同志と共に

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報恩抄ほうおんしょう

老狐は塚をあとにせず、白亀は毛宝の恩に報いた。
畜生でさえこの通りである。まして人間はなおさらである。それ故、むかしの賢者で、予譲という者は剣を飲み込んで主君である智伯の恩に報いた。弘演という臣下は腹を割いて衛国の懿公イコウの肝を入れた。まして仏教を学ぶ者が、どうして父母・師匠・国などの恩を忘れてよいだろうか。これらの大恩に報いるには、必ず仏法を完全に習得し、智者となることで叶うのではないか。たとえば、目の不自由な人たちを導くとき、自分が見えなくては橋や川を渡すことはできない。方角や風が読めない大船は商人たちを導いて宝の山までいたることはできない。仏法を習って極めようと思うなら、時間がなければ不可能である。時間を作ろうと思うなら、父母・師匠・国主等に従っていては不可能である。いずれにせよ生死の苦悩から離れる方法がわからないときは、父母・師匠等の心に従ってはならない。
この考えに対して、人々は『これでは世間の道理からはずれ、神仏の教えにもかなっていない』と思うだろう。しかし、仏法以外の教えである孝経にも、父母や主君に従わないで忠臣や親孝行になることも説かれている。
内典の仏教にこうある。
「恩に応えることをやめ、覚りの境智に入るならば、真実の報恩の者である」
比干は王に従わず、賢人と称賛され、悉達太子は浄飯大王に背いて(出家した結果)世界一の親孝行の人となったというのはこのことである。このように考えて、(私も)父母・師匠等に従わずに、仏法を完全に習得するため全体を見渡したところ、釈尊の一代聖教を理解するための明らかな鏡は十種あった。
すなわち、倶舎・成実・律宗・法相・三論・真言・華厳・浄土・禅宗・天台法華宗である。
これらの十宗を偉大な師匠としてすべての経の心を知る必要がある。世間の学者等は"これらの十の鏡はみな正直に仏道の道を照している"と思っている。小乗の三宗はここでは触れない。庶民の手紙ではどのようなものであっても、外国へ渡るのに無意味だからである。大乗の七鏡こそ生死の大海を渡って、浄土の岸に至る大船であるから、これらを習い理解して自分の身も助け、人をも導こうと思った。しかし学んでいくほどに大乗の七宗にはどれもこれも自画自賛がある。自分の宗こそ釈尊一代の教えの核心をとらえたとらえたと言っている。いわゆる華厳宗の杜順・智儼チゴン・法蔵・澄観等、法相宗の玄奘・慈恩・智周・智昭等、三論宗の興皇・嘉祥等、真言宗の善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等、禅宗の達磨・慧可・慧能等、浄土宗の道綽・善導・懐感・源空等である。これらの宗はみな根本の経・根本の論によって、誰も彼もがすべての経を覚った、仏の本意を極めたと言っている。それらの人々は、『あらゆる経の中で華厳経が第一である。法華経や大日経等は臣下のようなものである』と言っている。
真言宗は『あらゆる経の中では大日経が第一である。その他の経は星のようなものである』という。
禅宗は『あらゆる経の中で楞伽経が第一である。以下その他の宗も同様である』という。
しかも上に挙げた人々を世間の人はそれぞれ重んじている。多くの神々が帝釈天を尊敬し、多くの星が太陽や月にしたがうようにである。我々凡夫はどの師であっても、信じるならば不足はない。尊敬して信じるべきであろうが、日蓮の疑問は晴れない。
世間を見れば、各々自分が自分がと言っているが、国の王はただ一人であり、二人になれば国土は騒がしい。家に主人が二人いればその家は必ず乱れる。あらゆる経もまた同じではないだろうか。いずれの経においてもただ一つの経のみがすべての経の大王である。
ところが、十宗、七宗までがそれぞれ対立して論争し互いに従うことがない。国に七人・十人の大王がいては国民は穏やかではない。どうすればよいかと迷ったが、一つの願いを立てた。私は八宗・十宗に従わず、天台大師が経文だけを師として、釈尊一代の経典の優劣を判断したように、あらゆる経を開いてみると、涅槃経という経にこうあった。
「法によって人に依ってはならない」
依法とはあらゆる経であり、不依人とは仏以外の普賢菩薩・文殊師利菩薩から上にあげるところの諸宗の学者である。
この経にまたこうある。
「了義経[釈尊が真意を説いた経]をよりどころとして、不了義経をよりどころにしてはならない」
この経が指すところの了義経とは法華経である。不了義経とは華厳経・大日経・涅槃経等の已今当[過去・現在・未来]のあらゆる経である。したがって仏の遺言を信じるならば、ただ法華経だけを明鏡としてあらゆる経の真意を知らなければならないのである。
この文にしたがって法華経の文を開くと「この法華経は諸経の中において最も上に在る」とある。
この経文のとおりであれば、須弥山の頂に帝釈天の住居があるように、また転輪聖王の頭上に如意宝珠があるように、また多くの木のこずえに月がかかるように、そして諸仏の頭上に肉がもりあがっているように、この法華経は華厳経・大日経・涅槃経等のあらゆる経の頂上にある如意宝珠なのである。
それゆえ、学者などに従わず経文によるのである。すると大日経・華厳経等より法華経が勝れているとわかる。それは太陽が青天に出現した時、物事の道理がわかる人には天地の上下がわかるように、経の優劣もはっきりとわかるのである。
また大日経・華厳経等のあらゆる経を見ると、この経文に似た経文は一字・一点もない。小乗経に対して勝劣を説いたり、俗世間の真理に対して仏法の真理を説いたり、空諦・仮諦に対して中道が優れていることを賞賛しているだけである。たとえば、小さな国の王が自分国の臣下に対して、自分は大王であるというようなものである。法華経は諸王に対して大王なのである。
ただ涅槃経には法華経に似た経文がある。そのため天台大師以前の南北の学者たちは迷って法華経は涅槃経より劣るとした。しかし経文を開いて見ると、無量義経のように華厳・阿含・方等・般若等の四十年余りの経々をあげて、これらと涅槃経を比較して涅槃経が勝れていると説き、法華経と比較する時は「この涅槃経が説かれたのは[中略]法華経の中で八千人の声聞が未来に成仏するという保証を授けられたことは、大きな果実が実ったようなものである。秋に収穫して冬に蔵に収めると、もう何もすることはないというようなものである。これは涅槃経は法華経に劣ると説いた経文である。
このように経文には明らかなのであるが、南北の偉大な智慧を持った多くの人が迷った経文であるから、末代の学者はよくよく注意しなければいけない。この経文はただ法華経・涅槃経の勝劣だけではなく、十方の世界のあらゆる経の勝劣もわかるのである。
しかし、経文に迷ったとしても、天台大師・妙楽大師・伝教大師が判定された後は、見ることができる人ならば、当然分かっているはずである。それなのに、天台宗の人である慈覚・智証すらこの経文をわかっていない。まして他宗の人はなおさらわかっていない。
ある人が疑っていう。
中国・日本にわたった経々に限れば、法華経より勝れている経はないとしても、インド・竜宮・四王天、日天・月天・トウ利天・都率天などにはガンジス河の砂の数ほどの経があるのだから、その中に法華経より勝れた経があるのではないか。
答えていう。
一事をもって万事を推察すべきである。
家から出ずに天下を知るとはこのことである。
愚か者は疑って言う。
"わたしは南の空を見て東西北の三つの空は見ていない。かの三方の空にはこの太陽と別の太陽があるかもしれない。山の向こう側に煙の昇るのが見えても、火を見ていないので煙は間違いないが火ではないかもしれない"
このようなことを言う者は一闡提の人と知りなさい。宗教を信じられないのである。
法華経の法師品には、釈迦如来が真実の言葉をもって、五十年余りのあらゆる経の勝劣を定めてこう説かれている。
「私が説く経典は無量千万億であり、すでに説き今説きまさに説くだろう。しかもその中でこの法華経は最も難信難解なのである」
この経文はただ釈迦如来一仏の説であったとしても、等覚の菩薩[最高位の菩薩]以下の人々は尊重して信じなければならない。そのうえ、多宝仏が東方から来て「真実である」と証明し、十方世界のあらゆる仏も集まって釈迦仏と同じように広く長い舌を梵天まで伸ばして正しさを証明し、その後それぞれの国へ帰られた。已今当の三字は五十年並びに十方の世界の三世の諸仏への経を、一字・一点も残さずに挙げて、法華経と比較して説かれたものである。
それに対して、十方世界のあらゆる仏がこの説法の場で保証のために署名されたのに、それぞれが自分の国に帰られてから、自分の弟子たちに向かって、法華経より勝れた経があったと説いたなら、その教えを受ける弟子等は信用するだろうか。
また自分は見ていないので、インド・竜宮・四王天、日天・月天の宮殿の中には法華経より勝れた経があるかもしれないと疑いを起こすなら、梵天・帝釈天・日天・月天・四天王・竜王は法華経の会座にいなかったのかと反論しなさい。もし日天・月天等の神々が、『法華経より勝れた経がある。あなたはしらないだけだ』などとおっしゃるならば、大うそつきの日天・月天であろう。
日蓮は責めていう。
日天・月天は大空にいらっしゃるが、私たちが大地にいるように、空から落ちてこられることがないのは、最高の不妄語戒の力によるのである。もし法華経より勝れた経があるというような大うそがあるのなら、恐らくはまだ壊劫[世界の壊滅]に至らないうちに、大地の上にどうっと落ちてこられるのではないか。(勢いは)無間地獄の最も下の堅い鉄でなければ止まらないであろう。大うそつきの人は一瞬の間も空にあって四天下を回ることはできない。
ところが、華厳宗の澄観等や真言宗の善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等の偉大な智慧の三蔵や大師等が『華厳経・大日経等は法華経より勝れている』と主張している。私たちの分際では判断できることではないが、大道理に基づいて考えると、どうして彼らが諸仏の大怨敵にでないことがあろう。提婆達多や瞿伽梨[提婆達多の弟子]でも及ばない。大天[父母・阿羅漢を殺した。その罪を滅するために出家したが、慢心を起こし教団を分裂された]・大慢婆羅門[大乗教を誹謗し生きながら地獄に堕ちた]とは彼らのことであろう。こんな人々を信じる輩はまことに恐ろしい。
問うていう。
華厳の澄観・三論の嘉祥・法相の慈恩・真言の善無畏をはじめとして、弘法・慈覚・智証等までも仏の敵といわれるか。
答えていう。
これは大いなる論難である。仏法に入って最大の問題である。
愚眼をもって経文を見ると"法華経より勝れた経がある"という人は、たとえどのような人であっても謗法は免れないと説かれている。したがって経文のとおりに申しあげるなら、どうしてこれらの人々が仏敵でないことがあろう。
もしまた、恐れて指摘しないならば、あらゆる経の勝劣は無いも同然である。
またこれらの人々を恐れて、末の人々を仏敵と言おうとすれば、その宗派の末の人々は『法華経よりも大日経が優れているというのは、個人的な考えではない。祖師の教えである。戒を破るかたもつか、智慧が勝れているか劣っているか、身分の上下はあっても学ぶ法門は宗祖と違うことはない』と言う。それらの人々には罪はない。
また日蓮がこれを知りながら、人々を恐れて言わなければ「寧喪身命・不匿教者(むしろ身命を失っても教えを隠してはならない)」との仏陀の諌暁を用いない者となってしまう。どうすればよいか。言おうとすれば世間の迫害が恐ろしい。やめようとすれば仏の諌暁から逃れ難い。進退はここに極まった。
しかしこうなるのは当然なのである。
法華経の文にこうある。
「しかもこの経は釈尊の存命中においてもなお怨嫉が多い。まして入滅した後はなおさらである」
またこうある。
「世間のあらゆる人が反発し、信じることは難しい」
釈迦仏を摩耶夫人が懐妊されたとき、第六天の魔王は摩耶夫人のお腹を透視して考えた。
『われらの大怨敵である法華経という利剣をみごもった。生まれる前にどうにかして亡き者にできないか』
そこで第六天の魔王は名医に変身して浄飯王の宮殿に入り声をあげた。
『安産の良薬を持っている名医がいます』
そして毒を后に差し上げた。
また、生まれた時には石を降らし、乳には毒を混ぜた。出家して城から出られたときには、黒い毒蛇に変身して道をふさいだ。その他、提婆達多・瞿伽利・波瑠璃王・阿闍世王等の悪人の身に入って、大石を投げて仏の御身より血を出させたり、釈迦族を殺したり、弟子等を殺した。
これらの大難はすべて第六天の魔王が、釈尊に法華経を説かせないでおこうとたくらんだことで、「如来現在・猶多怨嫉」の大難にほかならない。これらは間接的な難である。直接の難について言うと、舎利弗・目連や多くの大菩薩等も四十年余りの間は法華経の大怨敵であったということが含まれよう。
「況滅度後(まして亡くなった後はなおさらである)」といって、未来の世には、またこの大難よりもいっそう恐ろしい大難があるだろうと説かれている。仏でも耐え難い大難を凡夫がどうして耐えられるだろうか。まして在世中より激しい大難だという。「どのような大難が、提婆達多が投げた長さ三丈・広さ一丈六尺の大石や、阿闍世王が放った酔った象を超えるだろうか」と思われるが、それ以上であるという。 したがって、過失がないのに大難にたびたびあう人こそ、釈尊が亡くなった後の法華経の行者と分かるのである。
付法蔵の人々[釈尊から付嘱された教えを次々に付嘱していった弟子]は四依の菩薩であり、仏の使いである。提婆菩薩は外道に殺され、師子尊者は檀弥羅王に首を刎ねられ、仏陀密多は12年間・竜樹菩薩7年間、(国王を正法に導くために)赤旗を掲げ続けた。馬鳴菩薩は金銭三億の代わりとなって敵国に赴き、如意論師は対論の場で不当に負けを宣告され自決した。これらは正法時代一千年の間のことである。
像法時代に入って五百年、仏が入滅して一千五百年という時に、中国に一人の智慧者がいた。はじめは智と名乗り、後には智者大師と呼ばれた。法華経の教えをありのままに弘通しようと思われた。天台大師以前には百千万人の智慧ある人々が、様々に釈尊一代の教えを整理したが、煎じるところ十流派となった。いわゆる南三北七である。十流派あったけれども、そのうち一流派が最も支持された。すなわち南三の中の第三の光宅寺の法雲法師である。
この人は釈尊一代の仏教を五つに分けた。その五つの中から三経を選び出した。いわゆる華厳経・涅槃経・法華経である。『あらゆる経典の中では華厳経が第一であり、大王のようなものである。涅槃経は第二であり、摂政・関白のようなものである。第三の法華経は貴族のようなものである。これら以下は庶民のようなものである。』といった。
この人はもともと智慧が優れ、そのうえ慧観・慧厳・僧柔・慧次などといった偉大な智慧者より学び、教えを継承しただけではなく、南北の諸師の主張を破折し、山の中に隠棲して法華経・涅槃経・華厳経を研究した。梁の武帝は彼を召し出して、宮内に寺を立て光宅寺と名付けてこの法師を崇められた。法華経を講義すると、天から花が釈尊が在世のときのように降った。天鑒五年に大旱魃があった時、この法雲法師を請じて法華経を講義していただいた。すると薬草喩品の「其雨普等・四方倶下(その雨は等しく四方すべてに降る)」という二句を講義されたとき、天から恵みの雨が降ってきた。皇帝は感動のあまりその場で僧正に任命して、多くの神々が帝釈天につかえたり人民が国王を恐縮するように自らも仕えた。そのうえ、ある人は『この人は過去の日月灯明仏の時から法華経を講義している人である』と夢に見たという。
その著書に法華経の注釈書が四巻あり、その中で"この経はいまだ十分ではない"などや"別の方便"などと言っている。間違いなく法華経はまだ仏の教えを極めていない経であると書かれたのである。
この人の主張が仏意に叶ったからこそ、天より花も降り雨も降ったのであろう。このように見事なことであったので、中国の人々が『やはり法華経は華厳経・涅槃経より劣るのだ』と思っただけではなく、新羅・百済・高麗・日本までこの注釈書がひろまり、大体みな同じ意見であった。この法雲法師が死去されてそれほど経っていないとき、梁の末・陳の初めに智法師という一介の僧が現れた。
南岳大師という人の弟子であったが、師匠の教えを不審に思ったので、あらゆる経を収めた蔵に入ってたびたびご覧になった。そして華厳経・涅槃経・法華経の三経を選び出して、この三経の中では特に華厳経を講じられた。わざわざ讃嘆する文章をつくって日々修行をされたので、世間の人は『この人も華厳経を第一と考えるのか』と思ったが、法雲法師があらゆる経の中で華厳第一・涅槃第二・法華第三と立てたことをあまりにも不審と思い、華厳経を特にご覧になっていたのである。
こうしてあらゆる経の中では、法華第一・涅槃第二・華厳第三と見定められて、このように嘆かれた。
「釈尊の聖教は中国に伝来したが、人を利益することがない。かえってあらゆる衆生を悪道に導びいている。それは学者の誤りによるものである。例えをいえば、国の支配者である人が、東を西と言い、天を地と言い出せば、一般の人々はそのように心得るだろう。後に身分の低い人が現れて、君たちは西は東だといっている。君たちは天を大地だといっている、と言っても信用しないうえ、自分たちの支配者の思いに合わせるために、この人を誹謗したり暴力をふるうに違いない。どうしたものか」
このように思案されたが、そのまま黙ってもおれないので、光宅寺の法雲法師は謗法によって地獄に堕ちた、と強く訴えた。その時、南三北七の学者は蜂の巣をつついたように騒ぎ、烏のように烏合した。
智法師の頭を割るべきか、国から追放すべきか、などと騒いだので、陳の国王はこれを聞かれて、南三北七の数人と智法師を召し合わせた。そして国王自らも同席して法論をお聞きになった。
法雲法師の弟子等の慧栄・法歳・慧曠・慧ゴウなどという僧正・僧都以上の人々が集まり、百人余りとなった。
それぞれ悪口を言うばかりで、眉をつりあげ眼をいからせて、手を振り上げ鳴り物を鳴らした。
しかし智法師は末座に座り、顔色も変えず、言葉も間違うことなく、礼儀正しく物静かに諸僧の言葉を一つ一つを書きつけ、その言葉ごとに反論した。
このように反論・批判して言われた。
「そもそも法雲法師が、その教えで第一は華厳・第二は涅槃・第三は法華と立てられた根拠となる証文はどの経か。明確な証文を出していただきたい」
こう責めたところ、それぞれ顔を下に向けて顔色を失い、一言も返事はなかった。
さらに責めて言われた。
「無量義経にはっきりと"次説方等十二部経・摩訶般若・華厳海空等(次に方等十二部経・摩訶般若・華厳海空を説いて)"とある。仏自ら華厳経の名を挙げて、無量義経に対して(華厳経は)"未顕真実(いまだ真実を顕していない)"と打ち消されている。法華経より劣る無量義経に華厳経は責められているが、どう心得られて華厳経が釈尊一代では第一であるとされたのか。それぞれ師匠の味方をしようと思われるなら、この(無量義経の)経文を破折して、これより勝れた経文を取り出して師匠の主張を補足しなさい」
またさらに責めた。
「涅槃経が法華経より勝れるというのはどの経文か。涅槃経の第十四には、華厳時・阿含時・方等時・般若時を挙げて、涅槃経に対しての勝劣は説かれているが、法華経と涅槃経との勝劣はまったくと説かれていない。その前の第九巻には、法華経と涅槃経の勝劣が明らかにされている。いわゆる経文に「この経が説かれたのは[中略]法華経の中で八千人の声聞が未来に成仏するという保証を受けたことは大果実が実ったようなものである。秋に収穫して冬に蔵に収め、それを終えればもうなにもすることはないようなものである」
この経文は明らかに諸経を春夏と説き、涅槃経と法華経を果実の位と説いているけれども、法華経については秋の収穫を冬蔵に収める大果実の位であり、涅槃経は秋の末・冬の初めの落穂ひろいの位と定められている。この経文はまさしく法華経に我が身(涅槃経)は劣ると認めているのである。
法華経の文で"已説・今説・当説"といって、この法華経は、以前に説いた経と同じ時期に説いた経よりも勝れているだけではなく、これから説く経にも勝ると仏は定められている。
すでに教主釈尊がこのように定められた以上疑うべきではない。しかし、自らが亡くなった後はどうなるかと心配して、東方の宝浄世界の多宝仏を保証人に立てられた。多宝仏は大地から躍り出て『妙法蓮華経はすべて真実である』と証明された。十方世界の分身の諸仏は重ねて集まられて、広く長い舌を大梵天まで伸ばした。また教主釈尊も同様に伸ばされた。その後、多宝仏は宝浄世界へ帰られ、十方世界の諸仏もそれぞれの国土に帰られた。そんな多宝仏や十方世界の諸仏もおられないところで、教主釈尊が涅槃経を説いて『涅槃経は法華経より勝れている』と仰っても弟子たちは信用するだろうか」
太陽や月の大光明が修羅の眼を照らすように、漢の王の剣が諸侯の首に当てられているように、その場の人々は両眼を閉じてうつむいていた。
天台大師の様子は、師子王が狐や兎の前で吼えるかのようであった。また鷹や鷲が鳩や雉を責めているようであった。
このような状況から、やはり法華経は華厳経や涅槃経より優れているのだ、と中国中に広まっただけではなく、全インドまでも伝わり、インドの大乗・小乗の諸論も、智者大師の教えには勝てず、教主釈尊が再び出現されたのか、仏の教えが二度現れたのか、と讃嘆された。
その後、天台大師も亡くなられ、陳や隋の時代も代わり、唐の時代となった。章安大師も亡くなられた。
こうして天台大師の仏法が次第に廃れていったとき、唐の太宗の時代に玄奘三蔵という人が、貞観三年に初めてインドに入り、同十九年に帰国した。彼はインドの仏法を全て学びつくして法相宗という宗をもたらした。この宗は天台宗とは水と火のように相容れない。しかも天台大師が御覧にならなかった深密経・瑜伽論・唯識論等を伝えて、法華経はあらゆる経よりは勝れているが、深密経には劣るといった。
それに対し、天台の学者等は智慧が浅かったのだろうか。天台大師が御覧にならなかったのだから、そうかもしれないと思った。
また太宗は賢王であり、玄奘への帰依は大変深かった。したがって言わなければならないことは多くあったけれども、世の常として、時の権勢を恐れていう人はいなかった。
法華経を覆して、三乗こそ真実である。一乗しかないというのは方便である。衆生の素質は五つに別れる、などといわれることはつらい事であった。インドから伝わったとはいうものの、インドの仏教以外の思想が中国に渡ったのか。
法華経は方便であり、深密経は真実であるといったので、釈迦・多宝仏・十方世界の諸仏の真実の言葉も、かえって意味のない言葉となり、玄奘・慈恩こそが当時の生身の仏ということになった。
その後、則天皇后の時代に、天台大師に批判を受けた華厳経に加えて、新訳の華厳経が伝えられると、以前のうらみを果たそうとして、その新訳の華厳経で天台大師に破折された旧訳の華厳経を補強した。そして華厳宗という宗を法蔵法師という者が立てたのである。
この宗は、華厳経は根本法輪であり、法華経は枝末法輪であるとした。
南三北七は"華厳第一・涅槃第二・法華第三"とし、天台大師は"法華第一・涅槃第二・華厳第三"とした。しかしこの華厳宗は華厳第一・法華第二・涅槃第三"としている。
その後、玄宗皇帝の時代に、インドから善無畏三蔵が大日経・蘇悉地経を伝え、金剛智三蔵は金剛頂経を伝えた。また金剛智三蔵に弟子がいた。不空三蔵である。この三人はインドの人で、生まれも高貴であるうえ、人がらも中国の僧とは違っていた。法門も内容もよくわからなかったが、後漢より今に至るまで存在しなかった、印と真言という事相を加えていて立派だったので、皇帝は礼拝し一般大衆も敬った。
この人々の主張はこうである。
「華厳・深密・般若・涅槃・法華経等の勝劣は顕教の内であり、釈迦如来の説の範囲である。今新たに伝わった大日経等は大日如来の勅言である。他の経々は庶民の万言であり、この経は皇帝の一言である。華厳経・涅槃経等は大日経にははしごを立てても及ばない。ただし法華経だけは大日経と相似する経である。しかしその経は釈迦如来の説であり、庶民が述べた正しい言葉である。この経は皇帝が述べた正しい言葉である。言葉は似ているが品性は雲泥の差がある。たとえば、濁った水に映る月と澄んだ水に映る月のようなものである。月の形は同じでも水に清濁の違いがある」
しかしこの主張を追求し、明らかにする人もいなかった。
諸宗は皆屈服して真言宗に傾いた。善無畏・金剛智が死去した後、不空三蔵はインドに帰って菩提心論という書を顕し、また中国に伝えた。ますます真言宗は盛んとなった。
そのとき妙楽大師という人がいた。天台大師から二百年余り後であるが、智慧の優れた人で、天台大師の解釈をよく理解した。
天台大師の解釈の趣旨からすれば、後に伝わった深密経や法相宗、また初めて中国で立てられた華厳宗・大日経真言宗よりも法華経は勝れている。ところが智慧が及ばなかったのか、人を恐れたのか、あるいは時の王の権勢を恐れたのか、そうした理由で言わなかったが、このままでは天台大師の正しい主張は失なわれてしまう。(これらの宗は)また陳・隋以前の南三北七の間違った教えよりもひどい教えであると考えて、三十巻の注釈書を著された。いわゆる、止観輔行伝弘決・法華玄義釈籤・法華文句記である。
この三十巻の文は元となる書と重なる部分を削り、説明が不十分であるところを補強した。それだけではなく、天台大師の時代にはなかったため、破折から逃れられたような法相宗と華厳宗と真言宗なども一度に打ち砕いた書である。
また日本には、第三十代欽明天皇の時代、十三年壬申ミズノエサル十月十三日に百済国からあらゆる経典と釈迦仏の像が伝来した。また用明天皇の時代に聖徳太子が仏法を学びはじめ、和気妹子という臣下を中国に派遣して、太子が前世で所持したいたという一巻の法華経を取り寄せて持経[常に手元において学ぶ経典]と定めた。その後、第三十七代孝徳天王の時代に三論宗・華厳宗・法相宗・倶舎宗・成実宗が伝わった。第四十五代聖武天王の時代には律宗が伝わった。以上で六宗である。孝徳天皇より五十代の桓武天皇に至るまでの十四代・百二十年余りの間には天台・真言の二宗はない。
桓武天皇の時代に最澄という一僧侶がいた。山階寺[興福寺]の行表僧正の弟子であった。法相宗をはじめとして六宗を完全に習得した。しかし仏法をいまだ極めたとは思えなかったので、華厳宗の法蔵法師が著した大乗起信論の注釈書を見ると、天台大師の解釈が引用されていた。この注釈書には特別なことがあるようだった。しかし日本に伝わっているかどうか不明であったので不審に思い、ある人に尋ねると、その人はこう言った。
「大唐の揚州・竜興寺の僧である鑒真ガンジン和尚は、天台の学者であり道暹律師の弟子である。天宝の末に日本に渡り小乗の戒を弘通したが、天台の注釈書を持って来ていながら広められなかった。第四十五代聖武天王の時代である」
(最澄が)その書を見たいと言うので、取り出して見せたところ、一度ご覧になっただけで生死の苦悩についての迷いが消えた。この書によって六宗の趣旨を究明したところ、一つ一つが間違った教えであることが判明した。すぐに誓願を立てて、日本の人はみな謗法の者の支援者である、天下は必ず乱れると思って、六宗を批判した。すると七大寺や六宗の碩学は蜂起して都に寄り集まり、国中は大騒ぎとなった。七大寺や六宗の人々は悪心が盛んとなった。
そして延暦二十一年正月十九日に、天皇が高雄山寺においでになった。そのとき七寺の碩徳十四人、善議・勝猷・奉基・寵忍・賢玉・安福・勤操・修円・慈誥・玄耀・歳光・道証・光証・観敏等の十人余りを呼び出した。華厳・三論・法相等の人々は、それぞれ自分の宗の元祖の教えと同じ主張をした。最澄上人は六宗の人々の主張を一つ一つ書きつけて、根本となる経や論書、並びに諸経・諸論と照らし合わせて批判した。すると、[七寺の碩徳十四人は]一言も答えず、口が鼻のようになってしまった。
天皇は驚いて、詳しくお尋ねになり、再度勅宣を下して十四人を批判した。彼らは承伏の謝表を差し出した。その書にこうある。
「七箇所の大寺六宗の学者は、[中略]初めて仏法の淵底を悟った」
またこうある。
「聖徳太子が仏法を宣揚して以降、今に至る二百年余りの間、講義された経論の数は多い。それぞれが自らが正しいと主張し、その疑問はまだ解けていない。しかも、この最も深遠な教えである円宗はいまだ闡揚していない」
またこうある。
「三論宗と法相宗の長年の論争は跡形もなく氷のように解け、晴れ晴れとしてついに明瞭となった。ちょうど雲が晴れて太陽や月・星が見えるようである」
最澄和尚サイチヨウカシヨウは十四人の法門を判断してこう述べた。
「それぞれが法華経を一巻ずつ講義した。説法の声を深い谷に響かせ、客も主人も三乗の道を徘徊し、法門の旗を高い峰に翻した。長老も幼児も三有の結[欲界・色界・無色界の煩悩]を打ち砕いたが、いまだ歴劫修行の轍を改めず、大白牛車と牛車を門の外と内で混同したいる。どうして初発心の位に昇り、阿アから荼ダまでを法門の火宅の中で覚ることができるだろう」
和気広世と和気真綱の二人の臣下はこう述べた。
「霊鷲山で説かれた妙法を南岳で拝聴した。施陀羅尼[凡夫の執着を空の理法へと向けさせる智慧の力]を発揮した深遠な覚りを天台山で聞いた。一乗の妙法が権教に妨げられていることを嘆き、三諦[諸法の実相を三つの側面からとらえたもの]の法門が世間に明らかにされていないことを悲しむ」
また十四人はこう述べている。
「善議等は過去世の縁にひかれて幸運な世に生まれあわせ、希有の言葉に接することができた。過去世の縁が深くなければどうしてこのようなすばらしい世に生まれることができるだろうか」
この十四人は、華厳宗の法蔵・審祥シンジヨウ、三論宗の嘉祥・観勒カンロク、法相宗の慈恩・道昭、律宗の道宣・鑒真等の中国・日本の元祖等の法門を、まるで瓶は変わっても水は一つであるように受け継いできた。ところがその十四人が、それぞれの誤った考えを捨てて、伝教大師の法華経に帰依したうえは、末代の誰が"華厳・般若・深密経等は法華経より勝れている"ということができるだろう。小乗の三宗はまた彼ら大乗の三宗の人々が学ぶものである。大乗の三宗が破れた以上は論ずるまでもない。ところがいまだに詳しい事情を知らない者は、六宗はまだ破られていないと思っている。たとえば、目の不自由な人が大空の太陽や月が見えず、耳の不自由な人が雷の音が聞こえないために、空には太陽や月はない・空に音はないと思うようなものである。
真言宗というのは、日本の第四十四代・元正天皇の時代に、善無畏三蔵が大日経を伝えた。そして弘通せずに中国へ帰っていった。また玄ム等が大日経義釈十四巻を伝えた。さらに東大寺の得清大徳ももってきた。これらを伝教大師はご覧になっていたのだが、大日経と法華経の勝劣はどうなのかと思っていたところ、あれこれ不審な点があったため、さる延暦二十三年七月に入唐された。そして西明寺の道邃和尚ドウズイカシヨウ・仏隴寺ブツロウジの行満等に会われて、止観と円頓の大戒を伝受し、霊巌寺の順暁和尚ジユンギヨウワジヨウに逢われて真言を相伝し、同延暦二十四年六月に帰国して桓武天王に対面された。天皇は宣旨を下して六宗の学者に止観と真言を習わせ、彼らを七大寺に置かれた。
真言と止観の二宗の勝劣は、中国では様々な異論がある。また大日経義釈には「理同事勝[説かれている法理は同じであるが実践法などは大日経がすぐれる]」と書かれている。伝教大師は『善無畏三蔵の誤りである。大日経は法華経より劣る』と理解されたので、八宗とはされずに真言宗の名を削って法華宗の中に入れ七宗とし、大日経は法華天台宗の補助的な経典であるとして、華厳・大品・般若・涅槃等と同列とした。
しかし、円頓の大乗別受戒の大戒壇という重大なものを我が国に建てる・建てないという論争が起こっていたからか、真言・天台の二宗の勝劣を弟子にもはっきりと示されなかった。ただし依憑集という書にはまさしく『真言宗は法華天台宗の正しい教えを盗み取って大日経に入れ、理は同じとしている。したがって、かの宗は天台宗に屈服した宗である』と書かれている。
まして不空三蔵は善無畏・金剛智が亡くなった後、インドに帰り竜智菩薩に会われた。この時、『インドには仏の真意を明らかにした論や釈がありません。中国の天台という人の釈こそ、邪正を立て分け、何が偏頗な教えで何が円満な教えであるかを明らかにした書物です。恐れ入りますがどうかインドへお伝えください』と丁寧に頼んだ。この事を不空の弟子・含光という者が妙楽大師に語ったということが、法華文句記の十巻の末に記されているが、それをそのまま依憑集に引用されている。法華経よりも大日経は劣るということをご存じであったという伝教大師の考えが明瞭である。
したがって、釈迦如来・天台大師・妙楽大師・伝教大師のお考えは、一同に大日経などのあらゆる経の中では、法華経が最も優れているとされていた事は明らかである。また、真言宗の元祖といわれる竜樹菩薩の考えも同じである。大智度論をよくよく調べるとこの事は明白であるが、不空が誤りを交えて訳した菩提心論に皆だまされてこの事に迷っている。
また、石淵イワブチの勤操ゴンゾウ僧正の弟子に空海という人がいた。後に弘法大師と呼ばれる。去る延暦二十三年五月十二日に入唐した。中国に渡って金剛智・善無畏の両三蔵から数えて三代目の弟子である慧果和尚ケイカワジヨウという人から両界[胎蔵界・金剛界]を伝受した。そして大同二年十月二十二日に帰国、平城ヘイゼイ天皇の時代であった。桓武天王は既に崩御されていた。平城天皇に見参したところ、ことのほか用いられて天皇は帰依された。しかし平城天皇はほどなく嵯峨天皇に取ってかわられたので、弘法はひきこもった。しかし伝教大師が嵯峨天皇の時代・弘仁十三年六月四日に入滅され、同じく弘仁十四年から弘法大師は天皇の師匠となって真言宗を立て東寺を与えられ、真言和尚と呼ばれた。これより八宗が始まった。
(弘法は)釈尊一代の教えの勝劣を検討し、真言大日経が第一・華厳が第二・法華・涅槃等は第三である。法華経は阿含・方等・般若等に対すれば真実の経であるが、華厳経・大日経に対すれば内容のない教えである。教主釈尊は仏ではあるが、大日如来に対比すれば無明に覆われた境涯であるとして、皇帝と俘囚フシユウ[律令国家に帰伏した東国の者]のようなものである。天台大師は盗人である。真言の醍醐を盗んで法華経を醍醐といった、などと書いて、尊い教えであると思われる法華経など弘法大師にかかると物の数ではないという。これはインドの仏教以外の思想はさて置き、中国の南三北七の学者が、法華経は涅槃経に対すれば間違った考えの経であると言ったことを上回り、華厳宗が法華経は華厳経に対すれば枝末の教えであると言ったことをも超越している。例えば、かのインドの大慢婆羅門が、大自在天・那羅延天ナラエンテン・婆籔天バステン・教主釈尊の四人を高座の足に彫り、そのうえにのぼってさかしまな法を弘めたようなものである。伝教大師がもし御存命であったなら、必ず一言あったに違いない。また義真・円澄・慈覚・智証等もどうして不審に思わなかったのだろう。これは天下第一の大凶である。
慈覚大師は去る承和五年に入唐した。中国で十年間天台・真言の二宗を学んだ。法華経・大日経の勝劣を習ったところ、法全ハツセン・元政ゲンジヨウ等の八人の真言師には"法華経と大日経は理同事勝である"といわれた。天台宗の志遠・広修・維ケン等に習ったときには、"大日経は方等部に分類される"といわれた。同じ承和十三年九月十日に帰国した。
嘉祥元年六月十四日に宣旨が下った。法華経・大日経等の勝劣を中国では判明できなかったのか、金剛頂経疏七巻と蘇悉地経疏七巻の十四巻を著した。この注釈書の趣旨は、大日経・金剛頂経・蘇悉地経の教えと法華経の教えは、その究極の理は同じであるが、事相である印と真言は真言の三部経のほうが勝れているというものである。これは単に善無畏・金剛智・不空の著した大日経疏の趣旨のようなものである。
しかし、自分の心にまだ不審が残っていたのか、また心では納得したけれども、他の人々の不審を晴らそうと思われたのか、この十四巻の注釈書を御本尊の前に置いて祈った。"このように書いてみましたが、仏の意思がわかりません。大日の三部のほうが勝れているのでしょうか。法華経の三部のほうが勝れているのでしょうか"と祈念したところ、五日目の夜明け前ににわかに夢を見た。青天に太陽が輝き、矢でこれを射たところ、矢は飛んで天にのぼり、太陽に刺さった。太陽は動転して大地に落ちると思った瞬間目が覚めた。慈覚大師は喜んで"私に吉夢があった。法華経より真言のほうが勝れていると書いた書は仏の考えに叶ったいた"と言って、天皇にお願いして宣旨を下していただき、日本中に弘通した。しかも宣旨の趣旨として「ついに知ることができた。天台の止観と真言の法義とは深い次元で一致する」と言った。祈請の趣旨からすると、大日経より法華経は劣るようであるが、宣旨をお願いしたときには、法華経と大日経は同じといっている。
智証大師は、この日本においては義真和尚・円澄大師別当・慈覚等の弟子である。顕・密の二道はほぼこの国で学ばれた。天台・真言の二宗の勝劣について不審があったのか中国へ渡られた。去る仁寿二年に入唐し、中国では真言宗は法全・元政等に学ばれた。おおむね大日経と法華経は理同事勝であると、慈覚の主張と同じようであった。天台宗は良ショ和尚から学んだが、真言・天台の勝劣について、大日経は華厳・法華等には及ばない、であった。七年間中国で過ごされ、去る貞観元年五月十七日に帰国した。大日経指帰で"法華経は大日経にも及ばない。ましてその他の教えについては"といっている。この釈では法華経は大日経より劣るという。また授決集では"真言や禅宗[中略]もし華厳・法華・涅槃等と比較すれば人々を真理へと導く教えであり、真理そのものではない"といっている。普賢菩薩行法経記・法華論記には"法華経と大日経は同じである"といっている。
貞観八年丙戌ヒノエイヌ四月二十日壬申ミズノエサルに勅宣を下していわれた。
「聞くところによれば真言と止観という二つの教えを立てる天台宗では、どちらも最高の醍醐味と称し、どちらも深秘といっている」
また六月三日の勅宣でこういわれた。
「先師は既に止観業・遮那業を開いて、それを我が道の修行法とした。代々の座主はみな相承して両方を伝えないはずはない。どうして後の人々が古くからの事蹟に背いてよいものか。聞くところによれば、比叡山の僧等はもっぱら先師の教えに背いて片方に執着する心を起こしているという。先師の教えを宣揚して古くからの実践を興隆させることを顧みることがないようである。そもそも師匠から弟子へと相承する修行は、どちらかひとつでも欠けてはならない。法を伝え弘める者の勤めとして、どうして両業を兼ね備えないでよいものか。今より以後は両方の教えに通達した人を延暦寺の座主として立て恒例とせよ」
そのために、慈覚・智証の二人は伝教・義真の弟子であり、中国に渡っては天台と真言の勝れた師にあっていたけれども、二宗の勝劣は決められなかったのだろう。真言が勝れていると言ったり、法華経が勝れていると言ったり、あるいは理同事勝等と言った。宣旨をいただいたときには、二宗の勝劣を論ずる人は違勅の者と戒めている。これらはすべて自語相違と言うほかはない。他宗の人は到底信用しないであろう。
ただし、二宗が等しいということは、先師伝教大師の主張であると宣旨に引用されている。いったい伝教大師がどの書に書かれたのか。このことはもっとよく調べてみるべきである。
日蓮が慈覚・智証がいう伝教大師のことについて不審を述べると、親に対して年齢を競ったり、太陽とにらめっこをするようなことである。慈覚・智証の味方をするような人々は明らかな証文を用意しなければならない。要するに、真実を見極めるためである。玄奘三蔵はインドにある婆沙論を見た人である。しかしインドに行っていない宝法法師に破折された。法護三蔵はインドの法華経を見たけれども、[彼の訳による]嘱累品の位置について、法華経を見たことがない中国の人に誤りであると言われた。たとえ慈覚が伝教大師にお会いして学び伝えたと言い、智証が義真和尚から口伝されたと言っても、伝教・義真が実際に書いたものと相違するなら。どうして不審を抱かないでおられよう。
伝教大師の依憑集エビヨウシユウという書は大師第一の秘書である。
その書の序文にこうある。
「新たに渡来した真言宗は筆受[経典を漢訳する際言葉を記録するひと]の相承をなかったことにし、古くから渡来していた華厳宗は影響を受け軌範としたことを隠し、空の教えにはまっている三論宗は弾訶された屈辱を忘れ、称心精舎に心酔したことを隠している。有の法門に執着する法相宗は撲揚の帰依を否定し、青竜寺が『仁王経疏』に基づいたことを無視している。
そしてそのあとにこうある。
「謹んで依憑集の一巻を著わして、私と心を同じくする後の哲人に贈る。時に第五十二代・弘仁七年丙申ヒノエサルの年である」
そのあとの本文にはこうある。
「インドの名僧が『大唐にある天台の教えは、最もよく邪正を区別している』と聞いて、どうしても学びたいので訪問した」
そのあとにはこうある。
「インドで仏法が失われたために、四方の国に求めている証拠ではないか。しかしこの中国には見識のある者は少ない。(孔子の偉大さを知らない)魯国の人のようである」
この書は法相・三論・華厳・真言の四宗を批判した文である。天台・真言の二宗が同じ一味ならどうして批判することがあろうか。しかも不空三蔵等を魯国の人のようである、などと書かれている。善無畏・金剛智・不空の真言宗が素晴らしいものであるなら、どうして魯国の人などと悪口を言うだろう。またインドの真言が天台宗と同じものであるなら、また勝れているなら、インドの名僧が不空に天台の教えをもたらすよう頼み、インドには正法はないと言うだろうか。それはともかくとして、慈覚・智証の二人は、言葉では伝教大師の弟子であると言うが、心は弟子ではない。その理由は、この書にこうある。
「謹んで依憑集一巻を著わして、私と心を同じくする後の哲人に贈る」
『同我』の二字は真言宗は天台宗よりも劣ると学んではじめて『同我』なのである。
自ら申し出て下していただいた宣旨にこうある。
「もっぱら先師の教えに背き、執着する心を起こしている」
またこうある。
「そもそも師匠から弟子へと相承する修行は、どちらかひとつでも欠けてはならない」
この宣旨に従えば、慈覚・智証こそは先師に背いてばかりいる人々ということになる。こう責めることも恐れ多いけれども、これを責めなければ大日経と法華経の勝劣が覆されてしまうと考え、命を懸けて責めるのである。この二人の人々が弘法大師の間違った主張を責めなかったのは、ごく当然だったのである。それゆえ、二人は食糧を食べつくし、人に面倒をかけて中国へ渡るよりは、本師・伝教大師の教えをもっとよく勉強したほうがよかったのではないか。
したがって、比叡山の仏法はただ伝教大師・義真和尚・円澄大師の三代のみであろう。天台座主はすでに真言の座主になってしまった。名と所領は天台山であるが、その主は真言師である。慈覚大師・智証大師は已今当の経文を無視した人である。已今当の経文を無視したのであるから、どうして釈迦・多宝仏・十方世界の仏の怨敵でないことがあろうか。弘法大師も第一の謗法の人であるが、この二人の言っていることはそれよりも道理にはずれた誤った主張である。それは水と火・天と地のように道理からはずれているが、用いる人はいなのでその誤った主張に影響はない。弘法大師の主張もあまりにも道理からはずれているので、弟子等が用いる事はない。事相[実践的側面]だけはその門流であるが、その教相[理論的側面]の法門は弘法の教えは口にだしにくいため、善無畏・金剛智・不空・慈覚・智証の教えなのである。慈覚・智証の教えこそ、真言と天台とは理では同じであるなどと説いているが、誰もがそうなのかと思っている。このように思うので、事相で優れているとする印と真言を採用して、天台宗の人々が画像・木像の開眼の仏事を自分たちの手に入れようとするため、日本はすべてが真言宗に転落して天台宗は一人もいないのである。
例えば、法師と尼・黒と青とは紛らわしいので、目が悪い人は見間違ってしまう。僧と男、白と赤は目が悪い人も迷わない。まして目がよく見える人はいうまでもない。慈覚・智証の主張は法師と尼、黒と青のようなものである。ゆえに智慧のある人も迷い、愚か者も誤り、この四百年余りの間に、比叡山・園城寺・東寺・奈良・五畿七道・日本全国・すべて謗法の者となってしまった。
そもそも法華経の第五にこう説かれている。
「文殊師利菩薩よ。この法華経は諸仏如来の秘密を収めたものである。諸経の中では最も上にある」
この経文の通りであるなら、法華経は大日経等のあらゆる経典の頂上に存在する正しい法である。そうであるのに善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等はこの経文をどのように理解しているのか。
法華経の第七にはこう説かれている。
「この経典を受持する者もまた同様である。あらゆる衆生の中においてまた第一である」
この経文の通りであるなら、法華経の行者は流れる河川の中では大海であり、あらゆる山の中では須弥山であり、あらゆる星の中では月天であり、すべての光明の中では大日天であり、転輪聖王・帝釈典・その他の王の中では大梵天王なのである。
伝教大師の法華秀句という書にはこうある。
「この経もまた同様である。[中略]あらゆる経法の中で最も第一である。この経典を受持する者もまた同様である。あらゆる衆生の中においてまた第一なのである。以上経文である」
その次ではこう述べている。
「天台が法華玄義で言うには…。以上玄義の文」
そして先の趣旨を説明してこう述べている。
「以下のことがわかる。他宗がよりどころとする経はまだ最第一ではない。その経を受持する者もまたいまだ第一ではない。天台法華宗がよりどころとする法華経は最第一であるから、法華経を受持する者もまた衆生の中では第一である。これは仏説である。どうして自画自賛であろう」
次に詳細は別に譲ることを述べてこうある。
「諸宗が天台をよりどころとしていることの詳細は具体的に別の書にある」
その依憑集にこうある。
「今我が天台大師は法華経を説き、法華経を解釈することにおいては、群を抜いてすぐれており、中国で並ぶ者はいない。如来の使いであることは明確である。讃嘆する者は福を須弥山のように高く積み、誹謗する者は無間地獄に堕ちる罪をつくる」
法華経・天台大師・妙楽大師・伝教大師の経釈の趣旨のとおりであるなら、今の日本には法華経の行者は一人もいない。
インドでは、教主釈尊は宝塔品においてあらゆる仏を集められて大地の上に列座させた。大日如来だけは宝塔の中の南の下座に座らせ、教主釈尊は北の上座に着かれた。この大日如来は大日経の胎蔵界の大日如来・金剛頂経の金剛界の大日如来の主君である。両部の大日如来を家来と定めた多宝仏の上座に教主釈尊は席をとられたのである。これがすなわち法華経の行者である。インドでは以上の通りである。
中国では、陳の皇帝の時、天台大師が南三北七を批判して勝利し、現身で大師となった。「群を抜いてすぐれており、中国で並ぶ者はいない」というのはこのことである。
日本では、伝教大師が六宗を批判して勝利し、日本ではじめて大師号を授けられ根本大師となられた。
インド・中国・日本でただこの三人だけが「於一切衆生中亦為第一(あらゆる衆生の中においてまた第一)」である。したがって、法華秀句にこうある。
「浅い教えは易しく深い教えは難しいとは、釈迦の判定である。浅い教えを捨てて深い教えに就くのは仏の心である。天台大師は釈迦に従って法華宗に力を添えて中国に広め、比叡山の一門は天台大師から相承を受けて法華宗に力を添えて日本に弘通した」
仏の入滅後一千八百年余りの間に、法華経の行者は中国に一人、日本に一人の以上二人である。釈尊を加えて以上の三人である。
中国の古典にこうある。
「聖人は一千年に一度出現し、賢人は五百年に一度出現する。黄河は上流で逕水・渭水という二つに流れを分けているが、五百年に一度片方が澄み、千年に一度両方が澄む」
こう言われているが、確かなことである。
ところが、日本は伝教大師の時、比叡山にだけ法華経の行者がおられた。義真・円澄は第一代・第二代の座主である。第一の義真は伝教大師に近い。第二の円澄は半分伝教の弟子で、半分は弘法の弟子である。
第三の慈覚大師は、はじめは伝教大師の弟子のようであった。四十歳で中国に渡ってから、名は伝教の弟子であり、その跡を継がれたが、法門は全く弟子ではない。しかし円頓だけは弟子であった。こうもりのようである。鳥のようであるが鳥でもなく、ねずみでもない。フクロウという鳥や、ハケイという獣のようなものである。法華経という父を食らい、法華経を受持する者という母を噛む。太陽を射たと夢に見たのはこのことである。したがって、死去の後は墓がないままである。
智証の門流の園城寺と、慈覚の門流の比叡山は、修羅や悪竜同様に間断なく合戦している。園城寺を焼けば比叡山を焼く。智証大師の本尊の慈氏[弥勒]菩薩も焼けてしまった。慈覚大師の本尊も大講堂も焼けてしまった。この世にいながら無間地獄の苦を受けた。そしてただ根本中堂だけが残った。
弘法大師もまた残した寺はない。弘法大師には『東大寺で受戒しない者は東寺の長者にしてはならない』等の注意を述べた書面がある。しかし寛平法王[宇多天皇]は、仁和寺を建立して東寺の僧をそこに移した。『我が寺には比叡山の円頓戒を持たない者を住まわせてはならない』との宣旨は明白である。よって今の東寺の僧は鑑真の弟子でもなく、弘法の弟子でもない。戒は伝教の弟子である。しかし伝教の弟子でもない。伝教の法華経を否定するからである。
(弘法は)去る承和二年三月二十一日に死去し、天皇の配慮を得て遺体は葬られた。その後、人をたぶらかす弟子等が集って御入定と言った。髪の毛を剃って、差し上げますといったり、三鈷[真言密教の道具]を中国から投げたといったり、太陽が夜中に出たなどといったり、現身で大日如来となったといったり、伝教大師に十八道を教えたなどと言って、師の徳をあげることによって、智慧のない代わりとし、自分たちの師の間違った教えに力添えして天皇や臣下をたぶらかした。
また高野山に本寺・伝法院という二つの寺がある。本寺は弘法の建てた大塔で、本尊は大日如来である。伝法院というのは正覚房の建てたもので、本尊は金剛界の大日如来である。この本と末の二寺は昼夜関係なく争っている。比叡山と園城寺のようにである。うそが積もり積もって日本に二つの災いが出現したのか。糞を集めて栴檀といっても、焼く時はただ糞の香りしかしない。大うそを集めて仏と自称してもただ無間地獄に堕ちるだけである。尼ケン外道の塔は、数年間は人々に利益を大いに与えたが、馬鳴菩薩の礼拝を受けてたちまち崩れてしまった。鬼弁婆羅門の帳トバリは長年人々をたぶらかしたけれども、阿湿縛ク沙菩薩アシユバクシヤボサツ[馬鳴菩薩]に責められて破れた。`留外道は石となって八百年経たとき陳那菩薩ジンナボサツに責められて水になった。道士は中国の人々をたぶらかして数百年に及んだが、迦葉摩騰カシヨウマトウ・竺法蘭ジクホウランに責められて道教の経典も焼けてしまった。秦の趙高が国を奪い、王莽オウモウが帝位を奪ったように、(真言宗は)法華経の位を盗って大日経の所領としている。法の王がすでに国から消え去った以上、人の王がどうして安穏であろうか。日本の国は慈覚・智証・弘法の流れである。一人として謗法でない人はいない。
ただ、これはどういうことかと考えてみると、大荘厳仏ダイシヨウゴンブツの末法[大荘厳仏の亡き後、五人の僧がいたが一人は教えを守ったが残りの四人は邪見を起こし地獄に堕ちた]・一切明王仏(師子音王仏)の末法のようなものである。威音王仏の末法では罪を悔い改めた者でも千劫という長い間阿鼻地獄に堕ちた。まして日本の真言師・禅宗・念仏者等は少しの改心もしていない。如是展転至無数劫疑(このように阿鼻地獄に堕ちて一劫の間苦しんだ後には、この世界に生まれてきて再び阿鼻地獄に堕ちるということを繰り返し数えきれないほどの長期間を経る)は疑いないであろう。
このような謗法の国であるから、神々も捨てたのである。神々が捨ててしまったので、古くから守護する善神も祠ホコラを焼いて寂光の都へ帰られた。
ただ日蓮だけがとどまり、告げて示したので国主はこれを敵視した。数百人の民衆に罵詈させたり、悪口を言わせたり、杖や棒で打たせたり、刀剣で切りつけさせたり、どの家にも入れないようにしたり、家から追い払わせた。それでも思い通りにならないとなると、直接手をくだして二度まで流罪にした。去る文永八年九月十二日には首を切ろうとした。
最勝王経にこうある。
「悪人を愛して敬い、善人を処罰したために、他国から侵略者が来て、国民が亡くなったり世が乱れたりする」
大集経にはこうある。
「もし王族出身の国王がいて、多くの悪事を作り、世尊の声聞の弟子を悩ませ、誹謗したり悪口を言ったり、刀や杖で叩いたり切りつけたりしたり、衣服や食器など種々の身の回り品を奪ったり、他人に布施しようとする人を迫害すれば、自身の行為の自然の結果として、他国からの侵略者をたちまちに生じさせ、自らの国土にもまた兵乱が起こり、疫病や飢饉、季節外れの風雨、言い争いがあるだろう。またその王の寿命は短くなり、ついには国を亡ぼして失うであろう」
これらの経文のとおりである。したがって日蓮がこの国にいなければ、仏は大うそつきの人となり、阿鼻地獄からどうして脱け出せるだろう。
去る文永八年九月十二日に、私は平左衛門尉頼綱および配下数百人に向かって述べた。
「日蓮は日本の柱である。日蓮を殺害することは日本の柱を倒すことになる」
先の経文にこうある。
「智慧ある人を国主等が、悪僧等の讒言によって、または人々の悪口によって罪に処するなら、たちまち戦争が起こり、大風が吹き、他国から侵略されるだろう」
去る文永九年二月の同士討ち、同じく十一年四月の大風、同じく十月の大蒙古の襲来は、ひとえに日蓮を迫害したからである。まして以前よりこのことは予言していた。誰が疑うことができようか。
弘法・慈覚・智証の誤りはこの国にはびこり、すでに長い年月が経っている。そのうえ、禅宗と念仏宗という災いが同時に起こっている。逆風のときに大波が起こり、大地震が重なったようなものである。その結果、次第に国は衰えた。
太政入道[平清盛]が国を治め、承久の乱で王位が変わって、世の実権は東国に移ったが、ただ国内の動乱であって他国から責められることはなかった。当時も謗法の者はいたけれども、まだ天台大師の正法も少し残っていた。そのうえ、それを指摘する智慧のある人もいなかった。こうした理由でたいしたことではなかったのである。たとえば、師子は眠っているときに手を出さなければ吼えない。急流でも櫓をつっぱらなければ波は高くならない。盗人もやめさせようとしなければ怒らない。火に薪を加えなければ、燃え盛ることははない。
謗法があっても、指摘する人がいなければ、王の権威もしばらくは続き、国も穏やかであるのに似ている。例えば、日本に仏法が伝わりはじめたとき、初めは何事もなかった。しかし物部守屋が仏像を焼いたり僧を捕えたり堂塔を焼いたりしたので、天から火の雨が降り、国に疱瘡が流行し、戦乱が続いたようなものである。
このたびはそれらとは比較にならない。謗法の人々が国に充満している。日蓮も強く主張している。修羅と帝釈の合戦や、仏と魔王の合戦にも劣ることはない。
金光明経にこうある。
「その時に隣国の侵略者がこのように思う。『四兵をそろえてあの国土を破壊しよう』」
またこうある。
「その時に王は状況を見て即座に四兵をそろえて、その国に向かって出発し、討伐しようとするだろう。私たち(四天王は)その時、眷属である数えきれないほどの薬叉や神々とともに姿や形を隠して援護し、その敵が自ら降伏するようにするだろう」
最勝王経の文もまた同様である。大集経や仁王経にも説かれている。
これらの経文の通りであれば、正しい法を行ずる者を国王が敵視して、間違った法を行ずる者の味方をすれば、大梵天王・帝釈典・日天・月天・四天王等が隣国の賢王の身に入って、その国を必ず責め立てるに違いないということである。
例えば、訖利多キリタ王を雪山下王が責め、大族王を幻日王が滅ぼしたようなものである。訖利多王と大族王はインドの仏法を滅ぼした王である。中国でも仏法を滅ぼした王はみな賢王に責められている。
今の日本はこれらの国と比較にならない。仏法の味方のように見えるが、仏法を滅ぼす法師を助け、正しい法の行者を滅ぼしている。したがって愚か者にはまったく分からない。智慧のある人でもふつうの智慧ではわからない。神々でも位の低い神々ではわからないかもしれない。したがって、中国やインドの昔の混乱よりも大きいであろう。
法滅尽経にこうある。
「私(釈尊)が亡くなった後、五逆罪の者が充満する濁った世の中に、魔道が興隆し、魔が出家者となって私の教えを混乱させるだろう。[中略]悪人はますます多くなり、海中の砂の数ほどとなる。善人はほとんどいなくなり、一人か二人となる」
涅槃経にはこうある。
「このような涅槃経典を信ずる者は爪の上の土のように少なく、[中略]この経を信じない者は十方世界の土地のように多い」
この経文は時にかなって貴い。私の肝に染まっている。
今の日本の人々は、私も法華経を信じている、信じていると言っている。その言葉の通りであるならば、一人も謗法の者はいない。
しかしこの経文にはこうある。
「末法では謗法の者は十方の大地のように多く、正法の者は爪の上の土ほどである」
経文と世間は水と火のように違う。世間の人は、日本では日蓮一人だけが謗法の者であると言っている。また経文には大地より多いとある。法滅尽経には「善人は一人か二人」、涅槃経には「信じる者は爪の上の土ほど」とある。経文のとおりなら、日本ではただ日蓮一人が爪の上の土であり、一人二人に当たる。ゆえに心ある人々は、経文を信じるべきか、世間の人々を信用すべきか。
問うていう。
涅槃経の文には「涅槃経の行者は爪の上の土ほど」とある。あなたの主張では、法華経の行者であると言っている。これはどういうことか。
答えていう。
涅槃経にこうある。
「法華経の中に説かれているとおりである」
妙楽大師は述べている。
「大経自らが法華経を指して究極といっている」
大経とは涅槃経のことである。涅槃経は法華経を究極の法と定めている。ところが、涅槃宗の人は「涅槃経は法華経より勝れている」と言っている。これは主人を家来といい、身分の低い人を高貴な方というようなものである。
涅槃経を読むというのは、法華経を読むことを言うのである。
たとえば、国主を重んじる賢人は、自分が国主より低く評価されていても喜ぶものである。涅槃経は法華経を低く評価して、涅槃経をほめる人を強くかたきとして憎むのである。この例をもって知るべきである。華厳経・観経・大日経等を読む人も、法華経は劣ると読むことは、それぞれの経典の趣旨に背くことになるのである。
またこれによって、法華経を読む人が、法華経を信じているようであるがほかの経典でも覚りをえることができると思うのは、この経を読んでいない人であると分かる。
例えば、嘉祥大師は法華玄論という十巻の書物を著して法華経を讃嘆したが、妙楽大師はその書を批判してこう述べている。
「(法華経に対する)毀謗がそのなかにある。どうして法華経を広めて讃嘆しているといえようか」
このように法華経を否定する人なのである。したがって、嘉祥は攻め落とされた後天台大師に仕え、法華経を講義することはしなかった。"自分が法華経を講義したら地獄に堕ちることから免れないだろう"といって、七年間天台大師の踏み台となった。
慈恩大師には法華玄賛という法華経を讃える十巻の書物がある。伝教大師は批判してこう述べている。
「法華経を讃めるといえどもかえって法華経の心を殺している」
これらのことから考えると、法華経を読み讃嘆する人々の中に無間地獄に堕ちた人が多くいる。嘉祥・慈恩ですら一乗[法華経]を誹謗した人たちである。弘法・慈覚・智証がどうして法華経を見下す人でないことがあろう。嘉祥大師のように講義をやめ、弟子たちを解散して、自分の身を踏み台にしても、なお以前の法華経を誹謗した罪は消えないかもしれない。
例えば、不軽菩薩を毀謗した人々は、不軽菩薩に帰依して随従したけれども、重罪はまだ残っていて、千劫の間阿鼻地獄に堕ちた。したがって、弘法・慈覚・智証等はたとえ悔い改める心があって、法華経を読んだとしても、重罪は消え難い。まして悔い改める心などない。また法華経を否定し、真言教を昼夜に修行し、朝暮に法を伝授したのである。
世親菩薩・馬鳴菩薩は小乗教によって大乗教を否定した罪によって、舌を切ろうとまでされた。世親菩薩は仏の教えであっても、阿含経は冗談でも口にしないと誓った。馬鳴菩薩は懺悔の意味から大乗起信論を著して、小乗教を否定された。嘉祥大師は天台大師を招かれて、百人余りの智慧ある人々の前で五体を地につけ、全身から汗を流し、心から謝罪して"今後は弟子にも会いません。法華経も講義しません。弟子の顔を見て、法華経を講義すれば、いかにも自分に力があってこの法華経をわかっているように見えるからです"といって、天台大師よりも高僧であり、老僧であるにもかかわらず、わざと人の見ている時に天台大師を背負って川を渡った。また、天台大師が高座に近づくと、自分の背中に載せて高座に上げた。最後に(天台大師の)臨終の後には隋の皇帝に対面されて、子どもが母に先立たれたように地団太を踏んで泣かれたという。嘉祥大師の法華玄論を見ると、それほど法華経を誹謗した注釈書ではない。ただ法華経と諸大乗経は、法門には浅深があるけれども、趣旨は一つと書いている。これが謗法の根本であろうか。
華厳宗の澄観も真言宗の善無畏も、大日経と法華経は理においては同一であると書いている。嘉祥大師に罪があって責められるならば、善無畏三蔵も逃れることはできない。
善無畏三蔵は中央インドの国王であった。位をすてて他国に渡り、殊勝・招提の二人にあって法華経を授けられ、数多くの石の塔を立てたので、法華経の行者そのものに見えた。しかし、大日経を学んで以来、法華経は大日経より劣ると思ったのであろう。はじめはそうした主張もはっきりしていなかったが、中国に渡って玄宗皇帝の師となり、天台宗を妬む心が起きたのであろう。突然頓死して二人の獄卒に鉄の縄を七本つけられて閻魔王宮に着いた。寿命はまだ尽きていないと言われて、この世に帰されることになるが、法華経を誹謗したから地獄に堕ちたのだと思い、真言宗の観念・印・真言等を投げ捨てて、法華経の「今此三界(今この三界は)」の文を唱えると、縄は切れて現世に戻った。また、雨の祈りを命じられたときには、たちまちに雨は降ったが、大風も吹いて国を破壊した。結局、死んだとき弟子等が集まって臨終の見事な様子をほめたが、無間地獄に堕ちた。
問うていう。
何によってそのことを知るのか。
答えていう。
彼の伝記を見るとこうある。
「今、善無畏の遺体を見ると、次第に縮小し、黒い皮膚がわずかに見え、骨はむき出しである」
彼の弟子たちは死後に地獄の相が現れたことを知らずに、師の立派さをほめたたえたなどと思っているが、書き著した文字は善無畏の罪を記している。"死んでしまうと、身は次第に縮まって小さくなり、皮膚は黒く骨はむきだしである"とある。「人が死んだ後に、色が黒くなるのは地獄の業」と定めたのは仏陀のお言葉である。善無畏三蔵の地獄の業は何によるのか。
幼少の頃に位を捨てた。
最第一の求道心である。
インドの五十余りの国で修行した。
慈悲の余りに中国に渡った。
インド・中国・日本一・全世界で真言を伝授し、金剛鈴をふって修法を行うのはこの人の功績ではないか。どうして地獄に堕ちたのか。、死後のことを気に掛ける人々は調べてみる必要がある。
次に、金剛智三蔵は南インドの大王の太子であった。金剛頂経を中国に伝えた。その徳は善無畏に匹敵する。また、互いに師となった。
あるとき、金剛智三蔵が皇帝の命によって降雨の祈りをしたことがあった。七日のうちに雨が降り、皇帝は大いに喜んだ。ところがたちまち大風が吹いてきた。皇帝も臣下等もがっかりし、使いを遣わせて追放しようとしたが、あれこれ言って留まった。あげくは、姫が死去した際にも皇帝から"祈れ"と命令を受けた。その際に姫の身代わりとして宮中の七歳の少女二名を薪と一緒に積み重ねて焼き殺してしまった。無残なことである。それでも姫は生き返らなかった。
不空三蔵は金剛智とインドからお供をした。これらの事を不審に思ったのであろう。善無畏と金剛智三蔵が死去した後、インドに帰って竜智に会われて、真言を習いなおした。天台宗に帰依していたが、心だけで身は帰服することはなかった。降雨の祈祷を命じられて三日後に雨は降った。皇帝は喜んで自ら布施を与えられた。しかしたちまちに大風が吹き始めて、皇帝の住居も吹き破り、貴族たちの屋敷すべてが吹き飛んでしまった。皇帝は大いに驚いて、風を止めるよう命令した。吹いては止み、止んでは吹くという様子で数日間止むことはなかった。結局、使者を遣わせて追放となった。すると風は止んだという。
この三人の悪風は中国と日本のすべての真言師による大風である。まさしく、去る文永十一年四月十二日の大風は阿弥陀堂の加賀法印という東寺第一の智慧ある者が、雨を降らす祈祷をしたことによって吹いた逆風である。善無畏・金剛智・不空の悪法をすこしも違えず伝えているということだろう。侮りがたいことである。
弘法大師は去る天長元年の二月、大旱魃のあった時に、まずはじめに守敏が祈雨をして、七日の内に雨を降らせた。ただ京中に降っただけで地方には降らなかった。
次に弘法が引き継いだが、七日間雨の気配はなかった。次の七日間は雲もなかった。三度目の七日が過ぎたとき、天皇が和気真綱という者を使者として、御幣を神泉苑に捧げたところ雨が三日間降り続いた。弘法大師や弟子達はこの雨を奪い取り、自分が降らせた雨として、今に至る四百年余りの間弘法の雨として伝えている。
慈覚大師は夢で太陽を射たという。大うそつきの弘法大師は弘仁九年の春、大疫病の終息を祈ったところ、夜中に大きな太陽が出現したという。成劫以来、住劫の第九の減にあたる今日まで二十九劫の間に、太陽が夜中に出たという話はない。
慈覚大師は夢で太陽を射たというが、仏教の経典五千巻・七千巻、仏教以外の聖典三千巻余りに、太陽を射る夢を見るのは吉夢ということが書いてあるのだろうか。修羅は帝釈天を敵にし日天を射た。その矢はかえって自分の眼にささった。殷の紂王は日天を的に射て身を滅ぼした。日本の神武天皇の時代に、登美の長である長髄彦ナガスネヒコと五瀬命イツセノミコトが戦った際、五瀬命の手に矢がささった。五瀬命は"私は日天ヒノカミの子孫である。太陽に向かって弓をひいたために、日天の責めを受けてしまった"と言った。
阿闍世王は誤った考えを改めて仏に帰依し、宮中に戻って休まれていたとき、急におどろいて目を覚まし、諸臣に向かって言った。"太陽が天から大地に落ちる夢をみた"と。大臣たちは"仏が亡くなられたのだろうか"と言った。須跋陀羅[釈尊最後の弟子]の夢もまた同様であった。
我が国では、特に戒めなければならない夢である。神を天照アマテラスといい、国を日本という。また教主釈尊は日種といわれる。摩耶夫人が太陽を懐妊する夢を見てお産みになった太子である。慈覚大師は大日如来を比叡山に祀り、釈迦仏を捨てて真言の三部経を崇め、法華経の三部経を敵としたためにこの夢が出現した。
例えば、中国の善導は、初めは密州の明勝という者に出会って法華経を学んだが、後には道綽に出会って法華経を捨て、観経をよりどころとして注釈書を著した。法華経を"千中無一(千人中一人も成仏するものはいない)"、念仏を"十即十生・百即百生(十人が十人とも、百人が百人とも往生する)"と定めて、この教えを確立するために、阿弥陀仏の前で誓いを立てて、"仏意に叶うかいなか"と祈った。(善導が言うには)毎夜夢の中に常に一人の僧が現れて教えを授けたという。さらに、この注釈書を書写しようとする者は、経を書写するのとまったく同じようにせよ、と述べた。そして自分の著作を観念法門経と名付けた。
法華経にはこうある。
「もし法を聞く者があれば、一人として成仏しない者はいない」
善導は「千人中一人も成仏するものはいない」という。法華経と善導は水と火ように正反対である。善導は観経[観無量寿経]について、"十即十生・百即百生"といっている。
無量義経にはこうある。
「観経はいまだ真実をあらわしていない」
無量義経と楊柳房[善導]とは天地の差がある。これを阿弥陀仏が僧となって現れ、あなたの注釈書は真実であると保証したというが、どうして真実といえよう。そもそも阿弥陀は法華経の座に来て、舌を出して保証されなかったのか。(阿弥陀仏の脇士である)観音菩薩や勢至菩薩は法華経の座にいなかったのか。このことから分かるであろう。慈覚大師の夢は災いである。
問うていう。
弘法大師の般若心経秘鍵にこうある。
「時に弘仁九年の春天下に疫病が流行した。そこで天皇自ら黄金を筆端に染め、紺紙を爪掌に握りて、般若心経一巻を書写された。私は講読の任に選ばれ、経旨の宗を綴る。まだ結願の詞を述べていないのに蘇生した人々が道を行き来する。夜は変じて太陽が光り輝いた。これは愚身の戒徳によるものではない。金輪聖王である天皇の御信力がもたらしたのである。ただ神殿に詣でる者だけがこの秘鍵を読誦しなさい。昔、私は霊鷲山での説法の座にいて直接その深い言葉をお聞き申し上げた。どうしてその教えに達していないことがあろう」
また孔雀経音義にはこうある。
「弘法大師は帰国した後、真言宗を立てようと考えた。あらゆる宗派は朝廷のもとに集った。そして即身成仏の教えを疑った。弘法大師が智拳の印を結んで南方に向くと、面門が俄に開いて金色の毘盧遮那仏となり、そしてすぐに元の姿に戻った。入我・我入の事や即身頓証の疑いはこの日疑いが解けた。かくして真言・瑜伽の教えや、秘密曼荼羅の道はこの時より建立した」
またこうある。
「この時にあらゆる宗派の学徒は弘法大師に帰依して初めて真言を得た。さらに教えを請い習学した。三論宗の道昌・法相宗の源仁・華厳宗の道雄・天台宗の円澄等はすべてこの時に帰依した人々である」
弘法大師伝にはこうある。
「帰国の航海に出る日、願を立てた。私が学んだ教えにふさわしい場所があるなら、この三鈷はそこに届け、と。そして日本の方に向かって三鈷を放り投げた。はるか彼方まで飛んで行き、雲に入った。その後十月に帰国した」
またこうある。
「高野山の下に入定の場所を定めた。[中略]あの海上で投げた三鈷は今新たにここに出現した」
このように弘法大師の徳は無量である。そのうちの二・三を紹介しただけでもこのような大徳がある。どうしてこの人を信じないで、かえって阿鼻地獄に堕ちると言うのか。
答えていう。
私もこのように尊敬して信じている。しかし昔の人々も不可思議な徳があったけれども、仏法の悪と善はそれによってきまるものではない。外道のある人はガンジス河の水を耳におさめて十二年間留めたり、大海を吸い干したり、太陽や月を手に握ったり、釈迦族を牛や羊にした。しかしますます大慢心を起こして生死の苦悩をもたらす業にしかならなかった。このことを天台大師は「名利を期待し邪見と執着を増す」と解釈されている。
光宅寺(の法雲)がたちまちのうちに雨を降らし、瞬時に花を咲かせたということも、妙楽大師は「信心が神仏に通じて奇跡がこのように起こっても理に適っていない」と書かれている。
したがって、天台大師が法華経を読んで「瞬時に恵みの雨を降らし」、伝教大師が三日の内に恵みの雨を降らせても、そのことをもって仏意にかなったとはいわれなかった。
弘法大師にいかなる徳があろうとも、法華経を戯論の法と決めつけ、釈迦仏を無明に覆われた境涯と書かれた文を、智慧のある人なら用いるべきではない。まして先ほど挙げられた徳などは不審な事である。
まず「弘仁九年の春・天下に疫病が流行」という。
春といっても九十日ある。何月の何日であるのか。[第一] また弘仁九年に疫病の大流行はあったのか。[第二]
次に「夜は変じて太陽が光り輝いた」という。
この事は最大の事件である。弘仁九年は嵯峨天皇の時代である。記録官の記したものに載っているのか。[第三]
たとえ載っていても信じがたい事である。成劫二十劫・住劫九劫、以上の二十九劫の間ではいまだかつて無かった天変地異である。夜中に太陽が出現したとはどういうことなのか。如来一代の聖教にも記されていないし、未来に夜中に太陽が出現するとは三皇五帝の三墳五典にも載っていない。仏の経典のとおりなら、壊劫に二つの太陽・三つの太陽そして七つの太陽が出現すると記されているが、それは昼のことである。夜に太陽が出現すれば東西北の三方はどうなるのか。たとえ内外の教典に記していなくとも、実際に弘仁九年の春の何月何日、いつの夜の何時に太陽が出たという、公家・諸家・比叡山等に記録があるならすこしは信じることもできるが。
その次に「昔、私は霊鷲山での説法の座にいて直接その深い言葉をお聞き申し上げた」という。この文を人に信じさせるために、作り出した大うそではないか。本当であれば霊鷲山で説かれた法華経は戯論である。仏は大日経が真実であると説かれたのを、阿難や文殊が誤って妙法華経が真実であると書いたのか。どうなのであろう。恋多き女性や、破戒の法師等が歌を詠んで雨を降らしたのに、三週間も降らすことができなかった人にこのような徳があるのだろうか[第四]
孔雀経音義の「弘法大師は智拳の印を結んで南方に向くと、面門が俄に開いて金色の毘盧遮那と成った」ということについてであるが、これまたどの天皇、いつの年時のことなのか。中国では建元を最初とし、日本では大宝を最初とし、それ以来出家・在家の人の記録において、大事なことには必ず年号が書かれている。これほどの大事件であるのに、なぜ天皇の名も大臣の名も年号も日時もないのか。また次の「三論宗の道昌・法相宗の源仁・華厳宗の道雄・天台宗の円澄」であるが、そもそも円澄は寂光大師と呼ばれ、天台宗第二代の座主である。その時にどうして第一代の座主である義真や、根本の伝教大師を召かなかったのか。円澄は天台第二代の座主であり、伝教大師の弟子であるがまた弘法大師の弟子でもある。弟子を召くよりも、三論宗・法相宗・華厳宗よりも、天台宗の伝教・義真の二人を召くへきではなかったのか。しかもこの記録には「真言・瑜伽の教えや秘密曼荼羅の道はこの時から確立された」とある。この記述は伝教・義真の御存命中かと思われる。弘法は平城天皇の時代・大同二年から弘仁十三年まで盛んに真言を広めた人である。この時はこの二人はご存命であった。また義真は天長十年まで生きていらっしゃった。その時まで弘法の真言は広まらなかったのだろうか。いろいろと不審な点がある。
孔雀経の注釈書は弘法の弟子の真済が自ら書いたものであるから信じがたい。また誤った考えの者ではないか。公家・諸家・円澄の記録を引いたほうが良いのではないか。また、道昌・源仁・道雄などの記録を調べる必要もある。
同じく孔雀経音義にこうある。
「面門が俄に開いて金色の毘盧遮那仏となった」
面門とは口のことである。口が開いたということか。眉間が開いたと書こうとしたのを間違えて面門と書いたのではないか。偽の書を作ったためにこのような間違いをしたのではないか。
そして「弘法大師は智拳の印を結んで南方に向くと、面門が俄に開いて金色の毘盧遮那仏となった」という。
涅槃経の五にこうある。
「迦葉は仏に申し上げた。『世尊、私は今、この四種の人をよりどころとすることはありません。なぜかというと、瞿師羅経の中に、仏が瞿師羅のためにこう説かれているからです。もし天や魔、梵天界にいる神々が仏法を破壊しようとして仏に変身して、三十二相・八十種好をひとつも欠けることなく具えて飾り立て、身から発する光は一尋にもおよび、顔は円満で満月が盛んに輝いているようであり、眉間の毫相の白いことは純白の雪を超えるといった姿をあらわしたとしても、[中略]左の脇から水を出し、右の脇から火を出したとしても(信じる心を生じてはいけない)』」
また六の巻にこうある。
「仏は迦葉に告げられた。『私が亡くなって[中略]後にこの魔王が次第に我が正法を壊すことは必然である。[中略]変化して阿羅漢の身や仏の姿となり、魔王は自らの煩悩に満ちた身体を煩悩のない姿に変え、我が正法を壊るだろう』」
弘法大師は法華経を華厳経や大日経と比較して戯論であるといっている。しかも仏の姿を現わしたという。このことは涅槃経に魔が煩悩に満ちた身体を変えて、仏となって我が正法を破壊すると予言されている。涅槃経でいう正法とは法華経である。故に経のその次の文にこうある。
「すでに成仏してから長い時間が経っている」
またこうある。
「法華経の中に説かれているとおりである」
釈迦・多宝仏・十方の世界のあらゆる仏は、すべての経と対比して「法華経は真実である。大日経等のあらゆる経は真実ではない」と説いているのである。
弘法大師は、仏の姿を現して、華厳経・大日経と対比して「法華経は戯論である」という。仏の教えが真実であるなら、弘法は天魔ではないか。
また三鈷のことは特に疑わしい。中国の人が日本に来て掘り出したとしても信じがたい。掘り出す前に人を使わして埋めたのではないか。まして弘法は日本人である。
このように人をだまして乱れさせることは数多くある。これらのことをもって、仏の意思に叶う人であるという証拠とは認められない。
この真言宗・禅宗・念仏宗等が次第に盛んになってきたころ、第八十二代天皇の尊成タカヒラ、すなわち隠岐法皇(後鳥羽上皇)が、権太夫ゴンノダイブ(北条義時)殿を滅ぼそうと長年力を注いでいた。大王たる国主であるから、特別なことをしなくとも、師子王が兎を屈服させるように、また鷹が雉キジを捕るように容易に滅ぼせたはずである。そのうえ、比叡山・東寺・園城虎・奈良七大寺・天照太神・正八幡・山王・加茂・春日等に数年間、調伏を命じたり、神に祈願していたのである。しかし、わずか二・三日さえも抵抗できず、佐渡国・阿波国・隠岐国等に流されてしまい、ついにそこで亡くなられてしまった。調伏の祈祷の最上位者であった御室オムロは、東寺の最高権威者をおろされただけではなく、眼のように大事にしていた第一の稚児・勢多伽の首をはねられた。調伏の結果が「還著於本人(かえって本人にふりかかる)」という道理によるものと思われる。これは小さいことである。
この後必ず、日本の臣下や民衆一人ももれることなく、乾いた草を積んで火を放つように、また大きな山が崩れて谷を埋めるように、我が国には他国から侵略される事が出来するだろう。このことは、日本の中ではただ日蓮一人だけが知っている。言い出せば、比干が殷の紂王に胸を割かれたように、また竜蓬が夏の桀王に首をはねられたように、また師子尊者が檀弥羅王に首をはねられたように、また竺の道生が島流しにあったように、法道三蔵が顔に焼印を押されたように、迫害を受けるであろう。かねてからわかっていたことである。しかし、法華経にはこうある。
「私は身も命も惜しまない。ただ無上道だけを惜しむ」
また涅槃経にはこうある。
「むしろ、身も命も失っても、教えを隠してはいけない」
このように諌められている。
今、命を惜しんだなら、いつの世で仏になることができるだろうか。また、どのような世で、父母や師匠を救うことができるのか。こう断固たる決心で言い始めたところ予想通り、追放されたり、罵られたり、打たれたり、傷つけられたりした。そして去る弘長元年辛酉カノトトリ五月十二日には国のとがめを受けて、伊豆国伊東に流刑となった。これは同じく弘長三年癸亥ミズノトイ二月二十二日に赦免された。
その後、ますます菩提心を強盛にして主張したので、更に大難が重なった。それはさも大風によって大波が起こったようであった。昔の不軽菩薩が杖や木で受けた責めを我身にひしひしと感じた。しかし覚徳比丘が歓喜仏の仏法が滅びようとしていたときに受けた大難さえも、この私が受けた大難には及ばないと思う。日本六十六ケ国・島二つの中で、一日片時も何れの場所に落ち着いていられるということもない。昔は二百五十戒を持ち何を言われても動揺しないラゴラのような聖人でも、富楼那のような智慧を持った者でも、日蓮に会えば悪口を言う。正直な魏徴や忠仁公のような賢者等も日蓮を見れば道理をまげて非道を行う。まして世間の一般人は犬がサルを見たように(吠える)。また猟師が鹿を追い込むようである。日本の中で一人として"理由があって日蓮は言っているのだろう"と言う人はいない。
もっともである。どの人も念仏を称えている。その人々に向かうたびに私は、念仏は無間地獄に堕ちると言っているからである。どの人も真言を尊んでいるが、私は真言は国を滅ぼす悪法であると言っている。国主は禅宗を尊んでいる。しかし私は天魔の仕業であると言っている。
したがって、私が自ら招いた災いである。人が罵ろうととがめない。とがめたところで相手は一人ではない。叩かれても痛みはない。もとよりわかっていたからである。したがって、ますます身も命も惜しむことなく全力で責めた。すると、禅僧数百人、念仏者数千人、真言師百人から千人が、奉行に近づいたり、権力者についたり、権力者の女房についたり、その未亡人等に近づき数限りない讒言をした。最後には"天下第一の大事件である。日本の国を滅ぼそうと呪う法師である。故最明寺殿・極楽寺殿を無間地獄に堕ちたと言う法師である。取り調べるまでもない。今すぐ首を差し出させろ、弟子等の首を切れ、遠国に追放しろ、牢に入れろ"などと未亡人たちが怒った。そしてそのとおり実行された。
去る文永八年辛未カノトヒツジ九月十二日の夜に、相模国の竜の口で首を切られることとなった。しかしどういうわけかその夜の処刑は延期になり、依智というところへ到着した。また十三日の夜は"許された"と人々は騒いだが、なぜか佐渡まできた。今日切る、明日切るといっているうちに、四箇年が過ぎ、結局去る文永十一年太歳甲戌タイサイキノエイヌ二月十四日に赦免となって、同じく三月二十六日に鎌倉へ戻り、同じく四月八日平に左衛門尉に対面して、いろいろな事を伝えた。その中で今年蒙古は必ず攻めてくると伝えた。同じく五月十二日に鎌倉を出てこの山に入った。これはひとえに父母の恩・師匠の恩・三宝の恩・国恩を報じるためである。身に傷を受け、命を捨てたのであるが、滅びることなくこうして生きている。また賢人の習わしとして、三度国を諌めて用いられなければ人里離れた場所に隠栖せよ、とある。これは古今を通じて変わらぬことである。この功徳は必ず三宝をはじめとして、梵天・帝釈・日天・月天に至るまでご存じだろう。父母も故道善房の聖霊も助けることは間違いない。
ただし、疑問なことがある。
目連尊者は助けたいと思ったが、母である青提女は餓鬼道に墜ちた。善星比丘は大覚世尊の子どもであってが阿鼻地獄へ墜ちた。これは力を尽くして救おうと思っても、自業自得による結果であるから救いがたい。故道善房は自らの弟子であるから、日蓮をさほど憎いとは思われなかったようである。しかしきわめて臆病であったうえ、清澄寺を離れたくないと固執した人であった。地頭の景信や、提婆達多や瞿伽利と変わらない円智・実成が上と下に居て脅したことをひどく恐れて、目をかけておられた年頃の弟子たちさえも捨てられた人であるから、来世はどうなるか疑わしい。ただし一つ諸天の加護と思えることがある。景信と円智・実成が先に亡くなったことである。一つの救いであったと思う。彼らは法華経十羅刹の責めを受けて早く亡くなった。その後に少し(法華経を)信じられたようであるが、けんかの後の棒である。昼間の灯りである。何の役にも立たない。そのうえ、どのような事があっても、子や弟子などという者はかわいいはずである。力のない人ではなかったであろうに、佐渡まで流された私を一度も訪問してこなかった。ということは法華経を信じてはいなかったのだ。
それにつけても思いがけないことである。道善房が亡くなられたと聞いたときは、火にも入り水にも沈み、すぐに走ってお墓を訪ねて、経の一巻も読誦しようと思った。しかし賢人の習わしとして、私自身は遁世と思っていないが、人は遁世と思っているから、理由もなく山から走って出ていったならば、態度が一貫していないと人は思うに違いない。したがって、どれほど参ろう思ったとしても、参ることはできなかった。しかし、おのおのお二人は日蓮の幼少の頃の師匠でおられる。勤操僧正・行表僧正が伝教大師の師匠であったが、後に弟子となられたようなものである。日蓮が景信に憎まれて清澄山を出る際、かくまってひそかに出していただいたことは、天下第一の法華経への奉公である。来世を疑い思われることはない。
問うていう。
法華経・一部・八巻・二十八品の中で、何が肝心なのか。
答えていう。華厳経の肝心は大方広仏華厳経、阿含経の肝心は仏説中阿含経、大集経の肝心は大方等大集経、般若経の肝心は摩訶般若波羅蜜経、雙観経の肝心は仏説無量寿経、観無量寿経の肝心は仏説観無量寿経、阿弥陀経の肝心は仏説阿弥陀経、涅槃経の肝心は大般涅槃経である。このようにあらゆる経は「皆如是我聞」の上にある題名がその経の肝心である。
大は大なりに、小は小なりに、題名を肝心としている。大日経・金剛頂経・蘇悉地経等もまた同様である。仏もまた同様である。大日如来、日月燈明仏、燃燈仏、大通智勝仏、雲雷音王仏等の仏もまたその名の中にその仏の種々の徳を具えている。今の法華経についてもまた同様である。「如是我聞」の上にある妙法蓮華経の五字は、即一部八巻の肝心であり、またあらゆる経の肝心である。すべての仏・菩薩・二乗・天・人・修羅・竜神等の頂上に位置する正法である。
問うていう。
南無妙法蓮華経の意味もわからない者が唱えるのと、南無大方広仏華厳経と意味もわからない者が唱えるのは同等なのか。浅い深いといった功徳の差はあるのか。
答えていう。
浅深等はある。
疑っていう。
その意味は何か。
答えていう。
小さい川は、露や小さな水の流れ、井戸水、水路の水、川の水を収めるが、大河を収めることはない。大きい川は露から小川を収めるけれども、大海を収めることはない。阿含経は井戸や川等、露や小さな流れを収める小さい川である。方等経・阿弥陀経・大日経・華厳経等は小川を収める大きな川である。法華経は露・小さな流れ・井戸・川・小さな川・大きな川・空から降る雨等の一切の水を一滴も漏らさない大海である。たとえば、体の熱い者が大量の冷たい水のほとりで横になれば涼しいが、わずかな水のそばで横になっても苦しいままである。五逆罪・謗法の大重罪の一闡提人は、阿含・華厳・観経・大日経等のわずかな水のそばでは、大罪の大熱を発散することはできない。しかし法華経という大雪山の上に横になれば、五逆罪・誹謗・一闡提等の大熱はたちまちに発散できる。よって愚か者は必ず法華経を信じる必要がある。
おのおのの経々の題目は易しいという点では同じといえるが、愚か者と智慧者の唱える功徳は天地雲泥の差がある。
たとえば、太い綱は強い力だけでは切ることは難しい。弱い力でも小刀を使えば簡単にこれを切ることができる。
たとえば、堅い石を切れ味の鈍い刀では強い力でも切断は難しい。しかし、鋭い剣を使えば弱い力でも切断できる。
たとえば、薬のことは知らなくとも、服用すれば病気は治る。食事だけでは食べても病気は治らない。
たとえば、不老不死の薬は命を延ばすが、普通の薬では病気は治せても寿命は延びない。
疑っていう。
二十八品の中では何が肝心か。
答えていう。
ある人は各品はそれぞれの事柄に応じてそれぞれが肝心であるという。またある人は方便品・寿量品が肝心であるという。またある人は方便品が肝心だという。ある人は寿量品が肝心という。ある人は「開示悟入(仏の智慧を開かせ、示し、悟らせ、入らせること)」が肝心という。ある人は「諸法実相」が肝心であるという。
問うていう。
あなたはどうか。
答える。
南無妙法蓮華経が肝心である。
その証拠は何か。
阿難・文殊等が「如是我聞」といっている。
問うていう。
どういうことか。
答えていう。
阿難と文殊は八年間、この法華経の無量の教えを一句・一偈・一字も残さず聴聞していた。仏の入滅後に経典を結集する時、九百九十九人の阿羅漢が筆記の準備をしていたところ、まずはじめに「妙法蓮華経」と書かれて、次に「如是我聞」と唱えられた。これは妙法蓮華経の五字は一部・八巻・二十八品の肝心ということではないか。
したがって、過去の日月燈明仏の時より法華経を講義している光宅寺の法雲法師は「如是とはこれから仏から聞いた法を伝えようとするのである。その如是の前の題名で全体を示している」と言っている。
霊鷲山で直接説法を聞かれた天台大師は「如是とは仏から聞いた法そのものである」と言っている。
章安大師は、「筆録者である私が解釈すれば『法華玄義の序分を序王というのは、法華経の深遠な意味を述べたものである。法華経の深遠な意味は経文として核心を述べたものである』」と言っている。
この章安大師の文で、経文としての核心を述べるとは、題目は法華経の核心ということである。
妙楽大師は述べている。
「釈尊一代の教法を収め、法華経の文の核心を示している」
インドは七十ケ国である。全体を示す名が月氏国である。日本は六十ケ国、全体を示す名は日本国である。
月氏という名前の中に七十ケ国をはじめとして、人間・動物、珍しい宝まですべてがある。日本という名前の中に六十六ケ国がある。出羽国の鳥の羽や、奥州の金をはじめ各国の珍しい宝、人間・動物から寺塔や神社に至るまで、日本という二文字の名の中に収まっている。神々の眼ならば日本という二文字を見て、六十六ケ国をはじめ人間・動物までを見ることができる。菩薩の眼なら人間・動物等が生まれたり死んだりしていることさえ見ることができる。たとえば、人の声を聞いて誰であるかわかり、足跡を見て大きさがわかる。蓮を見て池の大小を計り、雨を見て竜の大きさを判断する。これらはすべて一事に全体があるという道理である。
阿含経という題名には、おおむねすべてあるようであるが、ただ小釈迦[阿含経の教主である一丈六尺の釈尊]の一仏だけがあり、他の仏はない。
華厳経・観無量寿経・大日経等にもまたすべてあるようであるが、二乗を仏にする働きと久遠実成の釈迦仏はない。例えば、花が咲いても実はならず、雷が鳴っても雨は降らず、鼓があっても音が出ず、眼はあっても物が見えず、女性であるが子を産まず、肉体があっても命や魂がないようなものである。大日如来の真言・薬師如来の真言・阿弥陀仏の真言・観音菩薩の真言等もこれと同じである。
以上の経々では、大王・須弥山・太陽・月・良薬・如意珠・利剣等のようであるけれども、法華経の題目に対すれば雲泥の勝劣があるだけではなく、みなそれぞれ当体の働きを失う。例えば、多くの星の光が一つの太陽に光を奪われ、多くの鉄が一つの磁石によって役に立たなくなり、大きな剣も小さな火に入れられるだけで働きを失い、牛乳やロバの乳等も師子王の乳に触れると水となり、多くの狐が妖術を使っても、一匹の犬に会えば術は破れ、犬は小さい虎に会うと顔色を変えるようなものである。南無妙法蓮華経と唱えれば、南無阿弥陀仏の働きも、南無大日真言の働きも、観世音菩薩の働きも、すべての諸仏・諸経・諸菩薩の働きも、すべてことごとく妙法蓮華経の働きによって役に立たなくなる。それらの経々は妙法蓮華経の働きを借りなければ、すべて役に立たないものなのである。このことは今眼前の道理である。日蓮が南無妙法蓮華経と弘めれば、南無阿弥陀仏の働きは月が欠けるように、また潮がひいていくように、また秋・冬に草が枯れていくように、また氷が太陽の光で溶けるように、衰退していくのを見なさい。
問うていう。
この法が本当に素晴らしいのなら、どうして迦葉・阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親・南岳・天台・妙楽・伝教等は、善導が南無阿弥陀仏を勧めて中国に弘通したように、また慧心・永観・法然が日本をすべて阿弥陀仏の信者にしたように、勧められなかったのか。
答えていう。
この論難は古くからある論難である。今に始まったことではない。
馬鳴・竜樹菩薩等は、仏の入滅後、六百年から七百年過ぎに出現した大学者である。この人たちは出現して大乗経を弘通した。すると多くの小乗の者は疑って言った。
「迦葉や阿難たちは仏の入滅後、二十年・四十年にわたって生存され、正法を広められたが、これは釈尊一代の肝心を弘通されたのである。ところが、この人たちはただ苦・空・無常・無我の法門を究極とされたのである。今、馬鳴・竜樹等が賢いといえども迦葉・阿難等には及ばない」これが第一の疑い」
迦葉は仏にお会いして理解した人である。これらの人たちは仏に会っていない。これが第二の疑い。
「仏教以外は常・楽・我・浄と主張した。仏は世に出現されて、苦・空・無常・無我と説かれた。しかし、この人たちは常・楽・我・浄といっている。ゆえに仏も御入滅となり、迦葉等も亡くなられたので、第六天の魔王がこの人たちの身に入って、仏法を破壊し、外道の法としようとしているのである。したがって、仏法に敵対する者は、頭を割れ、首を切れ、命を断て、食事を与えるな、国から追放しろ」などと、多くの小乗の人々が叫んだが、馬鳴・竜樹等はたった一人二人であった。昼も夜も悪口の声を聞き、朝も夜も杖や棒で攻撃された。しかしこの二人は仏の御使いである。まさしく摩耶経に六百年に馬鳴が出現し、七百年には竜樹が出現すると説かれている。そのうえ、楞伽経等にも予言されている。また付法蔵経にもあることはいうまでもない。ところが、多くの小乗の者どもは認めなかった。ただ理不尽に攻撃した。「如来現在・猶多怨嫉・況滅度後」の経文はこの時代になって、少し身に染みてわかったのである。提婆菩薩は外道に殺され、師子尊者は首を切られた。この事をもって推察しなさい。
。 また仏滅後一千五百年余りというとき、インドより見て東に中国という国があった。陳・隋の時代には天台大師が出現した。この人の言うには、「釈尊の尊い教えには大乗があり、また小乗がある。顕教もあれば密教もあり、権教もあれば実教もある。迦葉・阿難等はただ小乗教だけを弘め、馬鳴・竜樹・無著・天親等は権大乗を弘めて、実大乗の法華経はただ指し示すだけで教えには触れず、また経の表面的な意味だけを述べて、由来から結論は述べていない。あるいは迹門を述べて本門は明らかにしていない。あるいは本門と迹門はあるが観心はない」と言ったので、南三北七の十流派の僧侶数千万人が一斉に声をあげて笑った。そして
「世も末になるにつれて不思議な法師も出現するものだ。現在我々に対し偏った意見を持つ者はいるにしても、後漢の永平十年丁卯ヒノトウの年から今の陳・隋に至るまでの三蔵や学者たち二百六十人余りの人に対して『何も知らない』と言っている。そのうえ『謗法の者である。悪道に墜ちる』という者が出来した。あまりにも常軌を逸している。法華経を持って来られた羅什三蔵にも『何も知らない者』と言っている。中国はさておき、インドの大学者である竜樹や天親等の数百人の四依の菩薩もまだ真実を述べていないと言っている。この者を殺す人は、(人に害をなす)鷹を殺した人である。鬼を殺すことより勝れている」と騒ぎ立てたのである。また、妙楽大師の時に、インドから法相宗・真言宗が伝わり、中国で華厳宗が始まった。それを(妙楽は)あれこれ批判したので、これまた騒ぎになった。
日本では、伝教大師が仏の入滅後一千八百年にあたる頃出現された。天台大師の解釈を見て、欽明天皇以来二百六十年余りの間の六宗を批判した。批判された六宗は「釈尊在世の仏教以外の思想家・中国の道士が日本に出現した」と誹謗した。伝教は「仏滅後一千八百年間、インド・中国・日本になかった円頓の大戒を立てよう」と言っただけではなく「西国の観音寺の戒壇・東国下野の小野寺の戒壇・中央大和国・東大寺の戒壇はいずれも臭い糞のような小乗の戒を授けている。瓦や石のように値打ちはなく、それを持つ法師等は狐狸の類・猿等のようである」と言ったので、人々は「奇怪なことだ。法師に似たイナゴが国に出現した。仏教の苗は一瞬でなくなってしまうだろう。殷の紂王や夏の桀王が法師となって日本に生まれてきたのだ。後周の宇文や唐の武宗が再びこの世に出現したのだ。仏法はたちまち滅ぶに違いない。国も滅びてしまうだろう」などと言った。また「大乗・小乗の二種類の法師が出現すれば、修羅と帝釈天、項羽と高祖を一国に並べるのとかわらない」などと言った。誰もが驚いて手を叩き、声も出ない有様だった。そして「釈尊の在世中は、仏と提婆達多の二つの戒壇があって、少なからぬ人々が争って死んだ。そのため、他宗に背くことはさておき、『我が師である天台大師の立てられなかった円頓の戒壇を立てよう』というおかしさはどれほどのものか。何と恐ろしいと口ぐちに騒いだ。
しかし経文には明らかであったので、比叡山の大乗戒壇をついに建てられたのである。ゆえに心中の悟りは同じであるが、法の流布においては迦葉・阿難よりも馬鳴・竜樹等のほうがすぐれ、馬鳴等よりも天台のほうがすぐれ、天台よりも伝教がすぐれている。世が末になるにつれて人の智慧は浅くなり仏教は深くなるということである。例えば、軽い病には凡薬でよいが、重病には仙薬が必要であり、弱い人には強い味方がいて助けるというのはこれである。
問うていう。
天台・伝教の弘通されていない正法はあるのか。
答えていう。
ある。
更に問う。
それは何か。
答えていう。
三つある。末法のために仏が残しておかれたものである。
迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・天台・伝教等の弘通されなかった正法である。
更に問う。その具体的な形は何か。
答えていう。
一つには、日本から全世界に至るまで、一同に本門の教主釈尊を本尊としなければならない。いわゆる宝塔の内の釈迦仏・多宝仏・そのほかの諸仏である。そして上行等の四菩薩は脇士となるのである。
二つには本門の戒壇である。
三つには日本から中国・月インド・全世界に至るまで、誰であれ智慧の有無にかかわらず、一同に他の事に構わず南無妙法蓮華経と唱えるべきである。
この事はいまだ広まっていない。全世界の中で仏の入滅後二千二百二十五年間、一人も唱えていない。日蓮一人だけが南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と声も惜しまず唱えている。例えば、風にしたがって波には大小があり、薪によって火の強弱があり、池にしたがって蓮の大小があるようなものである。雨の大小は竜による。根が深ければ枝は多く、源が遠ければ流れは長いというのはこれである。周の時代が七百年も続いたのは、文王の礼儀と孝行による。秦の世が長く続かなかったのは始皇帝の理不尽な行いによるのである。
日蓮の慈悲が広大であるなら、南無妙法蓮華経は万年の先の未来までも流布するにちがいない。日本のあらゆる人々の盲目を開いた功徳がある。無間地獄の道を塞いだのである。この功徳は伝教大師や天台大師をも超え、竜樹・迦葉よりも勝れている。極楽における百年の修行は、穢土の一日の功徳にも及ばない。正法・像法二千年の弘通は末法の一時の弘通にも劣るだろう。これはひとえに日蓮の智慧が勝れているからではない。時がそうさせているだけである。春には花が咲き、秋には実が成る。夏は暖かく冬は冷たい。これも時がそうさせているのである。
「私が亡くなった後、後の五百年の内に広宣流布して、全世界において断絶したり、悪魔や魔の姿をした神々や多くの竜や夜叉・鳩槃荼等につけいるすきを与えてはならない」
この法華経の経文とおりにならなければ、舎利弗は華光如来とならないし、迦葉尊者は光明如来とならないし、目ケン連は多摩羅跋栴檀香仏とならないし、阿難は山海慧自在通王仏とならないし、摩訶波闍波提比丘尼は一切衆生喜見仏とならないし、耶輸陀羅比丘尼は具足千万光相仏とならないにちがいない。三千塵点劫という過去の話も戯論[無益な言論]となり、五百塵点劫という過去の話も妄語[うそ・偽り]となって、恐らく教主釈尊は無間地獄に堕ち、多宝仏は阿鼻地獄の炎に苦しみ、十方世界の諸仏は八大地獄が住居となり、あらゆる菩薩は百三十六の地獄の苦しみを受けることになるだろう。
どうしてそのような道理があるだろうか。そのような道理はないので、日本全国は南無妙法蓮華経である。故に花は散って根にかえり、真実の味は土にとどまる。そしてこの功徳は故道善房の聖霊の御身に集まることは間違いない。
南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。