同志と共に

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可延定業書かえんじょうごうしょ

そもそも病気にに二種類がある。
一つには軽病、二つには重病である。
重病すら善医に値うて急に対治すれば命猶存す何に況や軽病をや、
業に二あり一には定業二には不定業、定業すら能く能く懺悔すれば必ず消滅す何に況や不定業をや、
法華経第七に云く「此の経は則為閻浮提の人の病の良薬なり」等云云、
此の経文は法華経の文なり、一代の聖教は皆如来の金言・無量劫より已来不妄語の言なり、就中此の法華経は仏の正直捨方便と申して真実が中の真実なり、多宝・証明を加え諸仏・舌相を添え給ういかでか・むなしかるべき、其の上最第一の秘事はんべり此の経文は後五百歳・二千五百余年の時女人の病あらんと・とかれて候文なり、
阿闍世王は御年五十の二月十五日に大悪瘡・身に出来せり、大医耆婆が力も及ばず三月七日必ず死して無間大城に堕つべかりき、五十余年が間の大楽一時に滅して一生の大苦・三七日にあつまれり、定業限りありしかども仏・法華経をかさねて演説して涅槃経となづけて大王にあたい給いしかば身の病・忽に平愈し心の重罪も一時に露と消えにき、
仏滅後一千五百余年・陳臣と申す人ありき命知命にありと申して五十年に定まりて候いしが天台大師に値いて十五年の命を宣べて六十五までをはしき、其の上不軽菩薩は更増寿命ととかれて法華経を行じて定業をのべ給いき、彼等は皆男子なり女人にはあらざれども法華経を行じて寿をのぶ、
又陳臣は後五百歳にもあたらず冬の稲米・夏の菊花のごとし、当時の女人の法華経を行じて定業を転ずることは秋の稲米・冬の菊花誰か・をどろくべき。
したがって日蓮もわが母を祈ったところ、現在のその身のままで病気がなおっただけではなく、四年も寿命を延ばしました。(あなたは)今女性の身で病を身に受けておられます。試しに法華経の信心を奮い立ててみてください。しかも善い医者がいます。中務三郎左衛門尉殿は法華経の行者です。
命というものは、この身で第一の尊い宝でてす。一日なりともこれを延ばすならば、千万両の金にも勝ります。
法華経が釈尊一代の聖教のなかで、超越して素晴らしいといわれるのは寿量品があるからです。世界一の王子であっても、短命であるならば、草よりも軽いものです。太陽のように輝く智者であっても、夭折すれば生きている犬にも劣ります。
早く心の財を重ねて、急いで病気を治すことです。
此れよりも申すべけれども人は申すによて吉事もあり又我が志のうすきかと・をもう者もあり人の心しりがたき上先先に少少かかる事候、此の人は人の申せばすこそ心へずげに思う人なり、なかなか申すはあしかりぬべし、但なかうどもなく・ひらなさけに又心もなくうちたのませ給え、去年の十月これに来りて候いしが御所労の事をよくよくなげき申せしなり、当事大事のなければ・をどろかせ給わぬにや、明年正月二月のころをひは必ずをこるべしと申せしかば・これにも・なげき入つて候。 富木殿も此の尼ごぜんをこそ杖柱とも恃たるになんど申して候いしなり随分にわび候いしぞ・きわめて・まけじたましの人にて我がかたの事をば大事と申す人なり、かへすがへす身の財をだに・をしませ給わば此の病治がたかるべし、一日の命は三千界の財にもすぎて候なり先ず御志をみみへさせ給うべし、法華経の第七の巻に三千大千世界の財を供養するよりも手の一指を焼きて仏・法華経に供養せよと・とかれて候はこれなり、
命は全宇宙の宝よりも尊いのです。しかも年齢もまだそれほどではありません。そのうえ法華経にあわれたのです。一日でも長く生きていかれるならば、それだけ功徳も積もります。大事な大事な惜しい命です。
御姓名並びに御年を我とかかせ給いて・わざと・つかわせ大日月天に申しあぐべし、いよどのもあながちになげき候へば日月天に自我偈をあて候はんずるなり、恐恐。