同志と共に

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薬王品得意抄やくおうぼんとくいしょう

この薬王品の大意とは。
この薬王品は法華経の第七の巻にあり、二十八品の中には第二十三の品である。
この第一巻には序品と方便品の二品があり、序品は二十八品の序である。方便品より人記品に至るまでの八品は、正意としては二乗作仏を明かし、傍意としては菩薩や凡夫の作仏を明かしている。法師・宝塔・提婆・勧持・安楽の五品は上の八品を末代の凡夫の修行すべき様を説いている。また涌出品は寿量品の序である。分別功徳品より十二品は正意としては寿量品を末代の凡夫が修行すべき様を、傍意としては方便品等の八品を修行すべき様を説いている。したがってこの薬王品は方便品等の八品並びに寿量品を修行すべき様を説いた品である。
この品に十の譬えがある。
第一は大海の譬えである。
まず第一の譬えの大筋を申し上げる。
この南閻浮提には二千五百の河がある。西倶耶尼サイクヤニには五千の河がある。総じてこの四天下には二万五千九百の河がある。あるいは四十里、あるいは百里、一里、一町、一尋等の河がある。しかしながらこれらの河は総じて深さにおいては大海に及ばない。
法華経以前の華厳経・阿含経・方等経・般若経・深密経・阿弥陀経・涅槃経・大日経・金剛頂経・蘇悉地経・密厳経等の釈迦如来の所説の一切経・大日如来の所説の一切経・阿弥陀如来の所説の一切経・薬師如来の所説の一切経・過去・現在・未来三世の諸仏所説の一切経の中では法華経が第一である。たとえば諸経は大河・中河・小河等のようなものであり、法華経は大海のようなものである等と説いている。
河よりも勝れている大海には十の徳がある。
一に大海は次第に深くなる。河はそうではない。二に大海は死屍を留めない。河はそうではない。三に大海は本の河の名を失う。河はそうではない。四に大海は一つの味である。河はそうではない。五に大海には宝等がある。河にはない。六に大海は極めて深い。河はそうではない。七に大海は広大無量である。河はそうではない。八に大海には巨大な生物がいる。河はそうではない。九に大海には潮の増減がある。河はそうではない。十に大海は大雨・大河を受けいれても満ち溢れることはない。河はそうではない。
この法華経には十の徳がある。諸経には十の失がある。
この経は次第に深く多い。そして五十展転の功徳がある。諸経にはなお一も無い。まして二、三、四そして五十展転の人にもない。河は深いけれども大海の浅いところにも及ばない。諸経は一字・一句・十念等をもって十悪・五逆等の悪機を摂するといえども、まだ一字一句を聞いて随喜する五十展転には及ばないのである。
この経の、大海に死屍を留めないとは、法華経に背く謗法の者は極善の人であっても、なおこの人を捨てる。それにもまして悪人であるうえ謗法を犯す者はいうまでもない。たとえ諸経を誹謗したとしても法華経に背かなければ必ず仏道を成ずる。たとえ一切経を信じたとしても法華経に背くならば必ず阿鼻大城に堕ちる。(中略)
第八には大海は巨大な衆生がいる等というのは、大海には摩竭大魚等の大きい身体の生き物がいる。無間地獄というのは縦広八万由旬である。五逆の者が無間地獄に堕ちると一人でも必ず充満する。この地獄の衆生は五逆の者で大身の衆生である。諸経の小河や大河の中には摩竭大魚はいない。法華経の大海にはこれがいる。
五逆の者が仏道を成ずることは実際には諸経に説かれていない。諸経に説かれているといっても実際には未顕真実である。したがって一代聖教を暗唱した天台智者大師の釈にこうある。
他経はただ菩薩に授記して二乗には授記していない。(中略)ただ善人に授記して悪人に授記していない。法華経は皆に授記する等と。
ほかはしばらく略す。
第二には山に譬えている。
十宝山等とは、山の中では須弥山が第一である。十宝山とは、一には雪山・二には香山・三には軻梨羅山カリラセン・四には仙聖山センシヨウセン・五には由乾陀山ユケンダセン・六には馬耳山メニセン・七には尼民陀羅山ニミンダラセン・八には斫伽羅山シヤカラセン・九には宿慧山シユクエセン・十には須弥山である。先の九山とは諸経であり諸山のようなものである。ただし一つ一つには財宝がある。須弥山は多くの財宝を具えてそれらの財宝よりも勝れているのである。例えば世間の金が閻浮檀金に及ばないようなものである。華厳経の法界唯心・般若の十八空・大日経の五相成身・観経の極楽往生よりも法華経の即身成仏は勝れているのである。
須弥山は金色である。一切の牛・馬・人・天人・多くの鳥等がこの山に近づくと、必ずもとの色を失って金色となる。他の山はそうではない。一切の諸経は法華経に対するともとの色を失う。例えば黒色の物が太陽や月の光に照らされると色を失うようにである。諸経の往生や成仏等の色は法華経にあえば必ずその義を失う。
第三には月に譬えている。
多くの星の照らす範囲は、あるいは半里、あるいは一里、あるいは八里、あるいは十六里を超えることはない。月は八百余里を照らす。多くの星に光があるといっても月には及ばない。たとえ百千万億から四天下・三千大千世界・十方世界の諸々の星を集めても一つの月の光に及ばない。それにもまして一つの星が月の光に及ぶわけがない。華厳経・阿含経・方等・般若・涅槃経・大日経・観経等の一切の経を集めても法華経の一字に及ばない。一切衆生の心中の見思・塵沙・無明の三惑並びに十悪・五逆等の業は暗夜のようなものである。華厳経等の一切経は闇夜の星のようなものである。法華経は闇夜の月である。法華経を信じていても深く信じていない者は半分の月が闇夜を照らすようなものである。深く信じる者は満月が闇夜を照らすようなものである。月が無くただ星だけの夜には、強い力の者や頑健な者などは往来できても、老人や女性などは出歩くことができない。満月の時は女性や老人であっても、あるいは酒宴のため、あるいは人にあうためなどのときでも歩いていくことが可能である。諸経では菩薩・大根性の凡夫はたとえ得道しても、二乗・凡夫・悪人・女性あるいは末代の老いて怠けている無戒の人々は往生や成仏は確実ではない。法華経はそうではない。二乗・悪人・女性等でさえ仏に成る。それにもまして菩薩・大根性の凡夫はなおさらである。
また月は宵よりも暁に光が増す。春・夏よりも秋・冬に光がある。法華経は正像二千年よりも末法には特に利益があることになっている。
問うていう。
その証文は何か。
答えていう。
道理に顕然である。そのうえ次の文にこうある。
「我が滅度の後、後の五百歳の中に広宣流布して閻浮提において断絶させることは無い」
この経文に二千年の後、南閻浮提に広宣流布すべきであると説かれているのは、第三の月の譬えの意である。この意を根本伝教大師が解釈された。
「正像がだんだん過ぎ去って、末法がはなはだ近くにある。法華一乗の機は今が正しくその時である」
正法千年も像法千年も法華経の利益は諸経よりも勝れている。しかし月の光が春・夏にあたる正像二千年よりも、末法の秋・冬に至って光が勝るようなものである。
第四に日の譬である。
星の中に月が出たときは、星の光に対しては月の光は勝っているけれど、いまだ星の光を消すことはない。日中には星の光が消えるだけではなく、また月の光も奪われて光を失う。爾前経は星のようなものであり、法華経の迹門は月のようである。寿量品は日のようである。寿量品の時は迹門の月でさえまだ及ばない。それにもまして爾前の星が及ぶわけがない。夜には星の時も月の時も人は仕事をしない。夜が明けて必ず人は作業をする。爾前経や迹門でも生死を離れ難い。本門寿量品に至って、必ず生死の苦を離れることができるのである。他の六つの譬えは略す。
このほかにまた多くの譬えがこの品にある。そのなかに、渡りに船を得たるがごとし、というのがある。この譬えの趣意は、生死の大海では爾前の経は筏や小船である。生死の此岸より生死の彼岸には着いても、生死の大海を渡り極楽の彼岸には着きがたい。例えば世間の小船等が筑紫[九州]から坂東[関東]に至り、鎌倉より江の島などへ着けても、中国へは至らない。唐船は必ず日本国から中国に至るのに支障がないのである。
またこうある。
「貧しいときに宝を得たようなものである」
爾前の国は貧しい国である。爾前の人は餓鬼である。法華経は宝の山である。人は富裕な人である。
問うていう。
爾前は貧しい国というが、経文にあるのか。
答えていう。
授記品にこうある。
「飢えた国より来たってたちまちに大王の膳に遇ったようなものである」
女性の往生成仏の段は経文にこうある。
「もし如来の滅後、後の五百歳の中に、もし女性がいてこの経典を聞いて説かれる通り修行すれば、ここにおいて命を終えて即ち安楽世界・阿弥陀仏の菩薩・大衆に囲まれて住んでいる場所に往って蓮華の中の宝座の上に生じ」。
問うていう。
この経のこの品で特に女性の往生を説くのはどういった理由なのか。
答えていう。
仏意ははかり難い。この義は決め難い。ただし一の思索を加えるならば、女性は諸々の罪の根本であり、破国の源である。ゆえに内典・外典に多くこれを禁しめている。そのなかに外典をもってこれを論じると三従がある。三従というのは、三つ従うということである。
一には幼いときは父母に従う。嫁いで夫に従う。老いて子に従う。この三障があるため世間で自由にならない。内典をもってこれを論じると五障がある。五障というのは、一には六道輪回の間男子のように大梵天王とならず、二には帝釈とならず、三には魔王とならず、四には転輪聖王とならず、五には常に六道に留まって三界を出て仏に成らない。(超日月三昧経の文である)
銀色女経にはこうある。
「三世の諸仏の眼は大地に堕ちたとしても、法界の諸の女性は永く成仏のときはない」
ただし凡夫でさえ賢王・聖人はうそはつかない。ハン於期という者はケイカに頚を与え、季札という人は徐の君主の墓に剣をかけた。これは約束を違えずうそをつかなかったからである。それにもまして、声聞や菩薩・仏がうそをつくはずがない。仏は昔凡夫であられた時小乗経を習われた。その時五戒を受け始められた。五戒の中の第四の不妄語の戒を固く持たれて、財を奪われ命をとられた時もこの戒を破らず、大乗経を習われた時、また十重禁戒を持ち、その十重禁戒の中の第四の不妄語戒を持たれた。この戒を堅く持って無量劫の間これを破ることはなかった。終にこの戒の力によって仏身を成じ、三十二相の中に広長舌相を得られたのである。
この舌は薄く広く長く、顔面を覆ったり、髪際にいたったり、梵天にいたるなどした。舌の上に五つの絵があり、印文のようであった。その舌の色は赤銅色で、舌の下に二つの珠があり甘露を涌出した。これは不妄語戒の徳の至すところである。仏はこの舌をもって、三世の諸仏の御眼は大地に落ちても法界の女性は仏になることはできないと説かれたのであるから、一切の女性は何なる世においても仏には成れないと思われる。そうであるなら、女性の御身を受けられて、たとえ后や三公の位についたとしてもどうしようもない。善根・仏事を行っても無駄であると思われたが、この法華経の薬王品で女性の往生を許されたことはまた不思議なことである。かの経が妄語なのか、この経が妄語なのか、どうみても一方が妄語ではないか。もしまた一方が妄語ならば一仏に二言あり信じ難い。
ただし無量義経の「四十余年にはまだ真実を顕していない」や、涅槃経の「如来には虚妄のことばは無いけれども、もし衆生が虚妄の説によって知る」などの文をもってこれを思えば、仏が女性は往生成仏することはできないと説かれたのは妄語と思われる。妙法華経の文に「世尊の法は久くして後に必ず当に真実を説くだろう」、「妙法華経乃至皆是真実」という文をもってこれを考えると、女性の往生成仏は確かであると説かれる法華経の文は実語であり不妄語戒と思われる。
世間の賢人もただ一人ある子が非常識なときや、あるいは罪のあるときは、永く我が子ないということの説明の起請文を書きいたり、誓言として立てたとしても、命を終える時に臨めばこれを許す。しかし賢人ではないとはいわれない。また妄語を言う者ともいわれない。仏も同様である。
爾前経の四十余年間は菩薩の得道や凡夫の得道・善人・男子等の得道を許すようであるあが、二乗・悪人・女性などの得道は許さない。あるいはまた許しているようなこともある。いまだ定め難いことを、仏が説教をして四十二年がすでに過ぎた八年間、摩謁提国王舎城の耆闍崛山という山において法華経を説かれようと思われた時、まず無量義経という経を説かれた。無量義経の文に四十余年とあるのである。