同志と共に

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月水御書がっすいごしょ

言付けられました御消息のお手紙に、「法華経を日ごとに一品づつ、二十八日間に一部を読誦しましたが、現在は薬王品の一品を毎日のつとめとしております。ただもとのように一品ずつを読むべきでしょうか」とありました。
法華経は一日のつとめとして、一部八巻・二十八品、あるいは一巻、あるいは一品・一偈・一句・一字、あるいは題目だけを南無妙法蓮華経とただ一遍唱えたり、また一生の間にただ一度唱えたり、また一生の間にただ一遍唱えるのを聞いて随喜したり、また随喜する声を聞いて随喜しこのように五十展転して、終わりになれば志もうすくなり、随喜の心の弱き事が二・三歳のおさない者のはかなように、また牛や馬などが前後をわきまえないのと同じようにはかなくなっても、他経を学ぶ人が利根で智慧もかしこく、舎利弗・目連・文殊弥勒のような人で諸経を胸の内にうかべておられる人々の御功徳よりも、勝れていることが百千万億倍であると、経文並びに天台・妙楽の六十巻の中に明かされています。
したがって経文には「仏の智慧をもって多少を籌量チユウリヨウすともその辺を得ず」と説かれており、仏の御智慧すらこの人の功徳を知ることはできません。仏の智慧のありがたさは、この三千大千世界に七日、もしくは十四日間など降る雨の数でさえもご存じであるが、ただ法華経の一字を唱える人の功徳は知ることができないと経文にあります。まして我ら逆罪の凡夫がこの功徳を知る事はできません。
しかしながら、如来滅後二千二百年余りに及んで、五濁が盛んとなって年も久しい。何事につけても善いことは珍しい。たとえ善を作る人も一つの善のために十の悪を作って重ねて、結局は小善のために大悪をつくり、心では大善を修したという慢心を起こす世となった。
ところが、如来が世に出現された国からは二十万里の山海をへだてた東による日本という辺土の小島に生まれ、五障の雲が厚く三従の絆につながれた女性の御身として、法華経を御信用されることはありがたいことでどのように申しても限りないほどです。
そもそも一代聖教を開き見て、顕密の二道を究められたような智者や学匠でさえ、近ごろは法華経を捨てて念仏を称えているのに、何なる御宿善があってこの法華経を一偈一句も唱える御身と生まれてこられたのか。
それゆえこの御消息を拝見したら、優曇華を見た眼よりも珍しく、一眼の亀が浮木の穴に値うよりもまれなことかと、心より尊いことであると思いましたので、一言一点でも随喜のことばを加えて、善根の余慶にもなるようにと励みましたが、ただ恐らくは雲が月をかくし、塵が鏡をくもらすように、短く拙いことばで殊勝にめでたい御功徳を隠して曇らせる事になるのではといたみいる思いでございます。
しかしながら、お尋ねに対して黙っているわけにもまいりませんので、一滴を大海に加え、火を太陽や月に添え、水を増し光を添えると思っていただきたい。
まず法華経というのは、八巻・一巻・一品・一偈・一句から、題目を唱えるのも功徳は同じ事と思ってください。たとえば大海の水は一滴であっても無量の大河の水を納めています。如意宝珠は一つの珠であっても万宝をふらします。百千万億の滴や珠もまたこれ同じで、法華経は一字でも一つの滴珠のようなのです。そして万億の字もまた万億の滴珠のようなものです。
他の経や諸仏の一字・一名号は大河の一滴の水、山海の一石のようなものです。一滴に無量の水を備えておらず、一石に無数の石の徳を備えもっていません。したがってこの法華経は何れの品であってもただ信用される品が尊いのです。
総じて如来の聖教は何れも妄語があるとは聞いておりませんが、再び仏教を考えてみると、如来の金言の中にも大と小・権と実・顕と密などということが経文から起こっております。したがって学者や人師の釈義におおよそ見えています。肝心を取っていえば、釈尊の五十年余りの諸教の中で先の四十年余りの説教は疑わしいのです。仏が自ら無量義経に「四十年余りは未だ真実を顕さず」という経文を明らかに説かれているからです。法華経においては、仏は自ら一句の文字を「正直に方便を捨ててただ無上道を説く」と定められました。そのうえ、多宝仏が大地から涌き出てこられて「妙法華経皆是真実」と証明を加え、十方の諸仏は皆法華経の座に集まって舌を出して、法華経の文字は一字たりとも妄語ではないと助証を添えられました。たとえば大王と后と長者等の一味が同じ心で約束をされたようにです。
もし法華経の一字でも唱える男女等が、十悪・五逆・四重等の無量の重業に引かれて悪道に堕ちるならば、太陽や月が東より出なくなっても、大地が反覆する事があっても、大海の潮の満ち引きなくなっても、割れた石が元通りになろうとも、大河の水が大海に入らないようになっても、法華経を信じる女性が世間の罪に引かれて悪道に堕ちる事はありません。
もし法華経を信じる女性が、物をねたむゆえに、意地が悪いために、貪欲が深いゆえに、などに引かれて悪道に堕ちるならば、釈迦如来・多宝仏・十方の諸仏が無量曠劫よりこのかた持ち続けてきた不妄語戒は、たちまちに破れて、提婆達多の虚誑罪よりも勝れ、瞿伽利の大妄語をも超えるでしょう。どうしてそのようなことがあるでしょう。
法華経を持つ人はたのもしくありがたいのです。
ただし一生の間、一悪も犯さず、五戒・八戒・十戒・十善戒・二百五十戒・五百戒・無量の戒を持ち、一切経を暗唱し、一切の諸仏・菩薩を供養し、無量の善根を積んだとしても、法華経を信用せず、また信用はしても諸経・諸仏と同じであると思いたり、並べて思わなくても他の善根を常に行じて、時々法華経を行じたり、法華経を信じない謗法の念仏者などと語りあい、法華経は末代の機にはあわないという者を罪とも思わなければ、一生の間に修行した無量の善根もたちまちに消え失せ、法華経の功徳もしばらく隠れてしまい、阿鼻大城に堕ちることは雨が空にとどまらないように、峰の石が谷へ転げ落ちるようなものであると思いなさい。
十悪・五逆を造った者であっても、法華経に背く事がなければ、往生成仏は疑いのない事なのです。一切経をたもち、諸仏・菩薩を信じる持戒の人でさえ法華経を用いる事が無ければ悪道に堕ちる事は疑いなしとあります。わたしが愚見をもって近年の世間を見れば、多くが在家・出家ともに誹謗の者ばかりです。
ところで、ご不審に思われていることについて申し上げる。法華経はどの品も先に申したように大事ではあるが、とくに二十八品の中で勝れており、立派であるのは方便品と寿量品です。ほかの品は皆枝葉です。したがって常の御所作には方便品の長行と寿量品の長行とを習い読んでください。また別に書き出してもよいでしょう。余の二十六品は、身に影がしたがい、玉に財が備わるようなものです。寿量品・方便品を読まれたら自然に他の品は読まなくても備わります。
薬王品・提婆品は女性の成仏往生を説かれている品ですが、提婆品は方便品の枝葉であり、薬王品は方便品と寿量品の枝葉なのです。したがって常にはこの方便品・寿量品の二品を読まれて、他の品は時々時間のあるときに読んでください。
また御消息のお手紙には、日ごとに三度ずつ七つの文字を拝しておられることと、南無一乗妙典と一万遍唱えることとを日ごとにしていますが、例の事になっている間は御経は読みません。拝することも一乗妙典と唱えることも、暗唱することはよろしてのでしょうか。それも例の事の日数の間はいけないのでしょうか。何日ほどで読んだらよいのでしょう」とあります。
この件はすべての女性ごとの不審で、常に問われることでございます。また昔も女性のご不審について申している人も多くおられます。
一代聖教にさして説かれているところはありませんので、証文を明らかに出した人もおりません。
日蓮がおおよその聖教を見たところ、酒肉・五辛・婬事などのように、不浄をはっきりと月日をさして禁じているように、月水を忌む経論をいまだ検討していません。
釈尊が在世の時、多くの若い女性が尼になり、仏法を修行しましたが、月水の時といって区別はしておりません。このことから考えると、月水というものは外より来た不浄でもなく、ただ女性特有のもので、生死の種を継ぐべき道理でしょう。また長い病のようなものです。例えば屎尿などは人の身より出るが、よく清くさえすれば、別に嫌うものでもありません。これとおなじことでしょう。
したがって、インドや中国などでもそれほど嫌うとも聞いていません。
ただ、日本国は神国です。この国の習慣として、(神は)仏・菩薩の垂迹として不思議なもので、経論にあわないことも多くありますが、これに背けば現に罰があります。委細に経論を考えますと、仏法の中の随方毘尼という戒の法門がこれに当たります。この戒の心は大きく違わなければ、少々仏教に違っていてもその国の風俗に違うべきではないと仏が一つの戒を説かれたのです。
このことを知らない智者たちは、神は鬼神であるから敬うべきではないなどという強硬な意見をいって、多くの檀那を損ないことがあるようです。もしそうであるなら、この国の神々は、多分はこの月水を忌むので、生をこの国に受けた人々は大いに忌むべきでしょうか。ただし女性の一日の所作には差支えないと思います。元より法華経を信じていないような人々が、法華経をなんとかして嫌わせようと思うが、さすがにただちに経を捨てよとはいえないので、身の不浄などとかこつけて、法華経を遠ざけようと思うので、また不浄の時これを行ずれば経をおろそかにすることとなるなどとおどして、罪を得させようとするのです。この事を一切心得られて、月水の時は七日ほどもその気のあるときは、御経を読まれずに、暗唱して南無妙法蓮華経と唱えるようにすればよいでしょう。礼拝も経に向かわずに拝みなさい。
また不慮に臨終などが近づいたときには、魚や鳥などを食べておられるときでも、読めるならば経を読み、そして南無妙法蓮華経とも唱えたらよいでしょう。また月水などは言うに及びません。
また南無一乗妙典と唱えられることは、これと同じ事ですが、天親菩薩・天台大師等が唱えられたように、ただ南無妙法蓮華経と唱えるべきです。これは詳細があるのでこのように申し上げるのです。穴賢穴賢。