三世の諸仏が世に出現した時も、皆が皆、四恩を報ぜよと説かれている。
また、三皇・五帝・孔子・老子・顔回等の過去の賢人は、四徳を修めよと教えられている。
四徳とは。
一には父母に孝行すること。
二には主君には忠義を尽くすこと。
三には友に会ったならば礼儀正しくすること。
四には弱い立場の人に会ったら慈悲深くありなさい。
一に父母に孝行することとは。
たとえ親が道理に合わないことをしてきたとしても、また、悪いようなことを言ってきても、少しも腹を立てず、誤りだという顔も見せず、親の言うことに少しも違えてはならない。そして、親によい物を与えようと思うが、とりたててすることがなければ、一日に二・三度笑みを浮かべて向かいなさい。
二には主君には忠義を尽くすこととは。
少しでも主君にうしろめたい心があってはならない。たとえ我が身が失われることがあっても、主君にはとにかく良いようにと思いなさい。目に見えないところに誠意があれば、目に見える徳となって現れるものである。
三には友に会ったならば礼儀正しくすることとは。
友達が一日に十度・二十度来るような人であっても、千里・二千里遠く離れたところから来る人のように思って礼儀を少しでもおろそかに思ってはいけない。
四には弱い立場の人に会ったら慈悲深くありなさいとは。
自分より弱い立場の人を、我が子のように思って、あらゆる人を愛おしみ、慈悲の心を起こしなさい。
以上を四徳という。
このように振る舞う人を賢人とも聖人ともいう。この四つの事があれば、他の事が多少優れていなくとも良い人である。
このように四つの徳を振る舞う人は外典三千巻を読まなくとも読んだ人となる。
一に仏教の四恩とは。
一には、父母の恩を報じなさい。
二には、国主の恩を報じなさい。
三には、一切衆生の恩を報じなさい。
四には、三宝の恩を報じなさい。
一の父母の恩を報じなさいとは。
父母の赤白二〓・和合して我が身となる、母の胎内に宿る事・二百七十日・九月の間・三十七度死るほどの苦みあり、生落す時たへがたしと思ひ念ずる息・頂より出づる煙り梵天に至る、さて生落されて乳をのむ事一百八十余石・三年が間は父母の膝に遊び人となりて仏教を信ずれば先づ此の父と母との恩を報ずべし、父の恩の高き事・須弥山猶ひきし・母の恩の深き事大海還つて浅し、相構えて父母の恩を報ずべし、
二の国主の恩を報じなさいとは。
生れて已来・衣食のたぐひより初めて・皆是れ国主の恩を得てある者なれば現世安穏・後生善処と祈り奉るべし、
三の一切衆生の恩を報じなさいとは。
そもそも昔は、一切の男は(自分の)父なのである。女は母である。したがって、生々世々に皆恩ある人々である。皆仏になってほしいと思うべきである。
四の三宝の恩を報じなさいとは。
(釈尊成道後の)最初の教えである華厳経を探ると、経も大乗・仏も報身如来にて坐ます間・二乗等は昼の梟・夜の鷹の如くして・かれを聞くといへども・耳しゐ・目しゐの如し、然る間・四恩を報ずべきかと思ふに女人をきらはれたる間・母の恩報じがたし、次に仏・阿含・小乗経を説き給いし事・十二年・是こそ小乗なれば我等が機にしたがふべきかと思へば・男は五戒・女は十戒・法師は二百五十戒・尼は五百戒を持ちて三千の威儀を具すべしと説きたれば・末代の我等かなふべしとも・おぼえねば母の恩報じがたし、況や此の経にもきらはれたり、方等・般若・四十余年の経経に皆女人をきらはれたり、但天女成仏経・観経等にすこし女人の得道の経文有りといへども・但名のみ有つて実なきなり、其の上未顕真実の経なれば如何が有りけん、四十余年の経経に皆女人を嫌われたり、又最後に説き給いたる涅槃経にも女人を嫌はれたり、何れか四恩を報ずる経有りと尋ぬれば法華経こそ女人成仏する経なれば、八歳の竜女・成仏し・仏の姨母〓曇弥・耶輸陀羅比丘尼記〓にあづかりぬ、されば我等が母は但女人の体にてこそ候へ・畜生にもあらず蛇身にもあらず・八歳の竜女だにも仏になる、
どうしてこの法華経の力で我が母が仏にならないわけがあろうか。
したがって、法華経を持つ人は父と母との恩を報ずることができるのである。我が心では報じていると思っていなくとも、この経の力によって報じているのである。
それゆえ、釈迦・多宝等の十方の無数の仏や、上行・地涌等の菩薩も、普賢・文殊等の迹化の大菩薩も、舎利弗等の諸大声聞も、大梵天王・日天・月天等の明主諸天も、八部衆の王も、十羅刹女等も、日本国中の大小の諸神も、すべてこの法華経を強く信じて余念なく一筋に信仰する者を、影が身に添うように守らられるのです。
よくよく心を定めて、また心を翻すことなく、一筋に信じていかれるならば、「現世安穏・後生善処」となるのである。恐恐謹言。