同志と共に

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星名五郎太郎殿御返事ほしなごろうたろうどのごへんじ

漢の孝明天皇が夜、夢に金人を見て(西域に家臣を遣わし)、迦葉摩騰・竺法蘭の二人の聖人が初めて長安の都の入口に臨んで以来、唐の神武皇帝の時代に至るまでに、インドの仏法はすべて中国に流布し、梁の代に百済国の聖明王から我が日本の人王三十代欽明天皇の時代に仏法が初めて伝えられた。それより以来一切の経論・諸宗がすべて日本に弘まった。
幸なことに生を末法に受けたにもかかわらず、霊山の説法が耳に入り、身は辺土に住むにもかかわらず大河の流れを掌に汲むことができる。
ただしくわしく調べてみると仏法には大小・権実・前後の趣意がある。もしこの義に迷うと邪見に陥り、仏法を習うといえどもかえって十悪を犯し五逆罪を作る罪よりも重い罪となる。
ここをもって世をきらい、真実の道を願う人は先ずこの義を理解すべきである。そうでなければ例えばかの苦岸比丘等のようになる。故に大経にこうある。
「もし邪見に陥ることがあれば命を終える時正に阿鼻地獄に堕ちるだろう」
問う。
何によって邪見の罪を知るのか。自分は不肖の身ではあるが随分後世をおそれ仏法を求めようと思う。願わくはこの義を知りたい。もし邪見に堕ちているのであれば、ひるがえして正見に趣きたい。
答える。
凡眼をもって定められるべきではない。また浅い智慧で明らかにできるものではない。経文を眼とし仏智を第一としなければいけない。ただ恐らくは、もしこの義を明かせば必ず怒りを買い憤りを抱くであろう。それはそれでよい。仏勅を重んじることが大事である。
そもそも世人は皆古くからの伝来を貴み、近来の説をいやしむ。ただの愚者の行いである。もし誤りならば遠き先師の説であっても破折すべきである。もし真理ならば近来の説であろうと捨ててはいけない。人が貴んでも誤りならばどうして今用いる必要があろうか。
伝え聞くところによると、かの南三北七の十流派の学者は、威徳が特に勝れて天下に尊重されていた。それは既に五百余年に渡っているが、陳・隋二代のころ天台大師がこれを見て邪義であると破折した。天下の人々はこのことを聞いて大いに天台大師を憎んだ。しかし陳王・隋帝は賢王であったので、かの諸宗に天台を召し合わせて邪正を明らかにし、前の五百年の邪義を改め、皆ことごとく大師に帰依した。
また我が日本の比叡山の根本大師は南都・北京ホツキヨウの碩学と討論して仏法の邪正をただしたが、すべて経文を根本とした。今の世の道俗・貴賎は皆人を崇めて法を用いず、心を師として経に依っていない。これによって、念仏・権教をもって大乗妙典をなげすてたり、真言の邪義をもって一実の正法を謗じたりしている。これらの類がどうして大乗誹謗の輩でないといえよう。もし経文のとおりであるならどうして那落の苦しみを受けないでおれようか。これによってその流れをくむ人も同じようになるであろう。
疑っていう。
念仏・真言は、あるいは権教、あるいは邪義、またその行者は、あるいは邪見、あるいは謗法と言われる。このことははなはだ不審である。それは、弘法大師は金剛薩タの化現であり、第三地の菩薩である。真言は最極甚深の秘密である。また善導和尚は西方浄土の教主であり、阿弥陀如来の化身である。法然上人は大勢至菩薩の化身である。このような上人をなぜ邪見の人というのか。
答えていう。
このことはもとより私の言葉で難じるべきではない。経文を先としてただすべきである。真言の教えは最極の秘密であるというのは、真言三部経の中において蘇悉地経を王とするとあるのである。全く諸の如来の法の中において第一であるということは説かれていない。
そもそも仏法というのは善悪の人を選ばず、すべての人を仏にすることを最第一に定めるべきである。これほどの道理を何なる人であろうとも知るべきことである。もしこの義に依るなら、経と経を比較して判定することができる。
今法華経には二乗の成仏が説かれている。真言経にこれは無い。そればかりかむしろ嫌っている。
法華経には女人成仏が説かれている。真言経にはまったく説かれていない。
法華経には悪人の成仏が説かれている。真言経にはまったく説かれていない。
何をもって法華経より勝れているといえるのか。
またもしその瑞相を論じるならば、法華には六瑞がある。いわゆる四華が雨のように降り、大地は振動し、白毫相の光りは上は有頂天を極め下は阿鼻地獄を照らした。また多宝の塔が大地より湧出し、分身の諸仏が十方より来集した。それだけではなく上行等の菩薩が六万恒沙・五万・四万・三万、一恒沙・半恒沙等大地より湧き出てきた。
この威儀や不思議を論じるならば、何をもって真言が法華に勝れているというのか。これらのことは詳しく述べるときりがないので、わずかに大海の一滴を記す。
ここに菩提心論という一巻の文がある。竜猛菩薩の造といわれる。この書に「ただ真言法の中でのみ即身成仏する。故にこれは三摩地の法を説く。諸教の中においては欠けていて書かれていない」といっている。この言葉は大いに不審であるので、経文についてこれを調べると、即身成仏という言葉はあるけれども即身成仏した人は全くいない。たとえあったとしても法華経の中に即身成仏と説かれているので、諸教の中において欠けていてしかも書かれていないといえない。このことは全くの間違いである。
ただしこの書は全く竜猛の作ではない。詳しいことは別に述べる。たとえ竜猛菩薩の造であるといえても間違いである。故に大論に一代を述べる肝要として「般若は秘密の法ではない。二乗作仏がないからである。法華は秘密の法である。二乗作仏が説かれている」といわれている。また「二乗作仏が説かれているのでこれは秘密であり、二乗作仏がないのは顕教である」といっている。
もし菩提心論の文の通りであるなら、別しては竜樹の大論に背き、総じては諸仏出世の本意・一大事の因縁を破るものではないか。今竜樹・天親等は皆釈尊の説教を弘めるために世に出現した。付法蔵・二十四人の中の一人である。どうしてこのような妄説をたてることがあろうか。
かの真言は般若経にも劣っている。まして法華経と比べることはできようか。ところが弘法の秘蔵宝鑰に、真言に一代聖教を摂するとして、法華を第三番に下し、そのうえ戯論であるといっている。
謹んで法華経をひらいてみれば、諸の如来の所説の中で第一であると説かれている。また已今当の三説に勝れているとある。また薬王の十喩の中には、法華を大海にたとえ、日輪にたとえ、須弥山にたとえている。もしこの義によるならば、深い事は海をこえ、明るいことは太陽にも優る。高いことは須弥山を越えるのである。たとえをもって知るべきである。どうして法華経よりも勝れているといえるのか。大日経等に全くこの義はない。ただおのれの見解であり永く仏意に背くものである。
妙楽大師は述べている。
「請う。眼有る者はくわしくこれを尋ねよ」
法華経を指して華厳に劣るといっているが、まさしく眼の抜けたものではないか。
また大経[涅槃経]にこうある。
「もし仏の正法を誹謗する者があれば正にその舌を断つべきである」
ああ、誹謗の舌は世世に物を言うことができず、邪見の眼は生生に抜け落ちて見ることができないだろう。それだけではなく「もし人が信じないでこの経を毀謗すれば(中略)その人は命を終えて阿鼻地獄に入るだろう」の文の通りであるなら、必ず無間地獄に堕ちて無量億劫のくるしみを受けるだろう。善導・法然もこれを例として知るべきである。
どの智慧のある人がこの謗法の流れを汲んで、ともに阿鼻地獄の焔に焼かれるだろうか。行者はよくよく恐れなければならない。これらは大邪見の輩である。ゆえに如来の誠諦の金言を調べてみると「我が正法を破る事は、たとえば猟師の身に袈裟をかけたようなものであり、或いは須陀オン・斯那含・阿那含・阿羅漢・辟支仏及び仏の色身を現じて我が正法を壊るのである」と説かれているのである。
今この善導・法然等は種々の威を現じて愚癡の道俗をたぶらかし、如来の正法を破壊している。なかでもかの真言等の流派は、ひとえに現世利益を主旨としている。いわゆる畜類を本尊として男女の愛法を祈ったり、荘園等の望みを祈っている。このようにわずかな現証をありがたい法であるように見せかけている。もしこれをもって勝れているというのであれば、かのインドの外道等には及ばない。かの阿竭多仙人は十二年間ガンジス河の水を耳にたたえた。また耆菟仙人は四大海を一日で飲み干した。ク留外道は八百年間石となった。どうして真言がこれに勝ろうか。また瞿曇仙人が十二年のあいだ釈身と成って説法した。弘法が刹那のあいだに毘盧遮那の身と成ったこととその威徳を論ずればどうであろうか。もしかの変化の現証を信じるならば外道を信じるべきである。まさに知るべきである。インドの外道に威徳ありといえどもなお阿鼻地獄の炎を免れることはできなかった。ましてわずかの変化においてどうして免れることができるだろうか。それにもまして大乗誹謗の者はいうまでもない。
これらは一切衆生の悪知識である。近づいてはいけない。よくよく恐れるべきである。仏はいわれている。「悪象等においては恐れる心があってはならない。悪知識においては恐れる心をおこしなさい。なぜかというと、悪象はただ身を破壊し心は破られない。しかし悪知識は身も心も共にやぶるからである。この悪象等はただ一身を破るが、悪知識は無量の身・無量の心を破る。悪象等はただ不浄の臭い身を破る。悪知識は浄い身及び浄い心を破る。悪象はただ肉身を破る。悪知識は法身を破る。悪象の為に殺されても三悪には至らない。悪知識の為に殺されたならば必ず三悪に至る。この悪象はただ身の為のあだであるが、悪知識は善法の為にあだとなる」と。
したがって恐れるべきは大毒蛇・悪鬼神よりも、弘法・善導・法然等の流派の悪知識を恐れるべきである。
以上略して邪見の失を明かした。
この使いの者があまりに急いでおられるので、とりあえず一端のみを申しました。この後また便宜にくわしく経釈を見て調べ書くようにしましょう。決してほかに見せてはなりません。もし命に別条がないようでしたらおっしゃるように明年の秋に下ってまた申し上げましょう。恐恐。