1 日蓮大聖人御書現代語訳

同志と共に

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呵責謗法滅罪抄かしゃくほうぼうめつざいしょう

御文委く承り候、法華経の御ゆへに已前に伊豆の国に流され候いしもかう申せば謙ぬ口と人は・おぼすべけれども心ばかりは悦ば入つて候いき、無始より已来法華経の御ゆへに実にても虚事にても科に当るならば争か・かかる・つたなき凡夫とは生れ候べき、一端は・わびしき様なれども法華経の御為なれば・うれしと思い候いしに少し先生の罪は消えぬらんと思しかども無始より已来の十悪・四重・六重・八重・十重・五無間・誹謗正法・一闡提の種種の重罪・大山より高く大海より深くこそ候らめ、五逆罪と申すは一逆を造る猶・一劫・無間の果を感ず。 一劫と申すは人寿八万歳より百年に一を減し是くの如く乃至十歳に成りぬ、又十歳より百年に一を加うれば次第に増して八万歳になるを一劫と申す、親を殺す者此程の無間地獄に堕ちて隙もなく大苦を受くるなり、法華経誹謗の者は心には思はざれども色にも嫉み戯れにも〓る程ならば経にて無けれども法華経に名を寄たる人を軽しめぬれば上の一劫を重ねて無数劫・無間地獄に堕ち候と見えて候、不軽菩薩を罵打し人は始こそ・さありしかども後には信伏随従して不軽菩薩を仰ぎ尊ぶ事・諸天の帝釈を敬ひ我等が日月を畏るるが如くせしかども始め〓りし大重罪消えかねて千劫・大阿鼻地獄に入つて二百億劫・三宝に捨てられ奉りたりき。 五逆と謗法とを病に対すれば五逆は霍乱の如くして急に事を切る、謗法は白癩病の如し始は緩に後漸漸に大事なり、謗法の者は多くは無間地獄に生じ少しは六道に生を受く、人間に生ずる時は貧窮・下賎等・白癩病等と見えたり、日蓮は法華経の明鏡をもつて自身に引き向かへたるに都て・くもりなし、過去の謗法の我が身にある事疑いなし此の罪を今生に消さずば未来争か地獄の苦をば免るべき、過去遠遠の重罪をば何にしてか皆集めて今生に消滅して未来の大苦を免れんと勘えしに当世・時に当つて謗法の人人・国国に充満せり、其の上・国主既に第一の誹謗の人たり、此の時此の重罪を消さずば何の時をか期すべき、日蓮が小身を日本国に打ち覆うてののしらば無量無辺の邪法の四衆等・無量無辺の口を以て一時に〓るべし、爾の時に国主は謗法の僧等が方人として日蓮を怨み或は頚を刎ね或は流罪に行ふべし、度度かかる事、出来せば無量劫の重罪・一生の内に消なんと謀てたる大術・少も違ふ事なく・かかる身となれば所願も満足なるべし。 然れども凡夫なれば動すれば悔ゆる心有りぬべし、日蓮だにも是くの如く侍るに前後も弁へざる女人なんどの各仏法を見ほどかせ給わぬが何程か日蓮に付いてくやしと・おぼすらんと心苦しかりしに、案に相違して日蓮よりも強盛の御志どもありと聞へ候は偏に只事にあらず、教主釈尊の各の御心に入り替らせ給うかと思へば感涙押え難し、妙楽大師の釈に云く記七「故に知んぬ末代一時も聞くことを得聞き已つて信を生ずる事宿種なるべし」等云云、又云く弘二「運像末に在つて此の真文を矚る宿に妙因を殖うるに非ざれば実に値い難しと為す」等云云。 妙法蓮華経の五字をば四十余年・此れを秘し給ふのみにあらず迹門十四品に猶是を抑へさせ給ひ寿量品にして本果・本因の蓮華の二字を説き顕し給ふ、此の五字をば仏・文殊・普賢・弥勒・薬王等にも付属せさせ給はず、地涌の上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩等を寂光の大地より召し出して此れを付属し給ふ、儀式ただ事ならず宝浄世界の多宝如来・大地より七宝の塔に乗じて涌現せさせ給ふ、三千大千世界の外に四百万億那由佗の国土を浄め高さ五百由旬の宝樹を尽一箭道に殖え並べて・宝樹一本の下に五由旬の師子の座を敷き並べ十方分身の仏尽く来り坐し給ふ、又釈迦如来は垢衣を脱で宝塔を開き多宝如来に並び給ふ、譬えば青天に日月の並べるが如し帝釈と頂生王との善法堂に在すが如し、此の界の文殊等・他方の観音等・十方の虚空に雲集せる事・星の虚空に充満するが如し、此の時此の土には華厳経の七処八会・十方世界の台上の盧舎那仏の弟子・法慧・功徳林・金剛幢・金剛蔵等の十方刹土・塵点数の大菩薩雲集せり、方等の大宝坊・雲集の仏菩薩・般若経の千仏・須菩提帝釈等・大日経の八葉九尊の四仏・四菩薩・金剛頂経の三十七尊等・涅槃経の倶尸那城へ集会せさせ給いし十方法界の仏菩薩をば文殊・弥勒等互に見知て御物語り是ありしかば此等の大菩薩は出仕に物狎れたりと見え候、今此の四菩薩出でさせ給うて後・釈迦如来には九代の本師・三世の仏の御母にておはする文殊師利菩薩も一生補処と・ののしらせ給ふ弥勒等も此の菩薩に値いぬれば物とも見えさせ給はず、譬えば山かつが月卿に交り〓猴が師子の座に列るが如し、此の人人を召して妙法蓮華経の五字を付属せさせ給いき、付属も只ならず十神力を現じ給ふ、釈迦は広長舌を色界の頂に付け給へば諸仏も亦復是くの如く四百万億那由佗の国土の虚空に諸仏の御舌赤虹を百千万億・並べたるが如く充満せしかばおびただしかりし事なり、是くの如く不思議の十神力を現じて結要付属と申して法華経の肝心を抜き出して四菩薩に譲り、我が滅後に十方の衆生に与へよと慇懃に付属して其の後又一つの神力を現じて文殊等の自界他方の菩薩・二乗・天人・竜神等には一経乃至・一代聖教をば付属せられしなり、本より影の身に随つて候様につかせ給ひたりし迦葉・舎利弗等にも此の五字を譲り給はず此れは・さてをきぬ、文殊・弥勒等には争か惜み給うべき器量なくとも嫌い給うべからず、方方不審なるを或は他方の菩薩は此の土に縁少しと嫌ひ、或は此の土の菩薩なれども娑婆世界に結縁の日浅し、或は我が弟子なれども初発心の弟子にあらずと嫌はれさせ給ふ程に、四十余年・並びに迹門十四品の間は一人も初発心の御弟子なし、此の四菩薩こそ五百塵点劫より已来・教主釈尊の御弟子として初発心より又他仏につかずして二門をもふまざる人人なりと見えて候、天台の云く「但下方の発誓を見る」等云云、又云く「是れ我が弟子なり応に我が法を弘むべし」等云云、妙楽の云く「子父の法を弘む」等云云、道暹云く「法是れ久成の法なるに由るが故に久成の人に付す」等云云、此の妙法蓮華経の五字をば此の四人に譲られ候。 而るに仏の滅後・正法一千年・像法一千年・末法に入つて二百二十余年が間・月氏・漢土・日本・一閻浮提の内に未だ一度も出でさせ給はざるは何なる事にて有るらん、正くも譲らせ給はざりし文殊師利菩薩は仏の滅後四百五十年まで此の土におはして大乗経を弘めさせ給ひ、其の後も香山・清涼山より度度来つて大僧等と成つて法を弘め、薬王菩薩は天台大師となり観世音は南岳大師と成り、弥勒菩薩は傅大士となれり、迦葉阿難等は仏の滅後二十年・四十年・法を弘め給ふ、嫡子として譲られさせ給へる人の未だ見えさせ給はず、二千二百余年が間・教主釈尊の絵像・木像を賢王・聖主は本尊とす、然れども但小乗・大乗・華厳・涅槃・観経・法華経の迹門・普賢経等の仏・真言・大日経等の仏・宝塔品の釈迦・多宝等をば書けどもいまだ寿量品の釈尊は山寺精舎にましまさず何なる事とも量りがたし、釈迦如来は後五百歳と記し給ひ正像二千年をば法華経流布の時とは仰せられず、天台大師は「後の五百歳遠く妙道に沾わん」と未来に譲り、伝教大師は「正像稍過ぎ已つて末法太だ近きに有り」等と書き給いて、像法の末は未だ法華経流布の時ならずと我と時を嫌ひ給ふ、されば・をしはかるに地涌千界の大菩薩は釈迦・多宝・十方の諸仏の御譲り御約束を空く黙止て・はてさせ給うべきか。 外典の賢人すら時を待つ郭公と申す畜鳥は卯月五月に限る、此の大菩薩も末法に出ずべしと見えて候、いかんと候べきぞ瑞相と申す事は内典・外典に付いて必ず有るべき事の先に現ずるを云うなり、蜘蛛かかつて喜事来り〓鵲鳴いて客人来ると申して小事すら験先に現ず何に況や大事をや、されば法華経序品の六瑞は一代超過の大瑞なり、涌出品は又此れには似るべくもなき大瑞なり、故に天台の云く「雨の猛きを見ては竜の大きなる事を知り華の盛なるを見ては池の深き事を知る」と書かれて候、妙楽云く「智人は起を知り蛇は自ら蛇を知る」と云云、今日蓮も之を推して智人の一分とならん、去る正嘉元年太歳丁巳八月二十三日・戌亥の刻の大地震と、文永元年太歳甲子七月四日の大彗星、此等は仏滅後二千二百余年の間・未だ出現せざる大瑞なり、此の大菩薩の此の大法を持ちて出現し給うべき先瑞なるか、尺の池には丈の浪たたず驢・吟ずるに風・鳴らず、日本国の政事乱れ万民歎くに依つては此の大瑞現じがたし、誰か知らん法華経の滅不滅の大瑞なりと。 二千余年の間・悪王の万人に〓らるる謀叛の者の諸人に・あだまるる等日蓮が失もなきに高きにも下きにも罵詈毀辱刀杖瓦礫等ひまなき事二十余年なり、唯事にはあらず過去の不軽菩薩の威音王仏の末に多年の間・罵詈せられしに相似たり、而も仏・彼の例を引いて云く我が滅後の末法にも然るべし等と記せられて候に近くは日本遠くは漢土等にも法華経の故にかかる事有りとは未だ聞かず人は悪んで是を云はず、我と是を云はば自讃に似たり、云わずば仏語を空くなす過あり、身を軽んじて法を重んずるは賢人にて候なれば申す、日蓮は彼の不軽菩薩に似たり、国王の父母を殺すも民が考妣を害するも上下異なれども一因なれば無間におつ、日蓮と不軽菩薩とは位の上下はあれども同業なれば彼の不軽菩薩成仏し給はば日蓮が仏果疑うべきや、彼は二百五十戒の上慢の比丘に罵られたり、日蓮は持戒第一の良観に讒訴せられたり、彼は帰依せしかども千劫阿鼻獄におつ、此れは未だ渇仰せず知らず無数劫をや経んずらん不便なり不便なり。 疑つて云く正嘉の大地震等の事は去る文応元年太歳庚申七月十六日宿屋の入道に付けて故最明寺入道殿へ奉る所の勘文・立正安国論には法然が選択に付いて日本国の仏法を失ふ故に天地瞋をなし自界叛逆難と他国侵遍難起るべしと勘へたり、此には法華経の流布すべき瑞なりと申す先後の相違之有るか如何、答えて云く汝能く之を問えり、法華経の第四に云く「而も此の経は如来現在すら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」等云云、同第七に況滅度後を重ねて説いて云く「我が滅度の後・後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布せん」等云云、仏滅後の多怨は後五百歳に妙法蓮華経の流布せん時と見えて候、次ぎ下に又云く「悪魔・魔民・諸天竜・夜叉・鳩槃荼」等云云、行満座主伝教大師を見て云く「聖語朽ちず今此の人に遇えり我れ披閲する所の法門日本国の阿闍梨に授与す」等云云、今も又是くの如し末法の始に妙法蓮華経の五字を流布して日本国の一切衆生が仏の下種を懐妊すべき時なり、例せば下女が王種を懐妊すれば諸女瞋りをなすが如し、下賎の者に王頂の珠を授与せんに大難来らざるべしや、一切世間・多怨難信の経文是なり、涅槃経に云く「聖人に難を致せば他国より其の国を襲う」と云云、仁王経も亦復是くの如し取意、日蓮をせめて弥よ天地・四方より大災・雨の如くふり泉の如くわき浪の如く寄せ来るべし、国の大蝗虫たる諸僧等・近臣等が日蓮を讒訴する弥よ盛ならば大難倍来るべし、帝釈を射る修羅は箭還つて己が眼にたち阿那婆達多竜を犯さんとする金翅鳥は自ら火を出して自身をやく、法華経を持つ行者は帝釈・阿那婆達多竜に劣るべきや、章安大師の云く「仏法を壊乱するは仏法の中の怨なり慈無くして詐わり親むは即ち是れ彼が怨なり」等云云、又云く「彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり」等云云。 日本国の一切衆生は法然が捨閉閣抛と禅宗が教外別伝との誑言に誑かされて一人もなく無間大城に堕つべしと勘へて・国主万民を憚からず大音声を出して二十余年が間よばはりつるは竜逢と比干との直臣にも劣るべきや、大悲・千手観音の一時に無間地獄の衆生を取り出すに似たるか、火の中の数子を父母が一時に取り出さんと思ふに手少なければ慈悲前後有るに似たり、故に千手・万手・億手ある父母にて在すなり、爾前の経経は一手・二手等に似たり法華経は「一切衆生を化して皆仏道に入らしむ」と無数手の菩提是なり、日蓮は法華経並びに章安の釈の如くならば日本国の一切衆生の慈悲の父母なり、天高けれども耳とければ聞かせ給うらん地厚けれども眼早ければ御覧あるらん天地既に知し食しぬ、又一切衆生の父母を罵詈するなり父母を流罪するなり、此の国此の両三年が間の乱政は先代にもきかず法に過ぎてこそ候へ。 抑悲母の孝養の事・仰せ遣され候感涙押へ難し、昔元重等の五童は五郡の異性の他人なり兄弟の契りをなして互に相背かざりしかば財三千を重ねたり、我等親と云う者なしと歎きて途中に老女を儲けて母と崇めて一分も心に違はずして二十四年なり、母忽に病に沈んで物いはず、五子天に仰いで云く我等孝養の感無くして母もの云わざる病あり、願くは天・孝の心を受け給はば此の母に物いはせ給へと申す、其の時に母・五子に語つて云く我は本是れ大原の陽猛と云うものの女なり、同郡の張文堅に嫁す文堅死にき、我に一人の児あり名をば烏遺と云いき彼が七歳の時・乱に値うて行く処をしらず、汝等五子に養はれて二十四年・此の事を語らず、我が子は胸に七星の文あり右の足の下に黒子ありと語り畢つて死す、五子葬をなす途中にして国令の行くにあひぬ、彼の人物記する嚢を落せり此の五童が取れるになして禁め置かれたり、令来つて問うて云く汝等は何くの者ぞ、五童答えて云く上に言えるが如し、爾の時に令上よりまろび下て天に仰ぎ地に泣く、五人の縄をゆるして我が座に引き上せて物語りして云く我は是れ烏遺なり、汝等は我が親を養いけるなり此の二十四年の間・多くの楽みに値へども非母の事をのみ思い出でて楽みも楽しみならず、乃至大王の見参に入れて五県の主と成せりき、他人集つて他の親を養ふに是くの如し、何に況や同父同母の舎弟妹女等が・いういうたるを顧みば天も争か御納受なからんや。 浄蔵・浄眼は法華経をもつて邪見の慈父を導びき、提婆達多は仏の御敵・四十余年の経経にて捨てられ臨終悪くして大地破れて無間地獄に行きしかども法華経にて召し還して天王如来と記せらる、阿闍世王は父を殺せども仏涅槃の時・法華経を聞いて阿鼻の大苦を免れき。例せば此の佐渡の国は畜生の如くなり又法然が弟子充満せり、鎌倉に日蓮を悪みしより百千万億倍にて候、一日も寿あるべしとも見えねども各御志ある故に今まで寿を支へたり、是を以て計るに法華経をば釈迦・多宝・十方の諸仏・大菩薩・供養恭敬せさせ給へば此の仏・菩薩は各各の慈父慈母に日日・夜夜・十二時にこそ告げさせ給はめ、当時主の御おぼえの・いみじく・おはするも慈父・悲母の加護にや有るらん、兄弟も兄弟とおぼすべからず只子とおぼせ、子なりとも梟鳥と申す鳥は母を食ふ破鏡と申す獣の父を食わんと・うかがふ、わが子・四郎は父母を養ふ子なれども悪くばなにかせん、他人なれどもかたらひぬれば命にも替るぞかし、舎弟等を子とせられたらば今生の方人・人目申す計りなし、妹等を女と念はば・などか孝養せられざるべき、是へ流されしには一人も訪う人もあらじとこそ・おぼせしかども同行七八人よりは少からず、上下のくわても各の御計ひなくばいかがせん、是れ偏に法華経の文字の各の御身に入り替らせ給いて御助けあるとこそ覚ゆれ。 何なる世の乱れにも各各をば法華経・十羅刹・助け給へと湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり、事繁ければ・とどめ候。