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夫れ法華経第一方便品に云く「諸仏の智慧は甚深無量なり」云云、
釈に云く「境淵無辺なる故に甚深と云い智水測り難き故に無量と云う」と、
抑此の経釈の心は仏になる道は豈境智の二法にあらずや、されば境と云うは万法の体を云い智と云うは自体顕照の姿を云うなり、而るに境の淵ほとりなく・ふかき時は智慧の水ながるる事つつがなし、此の境智合しぬれば即身成仏するなり、法華以前の経は境智・各別にして而も権教方便なるが故に成仏せず、今法華経にして境智一如なる間・開示悟入の四仏知見をさとりて成仏するなり、此の内証に声聞・辟支仏更に及ばざるところを次下に一切声聞辟支仏所不能知と説かるるなり、此の境智の二法は何物ぞ但南無妙法蓮華経の五字なり、此の五字を地涌の大士を召し出して結要付属せしめ給う是を本化付属の法門とは云うなり。
然るに上行菩薩等・末法の始の五百年に出生して此の境智の二法たる五字を弘めさせ給うべしと見えたり経文赫赫たり明明たり誰か是を論ぜん、日蓮は其の人にも非ず又御使にもあらざれども先序分にあらあら弘め候なり、既に上行菩薩・釈迦如来より妙法の智水を受けて末代悪世の枯槁の衆生に流れかよはし給う是れ智慧の義なり、釈尊より上行菩薩へ譲り与へ給う然るに日蓮又日本国にして此の法門を弘む、又是には総別の二義あり総別の二義少しも相そむけば成仏思もよらず輪廻生死のもといたらん、例せば大通仏の第十六の釈迦如来に下種せし今日の声聞は全く弥陀・薬師に遇て成仏せず譬えば大海の水を家内へくみ来らんには家内の者皆縁をふるべきなり、然れども汲み来るところの大海の一滴を閣きて又他方の大海の水を求めん事は大僻案なり大愚癡なり、法華経の大海の智慧の水を受けたる根源の師を忘れて余へ心をうつさば必ず輪廻生死のわざはいなるべし、但し師なりとも誤ある者をば捨つべし又捨てざる義も有るべし世間・仏法の道理によるべきなり、
末法の僧どもは仏法の道理を知らないで、自分の慢心に執着して、師をいやしみ檀那にへつらう。ひたすら正直で少欲知足[欲も少なく得るもので満足すること]である僧こそが真実の僧なのである。
法華文句の一にこうある。
「既にいまだ真実を開いて顕していない者でも、第一義天に恥じ、多くの聖人に恥じるなら、この者は有羞ウシユウの僧[真実の法を得た僧をめざして向上に努める者]である。観法の修行によって開かれる智慧が発揮されれば即ち真実の僧である」
涅槃経にこうある。
「もし善い比丘がいて、法を壊る者を見ても放置し、責め立てず、追い立てたり、はっきりと罪過をあげて糾明したり、処断もしなければ、まさに知るべきである。この人は仏法の中の敵であると。
もしよく追い立てたて、はっきりと罪過をあげて糾明するならば、この者は私の弟子であり、真の声聞である」
この文の中にある「見壊法者」の見と、「置不呵責」の置の字をよくよく心に刻みなさい。
法華経の敵を見ながら放置して責めなければ、師匠も弟子もともに無間地獄に堕ちることは疑いないのである。
南岳大師は「多くの悪人とともに地獄に堕ちるだろう」といっている。
謗法を責めずに成仏を願うのは、火の中に水を求め、水の中に火を尋ねるようなものである。なんとはかないことだろうか。
どのように法華経を信じようとも、謗法であるならば必ず地獄に堕ちるのである。
うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し、毒気深入・失本心故は是なり、
経に云く「在在諸の仏土に常に師と倶に生ぜん」
又云く「若し法師に親近せば速かに菩薩の道を得ん是の師に随順して学せば恒沙の仏を見たてまつることを得ん」
釈に云く「本此の仏に従つて初めて道心を発し亦此の仏に従つて不退地に住す」
又云く「初め此の仏菩薩に従つて結縁し還此の仏菩薩に於て成就す」云云、
返す返すも本従たがへずして成仏せしめ給うべし、釈尊は一切衆生の本従の師にて而も主親の徳を備へ給う、
この法門を日蓮が説くので「忠言は耳に逆らう」というのが道理であるから、流罪にされたり、命にも及んだのである。しかしながら、いまだ懲りてはおりません。
法華経は種であり、仏は植え手であり、衆生は田なのです。
若し此等の義をたがへさせ給はば日蓮も後生は助け申すまじく候、恐恐謹言。