同志と共に

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乙御前御消息おとごぜんごしょうそく

中国にいまだ仏法が伝わっていなかった時は、三皇・五帝・三王や大公望・周公旦・老子・孔子がつくられた文を経となづけ、或いは典等と名づけました。この文を披いて人に礼儀を教え、父母の恩を示し、王臣の関係を定めて世を治めたので、人もしたがい天も加護されました。 此れに・たがいし子をば不孝の者と申し臣をば逆臣の者とて失にあてられし程に、月氏より仏経わたりし時・或一類は用ふべからずと申し或一類は用うべしと申せし程に・あらそひ出来て召し合せたりしかば外典の者・負けて仏弟子勝ちにき、其の後は外典の者と仏弟子を合せしかば・冰の日に・とくるが如く・火の水に滅するが如く・まくるのみならず・なにともなき者となりしなり、又仏経漸くわたり来りし程に仏経の中に又勝劣・浅深候いけり、所謂小乗経・大乗経・顕経・密経・権経・実経なり、譬えば一切の石は金に対すれば一切の金に劣れども・又金の中にも重重あり、一切の人間の金は閻浮檀金には及び候はず、閻浮檀金は梵天の金には及ばざるがごとく・一切経は金の如くなれども又勝劣・浅深あるなり、小乗経という経は世間の小船のようで、わずかに人の二人・三人等は乗せるけれども、百・千人は乗れません。たとえ二人・三人等は乗せられても、此岸につけて彼岸へは行けません。また、すこしの物は入るけれども大きい物は入れられません。大乗というのは大船です。人も十・二十人も乗るうえ、大くな物も積み、鎌倉から筑紫や陸奥にも行くことができます。 実経というのは、またその大船の大乗経とはくらべようもありません。大きい貴重な宝も積み、百・千人も乗せて高麗などへも渡ることができるのです。一仏乗の法華経という経もまた同じです。提婆達多というものは閻浮第一の大悪人でしたが、法華経で天王如来となりました。また阿闍世王というものは、父を殺した悪王でしたが、法華経の座に連なって、一偈一句の結縁衆となりました。竜女という蛇体の女人は、法華経を文珠師利菩薩が説かれたとき仏になりました。そのうえ、仏説には悪世末法と時を指し示されて、法華経を末代の男女に贈ってくださいました。これこそ唐船のような、一仏乗の経にほかならないのです。 されば一切経は外典に対すれば石と金との如し、又一切の大乗経・所謂華厳経・大日経・観経・阿弥陀経・般若経等の諸の経経を法華経に対すれば螢火と日月と華山と蟻塚との如し、 経に勝劣があるだけではありません。大日経の一切の真言師と法華経の行者が対決すれば、水に火をあわせ露と風を合わせるようなものです。「犬が師子を吠えれば腸がくさる」「修羅は日輪を射奉れば頭七分に破る」といわれます。一切の真言師は犬と修羅のようであり、法華経の行者は日輪と師子と同じです。 冰は日輪の出でざる時は堅き事金の如し、火は水のなき時はあつき事・鉄をやけるが如し、然れども夏の日にあひぬれば堅冰のとけやすさ・あつき火の水にあひて・きへやすさ、一切の真言師は気色のたうとげさ・智慧のかしこげさ・日輪をみざる者の堅き冰をたのみ・水をみざる者の火をたのめるが如し。 当世の人々が蒙古国を見ていない時のおごりは御覧になったように、際限がありませんでした。去年の十月よりは一人もおごる者はおりません。お聞きになっているように、日蓮一人が申し上げてきたことです。蒙古軍が攻めよせてきたならば、面をあわす人もいないでしょう。ただ猿が犬を恐れ、かえるが蛇を恐れるようなものです。 これはひとえに釈伽仏の御使いである法華経の行者を、一切の真言師・念仏者・律僧等に・にくませて我と損じ、ことさらに天のにくまれを・かほれる国なる故に皆人・臆病になれるなり、譬えば火が水をおそれ・木が金をおぢ・雉が鷹をみて魂を失ひ・ねずみが〓に・せめらるるが如し、一人も・たすかる者あるべからず、其の時は・いかがせさせ給うべき、 軍においては大将軍を魂とするのです。大将軍が臆したならば歩兵も臆病になるのです。 女人は夫を魂とします。夫がいなければ女性は魂がないのです。この世に夫がいる女性すら世の中を渡りがたいと思われるのに、魂(とする夫)もいないのに世の中を渡っておられます。魂(とする夫)のいる女性よりすぐれて心中がしっかりされているうえ、神にも心を入れ仏をも崇められているので、人より勝れていらっしゃる女性です。 鎌倉に候いし時は念仏者等はさてをき候いぬ、法華経を信ずる人人は志あるも・なきも知られ候はざりしかども・御勘気を・かほりて佐渡の島まで流されしかば問い訪う人もなかりしに・女人の御身として・かたがた御志ありし上・我と来り給いし事うつつならざる不思議なり、其の上いまのまうで又申すばかりなし、定めて神も・まほらせ給ひ十羅刹も御あはれみましますらん、 法華経は女性にとって、暗いところでは灯となり、海を渡るときには船となり、おそろしい所では守りとなることを誓っています。 羅什三蔵は法華経を渡し給いしかば毘沙門天王は無量の兵士をして葱嶺を送りしなり、道昭法師・野中にして法華経をよみしかば無量の虎来りて守護しき、此れも又彼には・かはるべからず、 地には三十六祇・天には二十八宿が守られるうえ、人には必ず二つの天が影の如く寄り添われています。いわゆる一つを同生天といい、二つを同名天といいます。左右の肩に付き添って人を守護するので、罪なき者を天も罰する事はありません。まして善人ならなおさらです。 それゆえ、妙楽大師は「必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し」といわれたのです。人の心がかたければ神の守りは必ず強いということです。これはあなたのためにいうのです。これまでの信心は申すまでもありませんが、それよりも今一重強盛に信心するのです。その時はますます十羅刹女の守護も強くなると思うのです。 その例には他を引くまでもありません。日蓮を日本国の上一人より下万民に至るまで一人も残らず、亡き者にしようとしたけれども、今までこうして無事であるのは、(日蓮は)一人であるけれども心が強いのであると思いなさい。 一つの船に乗ったとき、船頭の判断がわるければ、一同に船中の諸人は損じてしまいます。また体が強い人でも心が弱ければ、多くの才能も無用なのです。日本国にもかしこい人はいるようですが、大将のはかり事がつたなければ甲斐がありません。壹岐・対馬・九ケ国のつはもの並に男女多く或はころされ或はとらはれ或は海に入り或はがけよりおちしもの・いくせんまんと云う事なし、 また今度よせなば先には・にるべくも・あるべからず、京と鎌倉とは但壹岐・対馬の如くなるべし、前にしたくして・いづくへも・にげさせ給へ、其の時は昔し日蓮を見じ聞かじと申せし人人も掌をあはせ法華経を信ずべし、念仏者・禅宗までも南無妙法蓮華経と申すべし、抑法華経をよくよく信じたらん男女をば肩に・になひ背に・おうべきよし経文に見えて候上・くまらゑん三蔵と申せし人をば木像の釈迦をわせ給いて候いしぞかし、日蓮が頭には大覚世尊かはらせ給いぬ昔と今と一同なり、各各は日蓮が檀那なり争か仏にならせ給はざるべき。 いかなる男性を夫になさったとしても、法華経のかたきならば随っていけません。ますます強盛の御志をもちなさい。氷は水からできますが、水よりも冷たいものです。青い色は藍より出るけれども、重ねれば藍よりも色が勝ります。同じ法華経であっても、志を重ねれば他人よりも色はまさり利生もあらわれてくるのです。木は火に焼かれるけれども、栴檀の木は焼けません。火は水に消されますが、仏の涅槃の火は消えません。花は風に散るけれども、浄居の花はしぼみません。水は大旱魃で失いますが、黄河に入ったならば失いません。 檀弥羅王と申せし悪王は月氏の僧の頚を切りしに・とがなかりしかども・師子尊者の頚を切りし時・刀と手と共に一時に落ちにき、弗沙密多羅王は鶏頭摩寺を焼し時・十二神の棒にかふべわられにき、今日本国の人々は法華経のかたきとなって身を亡ぼし国を亡ぼしてしまったのです。こう申せば「日蓮の自讚だ。」と心得ない人は申します。そうではありません。これを言わなければ法華経の行者ではないのです。また、言った事が後で現実になれば人も信じます。こうただ書き残してこそ未来の人は智慧がったと知ることでしょう。また身軽法重・死身弘法といわれているのは、身は軽ければ人は打ちはり悪むとも法は重ければ必ず弘まるべし、法華経弘まるならば死かばね還つて重くなるべし、かばね重くなるならば此のかばねは利生あるべし、利生あるならば今の八幡大菩薩と・いははるるやうに・いはうべし、其の時は日蓮を供養せる男女は武内・若宮なんどのやうにあがめらるべしと・おぼしめせ、そもそも一人の盲目を開く功徳すら言い尽くすことが出来ません。まして日本国の一切衆生の眼を開く功徳はなおさらです。そしてさらに、一閻浮提・四天下の人の眼を開く功徳ははかりしれません。 法華経の第四に云く「仏滅度の後に能く其の義を解せんは是諸の天人世間之眼なり」等云云、法華経を持つ人は一切世間の天人の眼なりと説かれて候、日本国の人の日蓮をあだみ候は一切世間の天人の眼をくじる人なり、されば天もいかり日日に天変あり地もいかり月月に地夭かさなる、天の帝釈は野干を敬いて法を習いしかば今の教主釈尊となり給い・雪山童子は鬼を師とせしかば今の三界の主となる、大聖・上人は形を賎みて法を捨てざりけり、 今、日蓮が愚かであろうとも、野干や鬼には劣っていないでしょう。当世の人が立派であっても、帝釈や雪山童子には勝っていないでしょう。日蓮の身がいやしいすらといって、巧言を捨てておられるため、国がいよいよ亡ぼうとしていることは、悲しいことです。また、日蓮を支えてくれた弟子たちをも、助けることができない事は、嘆かわしく思えてなりません。 いかなる事が出来したとしても、こちらへ来るのです。お会いしましょう。山中で共に飢え死にいたしましょう。また、乙御前はさぞ成長されたことでしょう。どんなに聡明になられたことでしょう。また折を見て申し上げます。