同志と共に

トップページへ戻る

法華真言勝劣事ほっけしんごんしょうれつじ

東寺の弘法大師空海の立てた説にこうある。
法華経は華厳経よりも劣っている。まして大日経等に対してはなおさらである、と。
慈覚大師円仁・智証大師円珍・安然和尚等はこういっている。
法華経の理は大日経と同じであり、印と真言ということにおいてはこれはなお劣っている、と。
その所釈は他のところに出した。
空海は大日経・菩提心論等によって十住心を立てて顕密の勝劣を判じた。その中に「第六の他縁大乗心は法相宗・第七の覚心不生心は三論宗・第八の如実一道心は天台宗・第九の極無自性心は華厳宗・第十の秘密荘厳心は真言宗である。この所立の順序は浅いほうから深いほうになっている。その証文は大日経の住心品と菩提心論と出ている」という。
しかし出ているという大日経の住心品を見て、他縁大乗・覚心不生・極無自性を調べると、名目は経文にあるが、他縁・覚心・極無自性の三句を法相・三論・華厳に配する名目はない。そのうえ覚心不生と極無自性との中間にあるという如実一道は文も義も共にない。
ただこの品の初めに「何を菩提かというと、如実に自心を知ることをいう」等の文はある。この文を取ってこの二句の中間に置いて天台宗と名づけ、華厳宗に劣ると主張しているのである。住心品においては全く文も義も共にない。「有文有義」・「無文有義」の二句を欠いているる。信用するに値しない。菩提心論の文においても、法華経と華厳経の勝劣については全く見あたらないうえ、この論が竜猛菩薩の論ということは古くから論争がある。この論争は決着しないまえに、規範として立てる事は竪義リユウギの法に背くものである。
そのうえ、善無畏や金剛智等が評議して、大日経の疏と義釈を作り、一行阿闍梨に執筆させた。この疏と義釈の中で諸宗の勝劣を判じて、法華経と大日経とは広と略の違いであると定めている。空海の徳が貴いといっても、どうして先師の義に背いてよいだろうか、という非難が強い。これは安然の非難である。
これに対して、空海の門人はこのことに答えて、守護経あるいは六波羅蜜経あるいは楞伽経あるいは金剛頂経等にあると多く釈明したが、総じて難勢を免れなかった。
しかし東寺の末学等は大師の高徳を恐れて、無理な解釈を加えようとしているけれども、結局解釈のしようもなく、問答の法に背いて、伝教大師最澄は弘法大師の弟子であるとか、また宗論の甲乙等については議論のあるところであるなどと言っている。
日蓮が考えるには、華厳宗の杜順・智厳・法蔵等は法華経の「始見今見」の文に基づいて、法華・華厳・斉等の義を懐いた。その後、澄観が「始今」の文によって等しいとする義を祖師にならってたてた。そのうえ一往の弁を加えて、「法華と華厳は等しい。ただし華厳は法華経より先である。華厳経の時仏は最初に法慧や功徳林等の大菩薩に対して出世の本懐を遂げた。ところが二乗や下賎の凡夫等の根機が未熟であったので用いなかった。阿含・方等・般若等の調熟によって立ちかえって華厳経に入れた。これを今見の法華経と名づける。大陣を破ったとき余残を破るのはかんたんなようなものである。それゆえ真実には華厳経が法華経より勝れているのである等」と言ったのである。
日本で勤操等にあってこの義を習学した後に、天台・真言を学んだけれども、昔の習学に対する執着が改まらなかったので、この義を懐くのか。
まして華厳経が法華経より勝れているとの由は、陳や隋以前に南三・北七が皆こう考えていた。天台以降もまた諸宗がこの義を立てた。ただ弘法一人ではない。しかし澄観が「始見今見」の文によって華厳経は法華経より勝れていると料簡する才覚においては、天台智者大師が涅槃経の「是経出世乃至如法華中」等の文によって法華経と涅槃経の義は等しいという義を懐いただけではなく、また勝劣の義を懐いたということから、この才覚を学んでこの義を懐いたのか。この義がもし誤りならば空海の義もまた誤った見解である。
天台真言宗の書に「法華経と大日経とは広略の違いである。略とは法華経であり、大日経と同等の理であるが、印と真言を略しているからである。広とは大日経である。極理を説くだけではなく、印と真言をも説くからである」とある。また「法華経と大日経には同と劣の二つの義がある。理は同じで事は劣るということである」とある。また「二義があり、一には大日経は五時におさまる。これは与えていった義である。二には大日経は五時のおさまらない。これは奪っていった義である」。また「法華経はたとえば裸形の猛者のようであり、大日経は甲冑を着けた猛者である」等とある。また「印と真言がなければその仏を知ることはできない」等とある。
日蓮は不審していう。
何をもって理は法華経と大日経と等しいということを知るのか。
答えていう。
疏と義釈並びに慈覚・智証等の所釈による。
尋ねていう。
これらの三蔵や大師等はまた何をもって理は等しいとの義を知ったのか。
答えていう。
三蔵や大師等を疑ってはならない。
難じていう。
この義は論義の法にのっとっていないうえ、仏の遺言に違背する。明確な経文を出しなさい。もし経文がなければ道理もないがどうか。
答える。
威儀形色経・瑜祇経・観智儀軌等にある。文は口頭で伝えよう。
問うていう。
法華経に印・真言を略すというのは、仏の説法か経家よりか訳者よりか。
答えていう。
ある人は仏といい、ある人は経家といい、ある人は訳者という。
不審していう。
仏が真言・印を略して法華経と大日経とに理同事勝の義があったというならば、この事は何れの経文か。文証の出所がわからない自分勝手ないい加減な説ならば用いるべきではない。もし経家・訳者よりこれを略すというならば、仏説にてどうして理同事勝の釈を作ることができるのか。法華経と大日経とは全体が等しいことになる。もっとよく子細を調べなさい。
ひそかに日蓮は思う。威儀形色経・瑜祇経等の文の通りであれば、仏説において法華経に印と真言あっただろう。そうであれば経家・訳者がこれを略したのであろう。六波羅蜜経などは経家が略し、旧訳の仁王経のような経は訳者が略したのだろう。もしそうであるなら、天台真言の理同事異の釈は経家並びに訳者の時から起こった法華経・大日経の勝劣である。全く仏説の勝劣ではない。これは天台真言の極説である。天台宗の義勢・才覚の為にこの義を非難するのである。天台真言の誤った考えは以上である。東寺所立の教義はしばらく置く。誤りが明白だからである。
さて、天台真言宗の所立の理同事勝に二つの難点がある。
一には法華経と大日経と理と同の義が同じであるというその経文は全くない。法華経と大日経の説かれた順序はというと、既に義釈に二経の前後を定めて、法華経が先で大日経は後であるという。そうであるなら、大日経は法華経を重ねて説いた流通の説である。一つの法を二度説いているからである。もし所立の通りであれば、法華経の理を重ねて説いたものが大日経ということになる。そうすると、法華経と大日経が敵論の時は、大日経の理を奪って法華経に付けるべきである。ただし大日経の得分はただ印と真言だけである。印契は身業・真言は口業である。身と口だけで、意がなければ、印・真言もありえない。手や口等で奪って法華経のものにしたなら、手が無くて印を結び、口が無くて真言を誦すようなものであり、虚空に印真言を誦結することになるがどうか。裸形の猛者と甲冑を着けた猛者とのたとえであるが、裸形の猛者がつき進んで大陣を破るのと、甲冑を着けた猛者が退いて一陣さえも破らないのとは、どちらが勝れているか。また猛者は法華経であり甲冑は大日経である。猛者がいなければ甲冑は何の必要があろのか。以上は理同の義を難じたのである。
次に事勝の義を難じると、法華経には印・真言が無く大日経には印・真言があるといっている。印契と真言の有無によって二経の勝劣を定め、大日経には印と真言があり、法華経にはないので劣るというのなら、阿含経には世界の建立や賢聖の地位が明らかであるが、大日経にはない。かの経にあることがこの経にないということで勝劣を判断するのならば、大日経は阿含経より劣ることなにる。雙観経等には四十八願が明らかに説かれているが、大日経には説かれていない。般若経には十八空が明らかであるが、大日経にはない。これらの諸経にも劣るといえる。また印・真言が無ければ仏を知ることはできない等というが、今反詰していえば、理がなければ仏はありえず、仏がいなければ印契や真言は一切無意味となる。
彼が難じていう。
賢聖並びに四十八願等を印・真言と対比すべきではない、と。
今反詰していう。
最上の印と真言がないから、法華経は大日経等よりも劣るという。もしそうなら法華経には二乗作仏・久遠実成がある。大日経にはない。印・真言と二乗作仏・久遠実成とを対比して論ずるならば天地雲泥である。
諸経にも印・真言を説いていないわけでもないのに、大日経にこれを説いているからといって何の意味があるのか。二乗がもし灰断の執着を改めないならば印・真言も無用である。
一代の聖教はすべて二乗を永不成仏と嫌っているが、大日経もこれを隔てている。皆成仏までなくとも、三分の二を捨てて、百分の六十余りが得道しないならば、仏の大慈悲はどうなるのか。
だいたい理の一念三千之があって成仏するという以上は、何の不足があるというのか。成仏においては口のきけない仏や中風の覚者はいない。このことから考えると印・真言は効果がない。また諸経には始成正覚の旨を説いて、三身相即の無始の古仏を顕していない。本無今有の欠点があるので、大日如来は有名無実である。寿量品にこの旨を顕している。釈尊は天の一月であり、諸仏菩薩は万水に浮ぶ影であると説かれている。委細の旨はしばらく置く。
また印・真言がなければ祈祷はありえないといっている。
これまたもってのほかの間違いである。過去・現在の諸仏は法華経を離れて成仏することはできない。法華経をもって正覚を成じられたのである。法華経の行者を捨てるならば諸仏はかえって凡夫と成られるだろう。恩を知らないからである。
また未来の諸仏の中の二乗も法華経を離れては永く枯れた木であり腐った種である。今は再生の華果である。他経の行者と論争している時は、華光如来・光明如来等は何れの方に付くだろう。華厳経等の諸経の仏・菩薩・人・天ひして四悪趣等の衆はすべて法華経において一念三千・久遠実成の説を聞いて正覚を成じることができる。どちらの方に付くだろうか。
真言宗等と外道並びに小乗・権大乗の行者等と敵対して論争をする時は甲乙つけ難い。しかし法華経の行者に対する時は竜と虎、師子と兎との闘いのように論争にはならない。慧亮が脳を砕かんばかりに祈ったとき、次第の親王が即位し、相応が加持祈祷した時、真済の悪霊が降伏された等はこれである。ひとえに真言の行者は法華経の行者に劣る証拠はこれである。
問うていう。
大日経義釈の趣意は、法華経・大日経共に二乗作仏・久遠実成を明かすとしているのか。
答えていう。
共に明かしている。
義釈にこうある。
「この経にある心の実相はかの経の諸法実相である」
またこうある。
「本初というのは法華経の寿量の意味である」
問うていう。
華厳宗の教義にこうある。
華厳経には二乗作仏・久遠実成を明かしている。天台宗はこれを許していない。宗論はしばらく置いて、人師を捨てて本となる経についてみると、華厳経においては二乗作仏・久遠実成の相似の文はあるが実義はない。このことから考えると、義釈には大日経に二乗作仏・久遠実成を説くといえども、実義はないのではないか。
答えていう。
華厳経と相似の文はあるけれども、実義はない。私見であるが、二乗作仏がなければ四弘誓願を満足させることはできず、四弘誓願が満たせなければまた別願も満たすことはできない。総別の二願満たせなければ、衆生の成仏もありえないのではないか。よく考えるべきである。
問うていう。
大日経の疏にこうある。
大日如来は無始無終であり遥かに五百塵点よりも勝れている、と。これはどうか。
答える。
毘廬遮那が無始無終であることは、華厳・浄名・般若等の諸大乗経にも説かれており、ただ大日経のみではない。
問うていう。
そうであるなら、五百塵点劫は際限があるので有始有終である。無始無終とは際限が無い。したがって法華経は諸経に破折されるがどうか。
答えていう。
他宗の人はこの義を懐いているが、天台宗でこの非難に対して理論的に説明できる者はいないのではないか。いま大日経並びに諸大乗経で説く無始無終は法身の無始無終であり、三身の無始無終ではない。法華経の五百塵点劫は諸大乗経が破折しなかった伽耶城近くで始めて成道したという教えを破った五百塵点劫の成道である。大日経等の諸大乗経には全くこの義は説かれていない。宝塔の涌現・地涌の菩薩の涌出・弥勒の疑い・寿量品の最初の三誡四請・弥勒菩薩が領解した文の「仏は希有の法を説かれた。昔より未だかつて聞いたことのない法である」等の文がこれである。大日経六巻並びに供養法の巻・金剛頂経・蘇悉地経等の諸の真言部の経の中に、いまだ三止四請・三誡四請や、二乗が未来に成仏するときの劫や、国・名号・難信難解等の文を見たことがない。
問うていう。
五乗の真言はどうか。
答える。
いまだ二乗の真言を知らない。四諦・十二因縁の梵語があるだけである。また法身平等に会入することはない。
問うていう。
慈覚・智証等が理同事勝の義を認めているのに、(あなたが)どうしてこれらの大師等より過ぎることがあるのか。
答えていう。
人をもって人を非難するのは仏が戒めている。なぜあなたは仏の戒めに違背するのか。ただ経文をもって勝劣の義をあらわすべきである。
難じていう。後世の弟子でありながら、祖師の言葉に背いているのでそのことを非難するのである。
答える。後世の弟子が祖師に違背するということを非難するのであれば、どうして智証や慈覚が天台・妙楽に違背することを非難しないのか。
問うていう。
相違しているのはどこか。
答えていう。
天台大師や妙楽大師の趣意は、已今当の三説の中に法華経より勝れた経はなく、もし法華経より勝れた経があるというのならば、一宗の宗義を壊ることになると考えられていた。もし大日経が法華経よりも勝れているというならば、天台大師や妙楽大師の宗義をまさに破ることになる。
問うていう。
天台大師や妙楽大師の已今当の宗義の証拠は経文にあるのか。
答えていう。
ある。
法華経法師品にこうある。
「わたしが説くところの経典は無量千万億あり、すでに説き今説きまさに説こうとしている。しかもその中においてこの法華経が最も難信難解である」
この経文のとおりであるならば、五十年余りにわたり釈迦が説いた一切経の中では法華経が最第一である。
難じていう。
真言師はいう「法華経は釈迦が説いた一切経の中で第一なのである。大日経は大日如来が説かれた経である」と。
答えていう。
釈迦如来以外に大日如来がこの世界で八相成道して大日経を説いたのか[これが一]。
六波羅蜜経には「過去・現在並びに釈迦牟尼仏の説くところの諸経を分けて五蔵としたとき、その中の第五の陀羅尼蔵は真言である」と説いている。真言の経は釈迦如来が説いたものではないというなら、経文に違背している[これが二]。
「我所説経典」等の文は、釈迦如来が正直に方便を捨てて説いたものであり、大日如来が証明し、分身の諸仏の広長舌相によって裏付けられた経文である[これが三]。
五仏の教化を説いた段では、諸仏はすべて法華経が第一であると説かれている[これが四]。 「要点をとっていうならば、如来の一切の所有の法[中略]はすべてこの経において宣べ示し説き顕わされている」等とある。この経文のとおりであるなら、法華経は釈迦が説かれた諸経の第一となるだけではなく、大日如来や十方無量諸仏が説いた諸経の中でも法華経が第一である。このほかに一仏・二仏が説いた諸経の中で法華経よりも勝れた経があるといっても信用できない[これが五]。
大日経等の諸の真言経の中に法華経より勝れているなどと説いた経文はない[これが六]。
仏以外のインド・中国・日本国の学者や人師の中で、天台大師以外の人師の釈の中に一念三千の名目はない。もし一念三千を立てないならば性悪の義はない。性悪の義がなければ仏や菩薩が普く色身を現ずることや、不動明王や愛染明王等の降伏の形や、十界の曼荼羅や、三十七尊等は、本無今有といった外道の法と同じではないか[これが七]。
問うていう。
七義の中の一つ一つの難に反論したいが、六義はしばらく置く。
第七の義はどういうことか。華厳の澄観・真言の一行等は皆性悪の義を立てている。どうして諸宗にこの義は無いというのか。
答えていう。
華厳の澄観・真言の一行は天台大師が立てた義を盗んで自宗の義としたのではないか。この事は他所で考えた通りである。
問うていう。
天台大師の法華玄義の三にこうある。
「法華経はもろもろの経を総括している。[中略]舌が口の中でただれる。人の情をもってかの大空を区切ってはならない」
法華玄義釈籤の三にはこうある。
「法華経が根本の極理を説いたものであるということを了解せずに、声聞に記別を与えるという事相のみを説いているだけであり、華厳・般若の融通無礙という普遍的真理を説くものには及ばない、と思い、諌暁しても改めようとしない、この人の舌が爛れることは間違いない。[中略]已今当の深妙の義に対して、固く迷っている。舌が爛れて止まないことは、まだこれは現世で受ける報いである。謗法の罪苦は計り知れないほど長期間に渡る」等とある。もし天台・妙楽の釈が真実であるなら、南三・北七並びに華厳・法相・三論・東寺の弘法等の舌が爛れることには何の疑いもない。[中略]苦しみの流れは長劫の者であろう。これはしばらく置くとして、慈覚・智証等の親しくこの宗義を承けた者が、法華経は大日経より劣るという義を懐いている。もしその義ならばこの人々の「舌爛口中苦流長劫」はどうなるのか。
答えていう。
この義は最上の難の義である。口伝にある。