同志と共に

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唱法華題目抄しょうほっけだいもくしょう

ある人が私に質問して言った。
世間の僧侶や一般の人で、それほど法華経の経文の意味を理解していない者でも、法華経一部・一巻・四要品[方便品・安楽行品・如来寿量品・観世音菩薩普門品]・自我偈一句などを受持し、自らも読み書きし、また人に読んだり書かせたりしたりする。あるいは自分は読んだり書いたりしないけれども、経に向かって合掌や礼拝をし、香や花を供養する。あるいは上のように修行をしない人でも、他人が修行する姿を見て、わずかに随喜の心を起こし、国中にこの経が弘まる事を喜ぶ。
この程度のわずかなことによって、世間の罪には関係することなく、法華経の功徳に導かれて、小乗教の初果の聖人[三界の見惑を断じ尽くした聖人]がたびたび人界・天界に生まれて、しかも悪道に堕ちないように、常に人界・天界に生を受けて、ついには法華経を心得る者となって十方浄土に往生したり、またこの国土でも即身成仏するようなことがあるのだろうか。このことを詳しく聞きたい。
答えていう。
さほど法華経の文の意味を理解した身ではないけれども、法華経・涅槃経ならびに天台大師や妙楽大師の解説の意味から推量すると、わずかでも法華経を信じて、少しも誹謗することがない人は、ほかの悪縁に引かれて悪道に堕ちるとは思われない。
ただし、悪知識といって、わずかに権経を知る人が智慧者らしく見せて、法華経は私たちの機縁には適応しがたい理由を和げて言うことを真実と思い、法華経をありがたく思う心を捨てて他の教えに移ってしまい、一生法華経に帰ってこない人は、悪道に堕ちることもある。
仰せについては疑わしいこともあるが、真実のようでもある。
法華経に説かれていると智慧者がこう語られている。
昔、三千塵点劫という長い時間を経たとき、大通智勝仏という仏がおられた。その仏がまだ凡夫のとき十六人の王子がおられた。その父が王仏となられて一代聖教を説かれた。十六人の王子もまた出家してその仏の弟子となられた。大通智勝仏は法華経を説き終えて禅定に入られたので、十六人の王子の沙弥[仏門に入り、髪をそって十戒を受けた初心の男子]はその前でかわるがわる法華経を講じた。その所説を聴聞した人の数は数千万であるといわれる。たちまち覚りを得た人は不退の位に入った。また法華経をおろそかに心得る結縁の人々もいた。その人々は、その場や途中では不退の位に入らず、三千塵点劫という長い年月を経た。その間またことごとく、六道で四種の生死を繰り返し、今、釈迦如来が法華経を説かれたときに不退の位に入った。いわゆる、舎利弗・目連・迦葉・阿難などがこの者たちである。さらに信心の薄い者は、当時も覚らず、未来まで数え切れない劫を経る必要があるようである。私たちも大通智勝仏の十六人の王子の結縁の者かもしれない。この結縁の者を、天台大師や妙楽大師は、名字即[初めて正法を聴いて、すべての法は皆仏法であると知る位]、または観行即[円頓の法を聞いて歓喜し、教のままに正しく修行する位]にかなう人であると定められた。名字・観行の位は一念三千の教えや仏法の道理を分別し、十法成乗の観[天台大師が摩訶止観で説いた十種の観法]に考えをめぐらし、よくよく教えや仏法の道理を理解した人である。一念随喜[法華経信仰の最初の位・衆生の瞬間の生命の中に仏法に随順して得た歓喜を湧現させていくこと]や、五十展転[仏の滅後に法華経を聞いて随喜して人に伝え、第五十番目に伝え聞いた人の功徳]というのも、天台大師や妙楽大師の解釈などでは、すべて観行五品の初随喜の位と定めている。もっとも劣る凡夫のことではない。
しかし私たちは末代の一字一句等の結縁の者である。少しの教えや仏法の道理も知らないのに、どうして無数の世界の塵点劫を経る必要があるのか。これはひとえに道理は深いが、理解が少なく劣るゆえであり、教えは至って深く機根は実に浅いためである。ただ阿弥陀の名号を称えて順次生[今世の次の生、また次の生というように順次にすすんでいくこと]に西方極楽世界に往生し、西方極楽世界で永く不退の無生忍を得て、阿弥陀如来・観音勢至菩薩等が法華経を説かれた時に聞いて覚りを得るのが良いのである。したがって、阿弥陀の本願は有智・無智・善人・悪人・持戒・破戒等をえらばず、ただ一念に称えれば、臨終の際に必ず阿弥陀如来が本願の故に来迎されるのである。このことから考えると、この国土で、法華経の結縁を捨てて浄土に往生しようと思うのは、億千世界という数え切れない劫を経ずに早く法華経を覚るためなのである。法華経の根機にあたらない人が、この穢土で法華経から離れることなく、まったく念仏を称えないというのは、法華経の証は取り難く、極楽の業は定まらず、途中で中途半端に法華経をおろそかにする人であるといっているがどうであろうか。そのうえ、今お聞きすると、僅かな法華経の結縁だけなら、三悪道に堕ちないだけで、六道の生死を出るのではないといわれる。念仏の法門は云々などと意味や理論を知らなくとも、阿弥陀の名号を称え奉れば浄土に往生すると説いていることは、法華経よりも遥かに阿弥陀の名号が素晴らしいと理解できる。
答えていう。
たいへんありがたい話であり、そのうえ智慧者が語ることであるから正しいのだろう。しかし、もし語られるとおりであればすこし不審な点がある。
大通智勝仏に結縁のある者を、名字・観行の位の者と乱暴にあてがって解釈しておられるが、まさしく名字即の位と定められるうえ、大乗の修行を退けて小乗の修行に堕ちる者として法華経を捨てて権教にうつり、その後には悪道に堕ちたと見える、まさに法華経を誹謗して捨てた者である。
たとえ道理や意味を知るような者であっても、謗法の人であるうえは、三千塵点劫や無量塵点劫を経るべきであろう。また、五十展転・一念随喜の人々を、観行五品の初随喜の位の者と解釈されているが、末法の時代の者である我々の随喜は、かの随喜の中には入れてはいけないといわれるのか。これを天台大師と妙楽大師が初随喜の位と解釈されたといわれるからには、また名字即と解釈している解釈は捨てるべきなのか。結局、言われる道理を詳しく考えてみると、そのようであるけれども謗法の一分ではないか。その理由は、法華経は私たち末法の衆生の機根には適応しがたいといって、末法のすべての衆生は穢土において法華経を修行しても意味が無いというからである。もしそのようなことであれば、末法のすべての衆生の中でこの言葉を聞いた者は、既に法華経を信じている者も捨ててしまい、まだ修行していない者も修行しようと思わなくなるではないか。随喜の心も止めてしまうので謗法となるであろう。そして謗法の者にすべての衆生がなってしまうなら、いかに念仏を称えても往生は定まらないのではないか。
また阿弥陀の名号を称えて、極楽世界に往生を遂げよといわれるが、どのような経論を証拠としてその教えに執着するのか。正しく強い証文があるのか。もし無いのであればその道理は信用できない。前に申したように、法華経を信じるなら、そのような理解が無くても三悪道には墜ちることはない。六道から出る事ができることは、少しの覚りもない人にとって有り難いことである。ただ、悪知識にあって法華経を随喜する心を言い破られているのは力が及ばないのか。また言われることにも驚きを覚える。それは法華経は末法の凡夫の機根に適応しがたいと智慧者に言われて、そのように思われていることにである。
ただ今言われたとおりであるなら、阿弥陀の名号を称えたとしても、法華経を言い疎む罪によって、往生も遂げることができないうえ、悪道に堕ちるというのか。これはゆゆしき事である。そもそも大通智勝仏に結縁のある者は、謗法のために六道を輪廻するが、それはまた名字即の浅い位の者である。一念随喜・五十展転の者も名字即・観行即の位であるという解釈はどこにあるのか。詳しくお聞きしたい。また、意味や道理を知らなくとも、わずかでも法華経を信じる者は、悪知識の教えによって法華経を捨てて権教に移る以外なら、世間の悪業に誘われる程度では悪道に堕ちることはないといわれる証拠はあるのか。また、無智の者が念仏を称えて往生するということはどこに書いてあるのかといわれたことは初めてである。雙観経等の浄土の三部経と、善導和尚等の経釈に明らかに書かれている。このうえは何を疑うのか。
答えていう。
大通智勝仏に結縁のある者を、大乗の修行を退けて小乗の修行に堕ちる謗法の者・名字即の者というのは、私の論ではない。
天台大師の法華文句第三の巻にこう解説されている。
「法を聞いても、いまだ覚りの境地に及ばない。そうして多くの世に生を重ねて、今声聞界に及んだ者がいる。即ち彼の時に結縁した衆である」
こう解釈されているのを、妙楽大師は法華文句記の第三に重ねてこの解説の趣旨を述べている。
「ただ全くまだ区別はない。ともに結縁と名づけるがためである」
この趣旨は、大通智勝仏に結縁のある者は名字即の者である、ということである。
また天台大師は法華玄義の第六に大通智勝仏に結縁のある者をこう解説している。
「あるいは信、もしくは謗、因って倒れ、因って起きる。喜根を誹謗したとしても、後にかならず覚りを得るようなものである」
文の趣旨は、大通智勝仏に結縁のある者で、三千塵点劫を経るのは謗法の者である。例えば勝意比丘が喜根菩薩を誹謗したようにである、ということである。
五十展転の人は、五品[修業の方法を五種に分別した]の初めの初随喜の位であるという解説もあり、また初随喜の位の先の名字即という解説もある。
法華文句記の第十にはこうある。
「初めに法会で聞く。これは初品である。五十展転の人は必ず随喜の位の初めにある人である」
文の趣旨は、初めて法会で法を聞く人は必ず初随喜の位の内にはいる。五十展転の人は初随喜の位の先の名字即の位である、という解説である。
そのうえ、五種法師[五種の妙行を修する人]の中で、受持・読・誦・書写の四人は自行の人である。涅槃経で九種の修行を行った九人の内、先の四人は理解の無い者である。解説は化他後の五人は理解した人と証されている。
法華文句記の第十で五種法師を解説している。
「あるいは全くいまだ区別されない」、「一向にいまだ凡位に入らない」
文の趣旨は、五種法師は観行五品と解説しているが、また五品以前の名字即の位であるとも解説している。
これらの解説のとおりであるなら、意味や理論を知らない名字即の凡夫の随喜等の功徳も、経文の一偈・一句・一念随喜の者・五十展転等の内に入ると思われる。ましてこの経を信じない謗法の者の罪業は、譬喩品に詳しく説かれている。法華経を受持する者を誹謗する罪は法師品に説かれている。この経を信じる者の功徳は、分別功徳品・随喜功徳品に説かれている。
謗法というのは違背という意味である。随喜というのは随順という意味である。そのような意味や理論を知らなくとも、一念に貴いことをいうのは、違背と随順の中ではどちらに取られるべきか。
また末法の時代の無智の者が、わずかに供養して得る随喜の功徳は、経文には載せられていないかどうか。そのうえ、天台大師や妙楽大師の解説の趣旨は、他宗の人師がいて、法華経の「乃至童子戯(童子が戯れに砂を集めて仏塔を作ったり、草木や筆、あるいは指の爪甲で仏像を描き、皆仏道を成就したこと)」という句一偈・一句・五十展転の者を、爾前の諸経のように上人・聖人の行為と解説したことを謗法の者と定めたが、自分が釈を作る時、機を高く取って末法で悪をつくり、凡夫を迷わしたことは自語相違ではないのか。
故に妙楽大師は五十展転の人を解説して述べている。
「恐らくは誤って理解する者は、初心の功徳の大きい事を予想できない。しかし功を上位にゆずり、この初心を侮るために、今かの行は浅く功徳は深い事を示して、経力を顕わす」
文の趣旨は、誤って法華経を説く人が、この経は利智精進・上根上智の人のためであるという事を、仏はおそれて、下根・下智・末代の無智の者のわずかで浅い随喜の功徳を、四十年余りの諸経の大人や上人・聖人の功徳よりも勝れている事をあらわそうとして、五十展転の者の随喜を説かれたのである。故に天台大師は、外道・小乗・権大乗まで比べて、法華経の最下の功徳が勝れていることを解説された。
ゆえに阿竭多アカダ仙人[十二年の間ガンジス河の水を耳に留めた]や耆兎ギト仙人[一日で大海の水を吸い干した]のような得通の仙人は、小乗・阿含経の三賢の浅位の一通もない凡夫よりも百千万倍劣る、三明・六神通を得た小乗の舎利弗・目連等は、華厳・方等・般若等という諸大乗経の未断三惑の一通もない一偈・一句の凡夫より百千万倍劣る、華厳・方等・般若経を習い極めた等覚の大菩薩は、法華経に僅かに結縁した未断三惑・無悪不造の末代の凡夫より百千万倍劣る、などの解説の文に顕然である。
ところが今の世の念仏宗等の人は、我が身は権教の機根であるから、実経は信じない。方等・般若の時の二乗のように、自身を恥じてしかるべきところであるが、あえてその義はない。それどころか、世間の出家した僧や在家の信者が、僅かに観音品・自我偈などを読み、たまたま父母に孝養するために、一日経等を書く事があれば妨害してこう言う。
『善導和尚は、念仏に法華経をまじえることを雑行と呼び、百人の内まれに一人・二人が得道し、千人のときはまれに三人・五人は得道する者があるだろう。(中略)法華経は千人に一人も得道しないと仰せである』
まして、智慧第一の法然上人は法華経等を行じる者を、"祖父の履物あるいは群賊等に譬えられている"などと世間から嫌われるようにいい、法華経を説く師も弟子も阿鼻地獄の焔を招くだろう、などという。
問うていう。
どのような姿や言葉が法華経を世間から嫌われるようにしている者というのか。世にも恐ろしいことである。
答えていう。
初めに、智慧者が言ったなどと語られたことこそ、法華経を世間から嫌われるようにする悪知識の言葉である。末法で法華経を滅ぼす者は、心には一代聖教を知ったと思っている。しかし心では権と実の二経さえ分別できていないのである。姿や行儀は整っており、人里離れた閑静な場所に身をかくしたり、世間の人に偉い智慧者と思われている。しかも法華経をよく知っていることを人に知られようとして、世間の出家した僧や在家の信者からは、三明六神通の阿羅漢のように貴ばれている。このような者が法華経を滅ぼす者である。
問う。
その証拠は何か。
答えていう。
法華経勧持品にこうある。
「多くの無智の人々が悪口を言ってののしる。そして刀や杖を加える者がいるだろう。私たちは皆まさに忍ぶであろう」
妙楽大師はこの文の趣旨を解説して述べている。
「初めの一行は通じて邪人を明かす。即ち俗衆である」
文の趣旨は、この一行は在家の俗男・俗女が、権教の僧等にあおられて敵となる、ということである。
また法華経にこうある。
「悪い時代の中の僧はまちがった知恵を持ち、心にこび・へつらいがあり、いまだ得ていないものを得たといい、我執の心が充満している」
妙楽大師がこの文の趣旨を解説している。
「次の一行は道門増上慢の者を明かす」
文の趣旨は、悪い時代である末法における権教の多くの僧は、自分は覚ったと慢心して、法華経を行じる者の敵となるであろう、という事である。
また法華経にこうある。
「あるいは山林の静かな場所で、ぼろ切れをつぎはぎした衣を着て、誰もいないところで自ら真の道を行じていると思って、人間を軽んじ賎しめている者がいるだろう。財産を貪り、自己の利益を求めることに貪著する故に、在家の人々のために法を説き、世間から恭敬される事が、六神通を得た阿羅漢のようであろう。このような人が悪心を懐いて、常に世俗の事を心に思い、その名のうえで、山林の静かな場所に住んでいることをよりどころにして、好んで私たちの過失を出す。しかもこのような言葉をいう。『この多くの僧たちは利を貪り、私腹を肥やすために、仏教以外の論義を説き、自らこの経典を作って、世間の人をたぶらかす。名聞を求めるために、分別してこの経を説く』と。常に大衆の中で、私たちを謗ろうと欲するので、国王・大臣・婆羅門・在家及びその他の僧侶たちに向って、誹謗して私の悪口をいう。『これは間違った考えの人である。仏教以外の論義を説く』と」
妙楽大師は、この文を解説して述べている。
「三に七行は僣聖増上慢の者を明かす」
経典並びに解説の趣旨は、悪い時代には、多くの僧侶がいる。姿や行儀は整っており、山林の静かな場所に住む。行儀は大迦葉等の三明六神通を得た阿羅漢のようである。在家の多くの人々に仰がれて、一言を言えば如来の金言のように思われて、法華経を行じる人を言い負かすために、国王・大臣等に向かって、この人は間違った考えの者である、説く法門は邪法である、などと言って世間から嫌われるようにする、ということである。
上の三人の中では、第一の俗衆増上慢のそしりよりも、第二の悪知恵にたける僧侶のそしりのほうが耐え難い。また第二の僧侶よりも、第三の大衣の山林の静かな場所に住む僧のほうが甚だしい。
この三人は、今の時代の権教を手本とする文字の法師[文字や理論に執着して修行をしない法師]であり、諸経論の言語道断の文を信じる暗禅の法師であり、彼等を信じる在家等である。四十年余りの諸経と法華経の権と実の経文の教えも区別できない。したがって、華厳・方等・般若等の「心と仏と衆生・自分の心が即ち仏・即往十方西方等」の文と、法華経の「諸法実相・即往十方西方」の文とが、言葉は同じであるが意味も道理も違うことを知らない。また諸経の「言語道断[究極の真理は言語ではとうてい表現できないこと]・心行所滅[仏法の妙理は思索のみでは決して理解することができない不可思議境であること]」の文を見て、釈尊一代の聖教には、如来の真実は述べられていないなどの邪念をおこすのである。
故に、悪鬼がこの三人に入って、末法の時代の大衆の利益を減らし国土をも破るのである。
経文にはこうある。
「濁りに満ちた劫という悪世の中には、多くの恐怖があるだろう。悪鬼がその身に入って、私を罵り、はずかしめるだろう。(中略)仏が教化の方法として、相手に応じてふさわしいように説かれる法を知らずに」
文の趣旨は、濁った悪い時代の僧は、私の信じる教えが、仏が相手に応じて説かれた法門であるとも知らずに、権と実とを区別して理解する人が出来すれば、罵ったり破折したりするだろう。これはひとえに悪鬼がその身に入ったことを知らないのである、ということである。
したがって、末法の時代の愚人が恐れなければならないのは、刀や杖・虎や狼・十悪・五逆等よりも三衣・一鉢を帯せる暗禅の僧侶や、権経の僧侶を貴いと見て実経の人を憎む在家の人々等である。
このことを涅槃経二十二でこう説かれている。
「悪象等に対しては心に恐怖を抱く必要はない。しかし、悪知識に対しては怖畏の心を生じなさい。なぜかというと、悪象等はただ身を破るだけで心を破ることはできない。しかし悪知識は身も心もともに破るからである。(中略)悪象の為に殺されても三悪道に堕ちることはないが、悪友の為に殺されたなら三悪道に堕ちる」
この文の趣旨を章安大師が述べている。
「多くの悪象等はただ悪縁であり、人に悪心を生じさせることは出来ない。悪知識は甘談詐媚・巧言令色をもって、人を牽いて悪を作らせる。悪を作らせるために人の善心を破る。これを名づけて殺という。即ち地獄に堕ちる」
文の趣旨は、悪知識というのは、甘く語らい、いつわり、媚び、言葉を巧みにして、愚かな人の心を奪って善心を破るということである。
総じて、涅槃経の趣旨は十悪・五逆の者よりも、謗法・一闡提の者を恐れなさいと誡めている。一闡提の人というのは、法華経・涅槃経を嫌うようにする者である。
今の時代の念仏者等は、法華経を完全に知り尽くしたように語り、因縁・譬喩を使って解釈し、よく知っていることを人に知らせる。そして後からこの経は素晴らしいので末法の時代の機根の愚かな者には匹敵しないなどと述べて、強い弓や重い鎧も力の無い人の使用には耐えないなどという。無智な僧侶や在家の信者はそうかも知れないと思って、実際には願いなど叶うことのない権教に心を移し、また僅かに法華経に結縁している者の心も翻えさせてしまうのである。
また人が法華経を行ずる姿を見ても随喜しないため、師弟ともに謗法の者となる。
こうして謗法の人々が国中に充満して、たまたま仏事を営み、法華経を供養し、追善する者にも、念仏等を行ずる謗法の邪師の僧が来て、法華経は末法の時代の機根に適応しない理由を示す。
したがって施主もその説を真実と信じて、その間訪れる過去の父母・夫婦・兄弟等はいよいよ地獄の苦しみを増す。親孝行な子は親不孝の謗法の者となり、聴聞する多くの大衆は、邪法を随喜し、悪魔の眷属となる。日本国中の多くの大衆は仏法を行じているようで、仏法を行じておらず、たまたま仏法を知る智慧者は国の人々に捨てられ、守護する善神は法味をなめることが出来ないので威光を失い、利益を与えることを止めて、この国を捨てて他方に去られてしまう。
かわって悪鬼が便りを得て国中に入れ替り、大地を動かし、悪風を興し、世界を悩まし、五穀を損じる。
故に飢渇が出来し、人の五根には鬼神が入って精気を奪う。これを疫病と呼ぶ。一切の大衆は善心を無くし、多分は悪道に堕ちる。このことはひとえに悪知識の教えを信じるためである。
仁王経にこうある。
「多くの悪比丘が多く名利を求め、国王・太子・王子の前で自ら破仏法の因縁・破国の因縁を説く。その王はわきまえずにこの言葉を信じて聴き、ほしいままに法制を作り、仏の戒には依らない。これが破仏・破国の因縁となる」
文の趣旨は、末法における多くの悪い僧は、国王・大臣の前で、国を安穏にするようであるが最後には国を損じ、仏法を弘めるようであるがかえって仏法を滅ぼす。国王・大臣はこのことを深く知らず、この言葉を信じて受けるために、国を破り仏教を滅ぼす、という文である。
この時、太陽や月は周期が狂い、季節も狂って夏は寒く冬は暖かくなる。秋に悪風が吹き、赤い太陽や月が出て、新月や満月ではないのに、日食・月食となったり、二つ・三つ等の太陽が出現する。大火・大風、彗星等が発生し、飢饉・疫病等が発生するだろう。国を損じ、人を悪道に落とす者は、悪知識に過ぎない。
問う。
初めに、智慧者が語ったと言ったのは、所詮、後世のことが疑わしいために、善と悪を述べて理解しようとしたのである。かの教義は恐ろしいことであるが、理解力に乏しい私たちのような者は、どのようにして法華経を信じたらよいのか。また、心根をどのように思い定めればよいのか。
答える。
この私の申しあげることも確かなことと思われないであろう。
その理由は、このように申し上げても、天魔や波旬[人間を殺したり、善を妨げる悪魔]・悪鬼等が私の身に入って、人が善いという法門を破折しているのだと思われるからである。すべて賢いことが智慧者であろうか。
問う。
もしそのように疑われるならば、我が身は愚か者である。万の智慧者の言葉を疑い、信じる方法も無くして、空しく一生を過ごしてしまうのか。
答える。
仏の遺言に「依法不依人」と説かれているので、経のとおりに説かないのであれば、どんなに立派な人であろうとも信用してはいけないようである。
また、「依了義経不依不了義経(了義経[仏の道理を説いた経]を根拠とし、不了義経[仏が衆生の機根に合わせて説いた経]を根拠としてはならない)」と説かれているので、愚かな身で、釈尊一代の聖教の前後や浅深を分別できないなら、了義経に付くことである。
了義経・不了義経にも多くある。阿含小乗経は不了義経で、華厳・方等・般若・浄土の観経等は了義経である。また四十年余りの諸経は、法華経と比較すると不了義経であり、法華経は了義経となる。涅槃経と法華経を比較するならば、法華経は了義経となり涅槃経は不了義経となる。大日経と法華経を比較すれば、大日経は不了義経で法華経は了義経である。
したがって、四十年余りの諸経並びに涅槃経は捨てて、法華経を師匠としなければならない。法華経を国王・父母・太陽や月・大海・須弥山・天地のように思いなさい。諸経は関白・大臣・公卿から万民・衆星・江河・諸山・草木等であると思いなさい。
私たちの身は、末法の時代に悪を作る愚か者であり、鈍者・非法器の者である。国王は臣下よりも国民を助ける人である。父母は他人よりも子を哀れむ者である。太陽や月は多くの星より暗闇を照らすのである。法華経が機に叶わないというのであれば、余経はなおさら助け難いと思いなさい。
また釈迦如来と阿弥陀如来・薬師如来・多宝仏・観音・勢至・普賢・文殊等の一切の諸仏・菩薩は、私たちの慈悲の父母である。この仏や菩薩が衆生を教化する慈悲の極理はただ法華経にのみとどまると思いなさい。
諸経には悪人・愚者・鈍者・女人・根欠[成仏の機根がかけている者]等の者を救う秘術はいまだ説き顕わされていないと思いなさい。
法華経はすべての経よりも勝れている。理由はただ以上のことによる。
それを今の時代の学者は、法華経はすべての経より勝れているとほめていながら、末法の時代の機には適応しないと言う。このことをすべての者に信じさせていることが、どうして謗法の人とならないことがあろうか。ただ一口に思い切りなさい。所詮、法華経の文字を破ったり裂いたりなどしても、法華経の心は破ることはできない。
また、世間の悪業に対して、嫌われるように言おうとも、人々は信用してはいけない。ただ似たような権経の意味や道理をもって嫌うようにさせることに対して、だまされているのだと思いなさい。
問う。
智慧者の言われるには、四十年余りの諸経と、八年の間に説かれた法華経において、成仏については、爾前は難行道であり、法華経は易行道である。往生については、同じことであり、易行道である法華経を書いたり読んだりしても、十方の浄土・阿弥陀仏の国へも生れることができる。観経等の諸経に付いて阿弥陀の名号を称える人も往生を遂げる。ただ機縁の有無に随うのであって、何を争うことがあろう。ただし、阿弥陀の名号は人ごとに行じやすいと思って、日本国中に修行をいいつけた事であるから、法華経等の他の修行よりもやさしい、と言われていることはどう考えるか。
答える。
仰せの法門は、そうであるかも知れない。また、世間の人も多くは道理であると思うかも知れない。
ただし私はこの主張を不審に思う。
その理由は、先に申しあげたように、末法の時代の凡夫には、智慧者という頼るものがない。頼るもののない時代には、誰も彼も上代の智慧者には及ばないため、愚か者といっても卑しんではならない。経や論の証文に顕然であるからには。
そもそも無量義経は法華経を説く為の序分である。したがって、釈尊が初めて説いた寂滅道場から、今の常在霊鷲山の無量義経に至るまでの年月や日数を詳しく数えたら四十年余りである。
その間に説かれた経を挙げると、華厳・阿含・方等・般若である。語られた法門は三乗・五乗・所習の法門である。修行の時期を定めれば、「宣説菩薩歴劫修行」といい、随自意・随他意を分けるなら、これを随他意と宣べ、四十年余りの諸経と八箇年の所説において、言葉が同じで意味が変わる事を定めるために、「文辞一といえども、意味はそれぞれ異なる」と説かれている。成仏の方は別にして、往生の方は一つであるとも思われない。
華厳・方等・般若・究竟最上の大乗経・頓悟・漸悟の法門については、「すべていまだ真実をあらわしていない」と説かれている。この大部の諸経すら「未顕真実」である。まして浄土の三部経等の往生極楽だけが、「未顕真実」でないはずがない。
そのうえ、経ばかりを出すだけではない。既に年月・日数を出している。したがって、華厳・方等・般若等の阿弥陀往生はすでに「未顕真実」であることは疑いない。観経の阿弥陀往生に限ってどうして「多留難故」の内に入らないことがあろうか。
もし、随自意の法華経の往生極楽と随他意の観経の往生極楽は同じであり易行道である、と定めて、しかも易行の中にとってもなお観経の念仏往生は易行である、とこれを立てられたならば、権実雑乱の罪・大謗法であるうえ、一滴の水が次第に流れて大海となり、一粒の塵が積って須弥山となるように、やがて権経の人も実経にすすまず、実経の人も権経におち、権経の人は次第に国中に充満するので、法華経を随喜する心も留まり、国に王がいなくなり、人も精神を失うように、法華・真言の多くの山寺は荒れ果てる。
諸天善神・竜神等・一切の聖人が国を捨て去ったならば、悪鬼が便りを得て乱れ入り、悪風が吹いて五穀も実らず、疫病は流行して人民を滅ぼすだろう。この七・八年前までは、諸行では永く往生することができなかった。善導和尚が千中無一と定めたうえ、選択集には諸行を抛てよ、修行する者は群賊に見えるなどと放語を申し立てたためである。
またこの四・五年の後は選択集のように、人に勧める者は謗法の罪によって師匠と弟子共に無間地獄に堕ちると経に見える、という法門が出来したので、初めは念仏者はこぞって不思議と思ったうえ、念仏を称える者は無間地獄に堕ちるだろうという悪人や外道がいると非難したが、念仏者は無間地獄に堕ちるだろうという言葉に智慧がついて、それぞれ選択集を詳しく見てみると、いかにも謗法の書であると見なした。そして千中無一の悪義を留めて、諸行往生の由を念仏者毎に立てた。しかしただ口で言うばかりで、心の中ではなおもとの千中無一の思いを持っていた。在家の愚かな人は、内心では謗法であることを知らずに、諸行往生の口に馬鹿され、念仏者は、法華経を誹謗しなかったが、法華経を誹謗する訳を聖道門の人が言うことは間違いであると思ったのであろうか。ただ諸行は千中無一であるという人よりも、謗法の心は勝っている。罪のない理由を人に知らせて、しかも念仏だけをまた弘めようとたぶらかす。ひとえに天魔の計りごとである。
問う。
天台宗の中の人が立てることがある。天台大師は、爾前経と法華経を相対して、爾前経を嫌うことに二つの理由があるといっている。
一つには、約部四十年余りの部と、法華経の部とを相対して、爾前経はソであり、法華経は妙であると立てる。
二つには、約教では教にソと妙を立て、華厳・方等・般若等の円頓速疾の法門を妙と讃嘆しながら、華厳・方等・般若等の三乗歴別の修行の法門を前三教と名づけてソであると嫌った。円頓速疾の方を嫌わず、法華経と同じ一味の法門とするといわれたのは何故か。
答える。
この事を不審とする事は当然と思われる。
天台大師や妙楽大師以来、今に至るまで議論のあることである。
天台大師の三大部・六十巻、総じて五大部の章疏の中にも、約教の時は爾前の円を嫌う文は無い。ただ、約部の時のみ爾前経の円を押え集めて嫌われた。
日本にも二つの義がある。園城寺では智証大師の釈より起こって、爾前経の円を嫌うといい、比叡山では嫌っていないという。互いに文や解釈があり、ともに料簡がある。しかしながら、今だ決着していない。
ただし我が流の教えでは不審は晴れたと理解している。
その理由は、天台大師が四教を立てられたことに四つの筋目がある。一には爾前の経に四教を立て、二には法華経と爾前と相対して、爾前の円は法華の円と同じとして前三教を嫌う事があり、三には爾前の円を別教に摂して前三教と嫌い、法華の円を純円と立てて、四には爾前の円を法華経と同じとするけれども、ただし法華経の二妙の中の相待妙と同じであり、絶待妙とは同じであるとしていない。
この四つの道理を相対して六十巻を考えれば、狐疑の氷は解けるのである。一つ一つの証文は、一方では秘し、一方では繁多なためこれを載せていない。
また法華経の本門においては、爾前の円と迹門の円を嫌うことは不審のないことである。爾前の円を別教に摂して、約教の時は「前三為.後一為妙」という。この時は、爾前の円は無量義経の歴劫修行の内に入る。
また、伝教大師の注釈の中に、爾前の八教を挙げて「四十余年未顕真実」の内に入れ、あるいは前三教を迂回と立て、爾前の円を直道といい、無量義経を大直道という。詳しく見るべきである。
問う。
法華経を信じる人は、本尊や行儀、並びに普段の所行はどのようにすべきか。
答える。
第一に、本尊は法華経八巻・一巻・一品あるいは題目を書いて本尊と定めるべきである、と法師品並びに神力品に説かれている。また、物足りない人は、釈迦如来・多宝仏を書いたり造ったりして、法華経の左右に立てて奉じなさい。またそれでも物足りない人は、十方の世界の諸仏・普賢菩薩等を造ったり書いたりして奉じなさい。
行儀は、本尊の前では必ず坐立行である。道場を出たならば、行住坐臥を選ばない。普段の所行は、題目を南無妙法蓮華経と唱えなさい。物足りない人は、一偈・一句を読んで奉じなさい。
助縁とするには、南無釈迦牟尼仏・多宝仏・十方諸仏・一切の諸菩薩・二乗・天人・竜神・八部等を心に随えなさい。愚か者が多い時代であるから、一念三千の観を先とせず、その志がある人は、必ず習学してこれを観じるべきである。
問う。
ただ題目だけを唱える功徳は何か。
答える。
釈迦如来は、法華経を説こうと思われて世に出現されたのであるが、四十年余りの間は法華経の名目を隠そうと考えられた。御年三十のころより七十余歳に至るまでは法華経の方便をもうけ、七十二歳で初めて題目を呼び出された。したがって、諸経の題目とこれを比べてはいけない。そのうえ、法華経の肝心である方便品・寿量品の一念三千・久遠実成の法門は妙法の二字に収まっている。
天台大師は、法華玄義十巻を著わされ、第一の巻には略して妙法蓮華経の五字の趣旨を述べられた。第二の巻より七の巻に至るまでは、また広く妙の一字を述べられた。八の巻より九の巻に至るまでは法蓮華の三字を解説され、第十の巻で経の一字を述べられた。経の一字に華厳・阿含・方等・般若・涅槃経を収めている。
妙法の二字は、法華玄義では百界千如・心仏衆生の法門であり、摩訶止観十巻では一念三千・百界千如・三千世間・心仏衆生・三無差別と立てられた。
一切の諸仏菩薩・十界の因果・十方の草木・瓦礫等で、妙法の二字でないというものはない。
華厳・阿含等の四十年余りの経々・小乗経の題目には大乗経の功徳は収められていない。また、大乗経も往生を説くが、経の題目には成仏の功徳を収めていない。
また王であるけれども、王の中の王でない経もある。仏もまた経に随って、他仏の功徳を収めていない。
平等の見地に立って一切衆生に説法したとき、他仏と自仏は同じであると説き、仏の身はいかなる姿を示すとも、すべて平等であり無差別であると説くとき、自仏と他仏は同じであると説く。
実際には、一仏に一切仏の功徳を収めない。今、法華経は四十年余りに説かれた諸経を一経に収めて、十方世界の三身・円満の諸仏を集めて釈迦一仏の分身の諸仏と説くので、一仏とはあらゆる仏であり、妙法の二字に仏はすべて収まるのである。故に妙法蓮華経の五字を唱える功徳は莫大である。諸仏・諸経の題目は、法華経の所開であり、妙法は能開であると知って、法華経の題目を唱えなさい。
問う。
この法門を拝聴して、また智慧者に質問したところ、
『法華経のありがたいことをとやかく言うつもりはない。ただし、ふさわしい人は、ただ自分の身だけがそうである。末法の時代の凡夫に向かってただちに、機根も知らないのに、爾前の教えを説明して遠ざけ、法華経を修行しなさいというのは、年来の念仏などを打ち捨て、また法華経にはいまだ功も入れず、有にも無にもつかないようなものではないか。
また機根も知らずに法華経を説いたならば、信じる者は非難しないであろうが、もし誹謗する者があれば、必ず地獄に堕ちるであろう。
そのうえ、仏が四十年余りの間、法華経を説かれなかった事は、「若但讃仏乗・衆生没在苦(もしただ仏乗を讃めるならば衆生は苦に没在す)」という理由からである。釈尊が在世であった時の衆生の機根でさえこの通りであるから、末法の時代の凡夫はなおさらである。
したがって、譬喩品には「仏が舎利弗に告げられた。無智の人の中においてこの経を説いてはならない」と説かれている。』
などという。これらの道理を、どう考えるべきか。
答える。
智慧者の話を伺うと、所詮末法の時代の凡夫には、機根と照らし合わせてから説け、あれこれ考えず説いて人に誹謗させることのないように、ということであろうか。
その人がそのように言われたならば、返事することは、そもそも「若但讃仏乗・乃至無智人中」等の文を出したのであれば、また経のなかに「凡有所見(およそ何でも見るところがあれば)・我深敬汝(わたしは深くあなたがたを敬う)等」等と説いて、不軽菩薩が杖や木や瓦石で、打たれたことを気にかけないのはどうしてか、と尋ねなさい。
問う。
同一の経の中に相違することがあるのは、理解し難いので詳しくたまわりたい。
答える。
方便品等には、機根と照らし合わせてこの経を説きなさいとあり、不軽品には誹謗されたとしても、ただ強いてこれを説きなさいとある。一経の前と後では水と火のようである。
このことを天台大師は解説して述べている。
「本と已に善がある。釈迦は小をもってこれを将護し、本にいまだ善がないならば、不軽は大をもってこれを強毒する」
文の趣旨は、本来善根があって、今の世の内に覚りを得る者の為には、直ぐに法華経を説くべきである。しかし、その中でなお聞いても誹謗する機根があるなら、しばらく権経で機根を調え、その後に法華経を説くべきである。本来大きい善根もなく、今も法華経を信じないから、理由もなく悪道に堕ちるので、ただ無理にでも法華経を説いてこれを誹謗させて逆縁としなさい、と理解する文である。
この解釈の通りであれば、末法の時代には、善の無い者が多く、善の有る者は少ないために、悪道に堕ちることは疑い無い。同様に、法華経を強いて説き聞かせて"毒鼓の縁"とするべきであろう。したがって、法華経を説いて誹謗されることによって縁を結ぶべき時節であることは論争するまでもないであろう。
また、法華経の方便品に、五千人の増上慢の者がいると説かれている。「略開三顕一」を聞いて、「広開三顕一」の時、仏の御力をもってその場から立ち去らせた後に、涅槃経並びに四依の辺で今の世において覚りを得させられたとある。諸法無行経には、喜根菩薩が勝意比丘に向って大乗の法門を強いて説き聞かせて誹謗させたとある。
この二つの相違を天台大師は解説して述べている。
「如来は悲をもっての故に追い出し、喜根は慈をもっての故に強説した」
文の趣意は、仏は悲の故に後の楽しみを閣いてその時に、法華経を誹謗して地獄に堕ちて苦に会うであろうことを悲しまれて、座を立たせた。
たとえば、母が子に病のあることを知っているので、今の苦しみを悲しんで、ためらわずに灸をすえるようなものである。喜根菩薩は慈悲の故に当時の苦しみを顧みず、後の楽を思って、強いてこれを説いて聞かせた。
たとえば、父は慈悲の故に子に病があるのを見て今の苦しみを顧みず、後を思う故に灸をすえるようなものである。
また、仏が在世のときには、仏は法華経を秘密にされたので、四十年余りの間、等覚や不退の菩薩の名を知らなかった。そのうえ、寿量品は法華経を説かれた八年の間にも名を秘密にされた。そこで最後に聞かされた末法の時代の凡夫にためらいなく、どのように聞かせたらよいかと思われるところ、妙楽大師が解説して述べられた。
「仏の在世には当機の故にえらぶ。末代は結縁の故に聞かせる」
文の趣意は、仏の在世中には、仏の一生の間、多くの人が不退の位にのぼったので、法華経の名義を出して誹謗させずに、機根を調えてこれを説いた。仏滅後には今の機根の大衆は少なく、結縁の大衆が多いので、多分に就いてためらうことなく法華経を説きなさい、という説明である。このような多くの品がある。
また末法の時代の師の多くは機根を知らない。機根を知らない者には強いてただ実教を説くべきであろう。
したがって、天台大師の解釈にこうある。
「等しくこれを見なければ、ただ大を説いても罪は無い」
文の趣意は、機根を知らなければ、大を説いても罪はない、という文である。また時の機根を見て説法する方法もある。国中のすべての人々が権経を信じて実経を誹謗し、強いて用いないならば、弾呵の心をもって説くべきであろう。時によって用いるか否かである。
問う。
中国の人師の中で、わずかにまたは全て権大乗のみに留まり、実経に入らなかった者がいるが、どういう理由か。
答える。
仏は世に出現されて、まず四十年余りは権大乗・小乗の経を説き、後には法華経を説いて言われた。
「若以小乗化・乃至於一人・我則堕慳貪・此事為不可(もし小乗をもってだれかある人を教化するならば、私はものおしみ・むさぼりに陥るだろう。このことはまったく誤りである)」
文の趣意は、仏がただ爾前の経だけを説いて、法華経を説かれなかったならば、仏には慳貪の罪がある、と説かれたのである。後に属累品に至って、仏は右の手を伸ばされて、三度諌められた。三千大千世界のほか、八方・四百万億那由佗の国土の無数の菩薩の頭を撫でて、「未来には必ず法華経を説きなさい。もし機根が絶えたならば、私の深法の四十年余りの経を説いて機根を調えて法華経を説きなさい」と。
後に涅槃経に、重ねてこの事を「仏の入滅後に四依の菩薩が法を説くとき、また法の四依がある。実経をついに弘めなければ天魔と知りなさい」と説かれている。
したがって、如来の入滅後、後の五百年・九百年の間に出現された竜樹菩薩・天親菩薩等は、もれることなく如来の聖教を弘められた。
天親菩薩とは、先に小乗の『説一切有部』を著した人であり、そして倶舎論を著して阿含十二年の経の趣旨を述べ、まったく大乗の意味や道理を明かさなかった。次に十地論・摂大乗論・釈論等を著して、四十年余りの権大乗の主意をのべ、後に仏性論・法華論等を著してほぼ実大乗の教えを述べた。竜樹菩薩も同様である。
天台大師は中国の人師として、釈尊の一代を分類し、大・小・権・実を明らかにした。その他の人師も僅かに意味や理論を述べているが、明確ではない。また証文も不確かである。ただし、末の学者や訳者、中国の人師は、大と小を分類し、大においては権と実は分類しなかった。あるいは、言葉では分類してはいたが、心では権大乗の趣きを出なかった。これらは「不退諸菩薩・其数如恒沙・亦復不能知(決して退くことのない多くの菩薩で、その数がガンジス河の砂の数ほどであるが、またまた仏智は知ることができない)」と思われる。
疑う。
中国の人師の中で、慈恩大師は十一面観音の化身と呼ばれ、牙より光を放った。善導和尚は阿弥陀の化身であり、口より仏を出した。このほかの人師も神通力を現じて徳をほどこし、三昧を発得する人は世に多い。どうして権・実の二経を分別して法華経を選択しないのか。
答える。
阿竭多アカダ仙人外道は、十二年の間耳の中にガンジス河の水を留め、婆籔バソ仙人は自在天となって三つの目を現した。中国の道士の中においても、張階は霧をつくり、鸞巴ランパは雲を吐いたという。第六天の魔王は、仏の入滅後に僧・尼・在家の男女・阿羅漢[声聞]・辟支仏[縁覚]の姿を現して、四十年余りの経を説いたといわれる。神通力をもって、智者か愚者かを知るべきではない。
ただ仏の遺言のとおりにすることなく、ひたすら権経を弘めて、実経を最後まで弘めない人師は、権経に宿習があって実経に入らない者か、あるいは魔にたぶらかされて神通力を現すのか。ただ法門で正邪をただすべきである。利根や神通力によってはならない。