同志と共に

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転重軽受法門てんじゅうきょうじゅほうもん

修利槃特と申すは兄弟二人なり、一人もありしかば・すりはんどくと申すなり、各各三人は又かくのごとし一人も来らせ給へば三人と存じ候なり。 涅槃経に転重軽受と申す法門あり、先業の重き今生につきずして未来に地獄の苦を受くべきが今生にかかる重苦に値い候へば地獄の苦みぱつときへて死に候へば人天・三乗・一乗の益をうる事の候、不軽菩薩の悪口罵詈せられ杖木瓦礫をかほるもゆへなきにはあらず・過去の誹謗正法のゆへかと・みへて其罪畢已と説れて候は不軽菩薩の難に値うゆへに過去の罪の滅するかとみへはんべり一是、又付法蔵の二十五人は仏をのぞきたてまつりては皆仏のかねて記しをき給える権者なり、其の中に第十四の提婆菩薩は外道にころされ第二十五師子尊者は檀弥栗王に頚を刎られ其の外仏陀密多竜樹菩薩なんども多くの難にあへり、又難なくして王法に御帰依いみじくて法をひろめたる人も候、これは世に悪国善国有り法に摂受折伏あるゆへかとみへはんべる、正像猶かくのごとし中国又しかなり、これは辺土なり末法の始なり、かかる事あるべしとは先にをもひさだめぬ期をこそまち候いつれ二是、この上の法門はいにしえ申しをき候いきめづらしからず円教の六即の位に観行即と申すは所行如所言・所言如所行と云云、理即名字の人は円人なれども言のみありて真なる事かたし、例せば外典の三墳五典には読む人かずをしらず、かれがごとくに世ををさめふれまう事千万が一つもかたしされば世のをさまる事も又かたし、法華経は紙付に音をあげて・よめども彼の経文のごとくふれまう事かたく候か、譬喩品に云く「経を読誦し書持すること有らん者を見て軽賎憎嫉して結恨を懐かん」法師品に云く「如来現在すら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」勧持品に云く「刀杖を加え乃至数数擯出せられん」安楽行品に云く「一切世間怨多くして信じ難し」と、此等は経文には候へども何世にかかるべしとも・しられず、過去の不軽菩薩・覚徳比丘なんどこそ身にあたりてよみまいらせて候いけると・みへはんべれ、現在には正像二千年はさてをきぬ、末法に入つては此の日本国には当時は日蓮一人みへ候か、昔の悪王の御時多くの聖僧の難に値い候いけるには又所従・眷属等・弟子檀那等いくぞばくか・なげき候いけんと今をもちて・をしはかり候、今日蓮・法華経一部よみて候一句一偈に猶受記をかほれり何に況や一部をやと、いよいよたのもし、但おほけなく国土までとこそ・をもひて候へども我と用いられぬ世なれば力及ばず、しげきゆへにとどめ候い了んぬ。