦免状・同三月八日に佐渡の国につきぬ・同十三日に国を立ちてまうらというつにをりて十四日は・かのつにとどまり、同じき十五日に越後の寺どまりのつに・つくべきが大風にはなたれ・さいわひにふつかぢをすぎてかしはざきにつきて、次の日はこうにつき・中十二日をへて三月二十六日に鎌倉へ入りぬ、同じき四月八日に平左衛門尉に見参す、本より・ごせし事なれば日本国のほろびんを助けんがために三度いさめんに御用いなくば山林に・まじわるべきよし存ぜしゆへに同五月十二日に鎌倉をいでぬ。 但し本国にいたりて今一度・父母のはかをも・みんと・をもへども・にしきをきて故郷へは・かへれといふ事は内外のをきてなり、させる面目もなくして本国へ・いたりなば不孝の者にてや・あらんずらん、これほどのかたかりし事だにも・やぶれて・かまくらへかへり入る身なれば又にしきを・きるへんもや・あらんずらん、其の時父母のはかをもみよかしと・ふかくをもうゆへに・いまに生国へはいたらねども・さすがこひしくて吹く風・立つくもまでも東のかたと申せば庵をいでて身にふれ庭に立ちてみるなり、かかる事なれば故郷の人は設い心よせにおもはぬ物なれども我が国の人といへば・なつかしくて・はんべるところに・此の御ふみを給びて心もあらずして・いそぎいそぎひらきてみ候へば・をととしの六月の八日にいや四郎にをくれてと・かかれたり、御ふみも・ひらかざりつるまでは・うれしくて・ありつるが、今此のことばを・よみてこそ・なにしにかくいそぎひらきけん・うらしまが子のはこなれや・あけてくやしきものかな、我が国の事はうくつらく・あたりし人のすへまでも・をろかならずをもうに・ことさら此の人は形も常の人には・すぎてみへ・うちをもひたるけしきも・かたくなにも・なしと見えしかども、さすが法華経のみざなれば・しらぬ人人あまたありしかば言もかけずありしに、経はてさせ給いて皆人も立ちかへる、此の人も立ちかへりしが使を入れて申せしは安房の国の・あまつと申すところの者にて候が、をさなくより御心ざし・をもひまいらせて候上母にて候人も・をろかならず申しなれなれしき申し事にて候へども・ひそかに申すべき事の候、さきざきまひりて次第になれまいらせてこそ申し入るべきに候へども・ゆみやとる人に・みやづかひて・ひま候はぬ上事きうになり候いぬる上は・をそれを・かへりみず申すと・こまごまときこえしかば、なにとなく生国の人なる上そのあたりの事は・はばかるべきにあらずとて入れたてまつりて・こまごまと・こしかたゆくすへかたりてのちには世間無常なりいつと申す事をしらず、其の上武士に身をまかせたる身なり又ちかく申しかけられて候事のがれがたし、さるにては後生こそをそろしく候へ・たすけさせ給へと・きこへしかば経文をひいて申しきかす、彼のなげき申せしは父はさてをき候いぬ、やもめにて候はわをさしをきて前に立ち候はん事こそ不孝にをぼへ候へ、もしやの事候ならば御弟子に申しつたへてたび候へと・ねんごろに・あつらへ候いしが、そのたびは事ゆへなく候へけれども後にむなしくなる事のいできたりて候いけるにや、人間に生をうけたる人上下につけてうれへなき人はなけれども時にあたり人人にしたがひて・なげき・しなじななり、譬へば病のならひは何の病も重くなりぬれば是にすぎたる病なしと・をもうがごとし、主のわかれ・をやのわかれ夫妻のわかれ・いづれか・おろかなるべき・なれども主は又他の主もありぬべし、夫妻は又かはりぬれば心をやすむる事もありなん、をやこのわかれこそ月日のへだつるままに・いよいよ・なげきふかかりぬべくみへ候へ、をやこのわかれにも・をやはゆきて・子は・とどまるは同じ無常なれども・ことはりにもや、をひたるはわは・とどまりて・わきき子のさきにたつ・なさけなき事なれば神も仏もうらめしや、いかなれば・をやに子をかへさせ給いてさきには・たてさせ給はず・とどめをかせ給いて・なげかさせ給うらんと心うし、心なき畜生すら子のわかれしのびがたし、竹林精舎の金鳥は・かひこのために身をやき鹿野苑の鹿は胎内の子を・をしみて王の前にまいれり、いかにいわうや心あらん人にをいてをや、されば王陵が母は子のためになつきをくだき、神尭皇帝の后は胎内の太子の御ために腹をやぶらせ給いき、此等を・をもひ・つづけさせ給はんには火にも入り頭をもわりて我が子の形をみるべきならば・をしからずとこそ・おぼすらめとをもひやられて・なみだもとどまらず。 又御消息に云く人をも・ころしたりし者なればいかやうなる・ところにか生れて候らん・をほせをかほり候はんと云云、夫れ針は水にしずむ雨は空にとどまらず、蟻子を殺せる者は地獄に入り死にかばねを切れる者は悪道をまぬかれず、何に況や人身をうけたる者を・ころせる人をや、但し大石も海にうかぶ船の力なり大火も・きゆる事水の用にあらずや、小罪なれども懺悔せざれば悪道をまぬがれず、大逆なれども懺悔すれば罪きへぬ、所謂る粟をつみたりし比丘は五百生が間・牛となる、〓をつみし者は三悪道に堕ちにき、羅摩王・抜提王・毘楼真王・那〓沙王・迦帝王・毘舎〓王・月光王・光明王・日光王・愛王・持多人王等の八万余人の諸王は皆父を殺して位につく、善知識にあはざれば罪きへずして阿鼻地獄に入りにき、波羅奈城に悪人あり其の名をば阿逸多という母をあひせしゆへに父を殺し妻とせり、父が師の阿羅漢ありて教訓せしかば阿らかむを殺す、母又他の夫にとつぎしかば又母をも殺しつ、具に三逆罪をつくりしかば隣里の人うとみしかば、一身たもちがたくして祇〓精舎にゆいて出家をもとめしに諸僧許さざりしかば悪心強盛にして多くの僧坊をやきぬ、然れども釈尊に値い奉りて出家をゆるし給にき、北天竺に城あり細石となづく彼の城に王あり竜印という、父を殺してありしかども後に此れをおそれて彼の国をすてて仏にまいりたりしかば仏・懺悔を許し給いき、阿闍世王はひととなり三毒熾盛なり十悪ひまなし、其の上父をころし母を害せんとし提婆達多を師として無量の仏弟子を殺しぬ、悪逆のつもりに二月十五日・仏の御入滅の日にあたりて無間地獄の先相に七処に悪瘡出生して玉体しづかならず、大火の身をやくがごとく熱湯をくみかくるが・ごとくなりしに・六大臣まいりて六師外道を召されて悪瘡を治すべきやう申しき、今の日本国の人人の禅師・律師・念仏者・真言師等を善知識とたのみて蒙古国を調伏し後生をたすからんとをもうがごとし、其の上提婆達多は阿闍世王の本師なり、外道の六万蔵仏法の八万蔵をそらにして世間出世のあきらかなる事日月と明鏡とに向うがごとし、今の世の天台宗の碩学の顕密二道を胸にうかべ一切経をそらんぜしがごとし、此れ等の人人・諸の大臣・阿闍世王を教訓せしかば仏に帰依し奉る事なかりし程に摩竭提に天変・度度かさなり地夭しきりなる上・大風・大旱ばつ・飢饉・疫癘ひまなき上他国よりせめられて・すでに・かうとみえしに悪瘡すら身に出ししかば国土一時にほろびぬとみえし程に俄に仏前にまいり懺悔して罪きえしなり。 これらは・さてをき候いぬ人のをやは悪人なれども子・善人なれば・をやの罪ゆるす事あり、又子悪人なれども親善人なれば子の罪ゆるさるる事あり、されば故弥四郎殿は設い悪人なりともうめる母・釈迦仏の御宝前にして昼夜なげきとぶらはば争か彼人うかばざるべき、いかに・いわうや彼の人は法華経を信じたりしかば・をやをみちびく身とぞ・なられて候らん、法華経を信ずる人はかまへて・かまへて法華経のかたきををそれさせ給へ、念仏者と持斎と真言師と一切南無妙法蓮華経と申さざらん者をばいかに法華経をよむとも法華経のかたきとしろしめすべし、かたきをしらねば・かたきにたぼらかされ候ぞ、あはれあはれ・けさんに入りてくわしく申し候はばや、又これよりそれへわたり候三位房・佐度公等にたびごとに・このふみを・よませてきこしめすべし、又この御文をば明慧房にあづけさせ給うべし、なにとなく我が智慧はたらぬ者が或はをこづき或は此文をさいかくとしてそしり候なり、或はよも此の御房は弘法大師にはまさらじ・よも慈覚大師にはこへじ・なんど人くらべをし候ぞかし、かく申す人をば・ものしらぬ者と・をぼすべし