仏の御弟子の中にあなりちと申せし人はこくぼん王の御子いえにたからを・みてて・おはしき、のちに仏の御でしとなりては天眼第一のあなりちとて三千大千世界を御覧ありし人、法華経の座にては普明如来とならせ給う、そのさきのよの事をたづぬれば・ひえのはんを辟支仏と申す仏の弟子にくやうせしゆへなり、いまの比丘尼はあわのわさごめ山中にをくりて法華経にくやうしまいらせ給う、いかでか仏にならせ給はざるべき、恐恐謹言。
善根と申すは大なるによらず又ちいさきにもよらず・国により人により時により・やうやうにかわりて候、譬へばくそをほして・つきくだき・ふるいてせんだんの木につくり・又女人・天女・仏につくりまいらせて候へども火をつけて・やき候へばべちの香なし・くそくさし、そのやうに・ものをころし・ぬすみをしてそのはつををとりて功徳善根をして候へども・かへりて悪となる。 須達長者と申せし人は月氏第一の長者ぎをん精舎をつくりて仏を入れまいらせたりしかども彼の寺焼けてあとなし、この長者もといをを・ころしてあきなへて長者となりしゆへに・この寺つゐにうせにき、今の人人の善根も又かくのごとく・大なるやうなれども・あるひは・いくさをして所領を給或はゆへなく民をわづらはして・たからをまうけて善根をなす、此等は大なる仏事とみゆれども仏にもならざる上其の人人あともなくなる事なり。 又人をも・わづらはさず我が心もなをしく我とはげみて善根をして候も仏にならぬ事もあり、いはくよきたねをあしき田にうえぬれば・たねだにもなき上かへりて損となる、まことの心なれども供養せらるる人だにも・あしければ功徳とならず、かへりて悪道におつる事候。 此れは日蓮を御くやうは候はず法華経の御くやうなれば釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏に此の功徳はまかせまいらせ候、抑今年の事は申しふりて候上当時はとしのさむき事生れて已来いまだおぼへ候わず、ゆきなんどのふりつもりて候事おびただし、心ざしある人もとぶらひがたし、御をとづれをぼろげの御心ざしにあらざるか、恐恐謹言。