同志と共に

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諸宗問答抄しょしゅうもんどうしょう

問うていう。 そもそも法華宗の法門は、天台大師・妙楽大師・伝教大師等の釈を用いているのですか。
答えていう。
はい。これらの釈を明鏡の助証として立てた法門です。
問うていう。
何を明鏡として立てられているのでしょうか。
それらの釈を爾前権教と破折することは間違っています。すなわち初後仏慧・円頓義斉(初めの仏の智慧も後の智慧も円満で偏らず、すべての人々を成仏させる教えである)、また此妙(法華経)も彼妙(爾前教)も妙の義は異ならないと釈されて、華厳経と法華経の仏の智慧は同じであり異なることはないと述べられております。通教や別教の仏の智慧も法華経と同じとされております。どうしてただ法華経だけが勝れているとおっしゃるのでしょうか。納得がいきません。
答えていう。
天台大師の釈を引かれておられるので、あなたはきっと天台宗の方でしょう。
ところで、天台大師の釈は教道・証道という二筋をもって六十巻をつくられております。
教道とはすなわち教相の法門です。証道とはすなわち内証の悟りです。
ただいま引かれた釈の文は教道・証道の二道の中のどちらの文と心得て引かれたのですか[と質問しなさい]
もし教相門の釈というなら、教相には三種の教相を立てて、爾前経と法華経を比較して勝劣を判じられています。まず三種の教相というのは何でしょうかと質問しなさい。
もし三種の教相というのは、一には根性の融不融の相・二には化導の始終不始終の相・三には師弟の遠近不遠近の相ですと答えたなら、それでは今引かれた釈はいずれの教相の下で引かれたのですかと質問しなさい。
もし根性の融不融の下で釈したと答えたなら、また問い直しなさい。
根性の融・不融の下には約教・約部という二つの法門がある。どちらですかと尋ねなさい。
もし約教の下と答えたら、また問いなさい。約教・約部については与と奪の二つの釈があります。今の釈は与の釈ですか、奪の釈ですか、とこう尋ねなさい。
もし約教・約部も与・奪もわきまえていないと言うなら、はてさて天台宗の法門についてまことに不勉強でいらっしゃる。そもそも天台法華宗の法門は仏の教説の違いを諸仏の御本意を明らかにされている。もし教相の理解もなく法華宗の法門をいうのは「雖讃法華経還死法華心(法華経を称賛するようにみえてかえって法華経の心をころす)」といって、法華経の本意を失わせるということになるのです。
そのうえ「もし余経を弘める場合に教相を明らかにしなくともその義を傷つけることはない。しかし法華経を弘める場合に教相を明らかにしなければ、その文義を釈すうえで闕けるところがある」と釈せられて、ことさら教相を根本として天台の法門は建立されているのです。
いわれているように、順序も無く、偏と円の区別もせず、正邪も選ばないで法門を論じる者は信受してはならない、と天台大師は堅く誡しめられております。これほどのこともお知りにならないで、なまじ天台大師の釈を引かれておられる事は、まことに浅ましい事ですな、と責めなさい。
ただし天台大師が教相を三種に立てられた中に、根性の融・不融の相の下に相待妙・絶待妙の二妙を立てておられます。相待妙の下にまた約教・約部の法門を釈して仏教の勝劣を判じられております。約教の時は釈尊一代の教えを蔵・通・別・円の四教に分けて、これについて勝劣を判じる時は、前三為ソ・後一為妙と判じられて、蔵・通・別の三教をソ教と嫌い、後の一教を妙法と選び取られております。
しかしこの時もなお爾前権教にもしばらく得道を許し、華厳等の仏の智慧と法華経の仏の智慧は等しいとして、今の初後仏慧・円頓義斉という与えての釈を作られたのです。
しかしながら、約部の時は釈尊一代の教えを五時に分けて五味に配し、華厳部・阿含部・方等部・般若部・法華部と立てられ、前四味為ソ・後一為妙(前の四味をソとなし、醍醐味を妙となす)と判じて、奪の釈を作られました。
したがって奪の釈では「細人ソ人二倶犯過・従過辺説倶名ソ人(爾前の円教も蔵・通・別の三教もともに過ちを犯す。過ちの辺にしたがって説いてともにソ人と名づく)」と述べられています。
この釈の主意は華厳部にも別・円二教を説かれていますので、円の方は仏慧といわれています。方等部にも蔵・通・別・円の四教が説かれているので、円の方はまた仏の智慧です。般若部にも通・別・円の後の三教を説いていますから、それも円の方は仏の智慧です。
しかし華厳部は別教というにせ物を連れて説かれているので、悪い者を連れた仏の智慧であると嫌われています。方等部の円も前三教のにせ物を連れた仏の智慧です。般若部の円も前二ソのにせ物を連れた仏の智慧です。したがって仏の智慧という名は同じでも過ちの辺に従ってソといわれて悪い円教の仏の智慧と見下されているのです。
これによって、四教のなかでも真実の勝劣を判断する時は、「一往は三蔵を名づけて小乗となし、再往は三教を名づけて小乗となす」と釈して、一往は二百五十戒等の阿含・三蔵教の法門を総じて小乗の法と退けて、再往の釈の時は三蔵教と大乗といってきた通教と別教との三教もすべて小乗の法である、と日本の智証大師も法華論記という論を作って判じて解釈されています。
次に、絶待妙というのは開会の法門です。
このときは爾前権教と嫌って捨てた教をすべて法華経という大海に収めます。したがって、法華経という大海に入ったならば、爾前の権教といって嫌わるものはなくなります。すべて法華経の大海の不可思議の徳として南無妙法蓮華経という一味にしてしまうので、念仏・律・真言・禅などと別々の名を呼び出すような道理も無くなるのです。
したがって法華玄義にこうあります。
「諸水入海・同一鹹味・諸智入如実智・失本名字(川の水や雨水も大海に入るとすべて同一の塩味となる。諸経に説かれる智も法華経の如実智が説かれればもとの名前を失う)」等と釈して、本来の名字を一言も呼びだすべきではないと解釈されているのです。
ところが世間の人や天台宗は、"開会の後は相待妙の時嫌って退けた前四味の諸経の名言を唱えることも、また諸仏・諸菩薩の名言を唱えることも、これはすべて法華経の妙体である。大海に入らないうちはそれぞれ別の水であるが、大海に入った後に見れば、日頃良いやら悪いやらと嫌っていたのは大いなる誤りであった。嫌われていた諸流も、用いられる清水も、源はただ大海から出た一水なのである。そうであるなら、川の水と呼んだとしてもただ大海の一水であるのを、別々の名前で呼んでいるにすぎない。それぞれ別の物と思って呼ぶことに罪があるのであり、ただ大海の一水と思っていずれをも心に任せて、縁に従って唱えたもてばよいことである、といって念仏でも真言でも、何れをも心に任せて持ち唱えるのです。
今この義に対してはこのように言いなさい。
与えていう時はそうであろうと思うけれども、奪っていう時は間違いなく地獄に堕ちる教義である。
その理由は、たとえ一人がこのように心得て、何をたもって唱えたとしても、万人がこの心根を得ていない時は、ただ偏見・偏情によって持ち唱えるので、一人は成仏したとしても、万人は皆地獄に堕ちる間違った考えの悪義である。爾前によって立てた法門の名言と、その法門の内に説かれる道理とは、所詮皆これは偏見であり偏情であって、「入邪見稠林・若有若無(誤った考えという森をさまよい、あるといったりないという)」等の権教である。
したがって、これらの名言をたもち唱え、これらの所詮の理を観ずれば、ただ心得たと思っている者も心得ていない者もすべて大地獄に堕ちるのである。心得たと思って唱えて持っている者は牛の蹄の足跡にたまった水に大海を納めているようなものである。これはかたよった考えの者である。どうして三悪道を免がれることができようか。また心得ていない者が唱えてたもつときは、もともと迷っている者であるから、間違った考えを持ち、権教に執着する心によって無間大城に堕ちることは疑いのないものである。
開会の後もソ教といって嫌って退けた悪法や名言やその究極の真理を唱えたもち、(妙法と)交えてはならないと見えるのです。
止観輔行伝弘決にこうある。
「相待・絶待ともに須スベカラく悪から離るべし。円に著す、尚悪なり。況や復余をや」
文の主旨は、相待妙の時も絶待妙の時もともにすべからく悪法から離れるべきである。円に執着することもなお悪である。ましてまた余の法においては、という文である。
円というのは満足という意味である。余というのは闕けているという意味である。
円教という十界が平等に成仏する法ですら執着することを悪であると退ける。ましてまた十界が平等に成仏することのない闕けた悪法に執着して、朝夕に、受持したり読誦したり解説したり書写することはなおさらである。
たとえ爾前の円を今の法華経に開会して入れたとしても、爾前の円が法華経の一味となる事は無い。法華経の体内に開会して入れられても、体内の権といわれて実とはいわない。体内の権を体外に取り出して、しばらく「於一仏乗分別説三(一仏乗において分別して三乗と説くのである)」(方便品)とする時、権教において円の名を付けて三乗の中の円教といわれたのである。
このことについて、昔からも金杖のたとえをもって、三乗にあてて議論する事があった。
たとえば、金の杖を三本に折り、一本ずつ三乗の機根に与えて、"何れもすべて金である。したがってどうして同じ金であるのに違いがあるとして勝劣を判じるのか"という議論である。
これは少し聞くと、そうかと思うけれども、悪い学者の心得違いである。
こういうべきである。
この義は、たとえば法華経の体内の権の金の杖を仏は三根[上根・中根・下根]にあてて、体外に三度打ち振られたのである。
その影を機根は気付かずに、すべて真実であると思って、自分勝手に解釈しているのである。
その真実は、金の杖を打ち折って三本にした事があるなら、今のたとえと合っているといえるが、仏は権の金の杖を折らずに三度振られただけであるのを、機根は三本になったと執着し得心したのである。かえすがえす不心得の大邪見である。大邪見である。
三度振ったのも、法華経の体内の権の功徳を体外の三根に配して三度振ったまでであり、全く妙体不思議の円実を振ったのではない。
したがって、体外の影の三乗を体内のもとの権の本体へ開会し入れるので、本の体内の権といわれても、全く体内の円とはならない。
この心をもって体内・体外の権実の法門を心得てわきまえるべきである。
次に禅宗の法門は、教外別伝・不立文字といったり、仏祖不伝といったり、修多羅の教は月をさす指のようなものであるといったり、即身即仏といって文字を立てず、仏祖にも依らず、教法も修学せず、画像・木像も信用しないといっている。
反詰していう。
仏祖不伝といわれるならば、どうしてインドの二十八祖・中国の六祖といって相伝されたのか。
そのうえ、迦葉尊者はどうして一枝の花房を釈尊かせ授けられて、微笑して心の一法を霊山で伝えたと自称するのか。
また祖師が無用ならば、どうして達磨大師を本尊とするのか。
また修多羅の法も無用なら、どうして朝夕の所作に真言陀羅尼を読むのか。首楞厳経・金剛経・円覚経等を談じたり、読誦するのか。
また仏や菩薩を信用しないのなら、どうして南無三宝と行住坐臥に唱えるのか、と責めなさい。
次に聞いたこともない知らない言葉をもって、いろいろ狂ったことをいうなら、こう言いなさい。
そもそも機根には上中下の三根がある。したがって法門も三根に与えて説く。禅宗の法門にも理致・機関・向上といって三根に配して法門を示されています。
あなたは私の機根を三根の中の何れと考えて、聞いたことない知らない法門を仰るのか。
また、理致の分ですか、機関の分ですか、向上の分ですか、と責めなさい。
理致とは、下根に道理を言い聞かせて禅の法門を知らせる名目である。
機関とは、中根にはどのようなものが本来の面目かと問えば、庭前の柏樹子などと答えるような言葉遣いをして禅法を示すことである。
向上とは、上根の者の事である。この機根は祖師より伝えず、仏よりも伝えず、自分で禅の法門を悟る機根である。
迦葉が霊山で微笑して花に依って心の一法を得たという時は、中根の機根である。
所詮、禅の法門という事は、迦葉が一枝の花房を得たときから出来した法門である。
そもそも伝えた時の花房とは木の花か草の花か。五色の中ではどのような色の花か。また花の葉は何重の葉か。このようにくわしく尋ねなさい。
この花をありのままに言い出す禅宗がいたら、実に心の一法を一分得た者と知ることができる。
しかし、たとえ得たといっても、真実の仏意には叶うことはできない。なぜかというと、法華経を信じないからである。
この主旨は法華経の方便品の末の長行にくわしく説かれている。詳細は引いて拝見されなさい。
次に禅の法門は、とにかく物に執着することから離れなさいと教える法門である。
左といえばそれも情である、右といえばそれも情であるなどと、あちらこちらへすべってとどまらない法門である。
それを責めるには、他人の情に執着することだけを論じて、自分の観念に執着してとらわれていることを知らないところである。
いうべきことは、あなたは人の情ばかり責めるけれども、あなた自身の情を情と執着する情をどうして離れないのかと反詰しなさい。
だいたい法として三世諸仏が説かずに残された法は無い。あなたは仏祖不伝といって、仏祖からは伝わっていないというなら、さては禅法は天魔の伝える法門となるがどうか。そのため、あなたは断・常の二見を出ていないので、無間地獄に堕ちる事は疑い無い、と言って、何度も彼等がいう言葉で、ややもすれば自分が詰まることになる。しかし、非学匠は理に詰まらずといって、他人の道理も自身の道理も聞かないし知らない。これを暗証の者というのである。
すべて理に折れない。たとえば、行く水に絵を描くようなものである。
次に即身即仏というが、即身即仏という道理を立てよと責めなさい。
その道理を立てずに、無理にただ即身即仏というなら、例の天魔の義であると責めなさい。
ただ即身即仏という名目を聞くと、天台法華宗の即身成仏の名目を使って盗み取り、禅宗の家で使っていると思われる。したがって、法華経で立てる様な即身即仏なのかどうかと責めなさい。もしその義も無く、強いて名目を使うのなら、使われる言葉は無障礙の法である。たとえば、庶民の身で国王と名乗る者のようなものである。いかに国王と言おうとも、言葉には障りは無い。自分の舌の和かなるままに言おうが、その身はただの土民であり、卑しく嫌われる身である。また瓦礫を宝石という者のようなもので、石や瓦を宝石と言っても、かつて石が宝石になったためしはない。あなたがいう所の即身即仏の名目もこのようなことで、有名無実である。不便である。不便である。
次に不立文字というが、所詮文字というものを何なるものと心得てそのように立てられるのか。
文字はすべての衆生の心法の顕れた姿である。よって人の書いたものをもってその人の心根を知り判断することがある。
そもそも心と色法は不二の法であるから、書いたものをもってその人の貧福をも見ることができる。
したがって、文字はすべての衆生の色心不二の姿である。あなたがもし文字を立てなければ、あなたの色心も立てることはできない。あなたの六根を離れて禅の法門の一句でも答えてみなさいと責めなさい。あれこれ言おうとも、有と無の二見を離れることはない。無といえば無の見であると責めなさい。有といえば有の見であると責めなさい。いずれにしても[真理に]かなっていないことである。
次に修多羅の教えは月をさす指のようなものであるというのは、月を見た後は無用という義か。もしその義であるならあなたの親も無用という義か。また師匠は弟子のために無用か。また大地は無用か。また天は無用か。
なぜかというと、父母はあなたを出生するまで必要としても、あなたを出生した後は無用であろう。人の師から物を習い極めるまでは必要であるが、習い終わった後は無用であろう。天は雨露を下すまでであって、雨が降った後は天は無用である。大地は草木を出生するためのもので、草木を出生した後の大地は無用である。このように言う者のようなものである。
これを世俗の者のたとえで、喉もと過ぎれば熱さを忘れ、病が愈えれば医師を忘れるという。たとえに少しも違わず相似している。
所詮、修多羅といっても文字である。「文字は三世諸仏の気命である」と天台大師も説明されている。天台は中国・禅宗の祖師の中に入っている。どうして祖師の言葉を嫌うのか。そのうえ、あなたの色心である。そもそもすべての衆生の三世に渡る不断の色心である。どうしてあなたは本来の面目を捨て不立文字というのか。
これは昔、家を移るときに自分の妻を忘れてきた者のようなことである。真実の禅法をどのようにして知ることができるのか。哀れな禅の法門であると責めなさい。
次に華厳・法相・三論・倶舎・成実・律宗等の六宗の法門であるが、いかに花を咲かせても破折しやすい。対処の方法は言わせるだけ言わせた後、南都の帰伏状をただ読み聞かせるだけである。既に六宗の祖師が帰伏の状を書いて桓武天皇に奏上している。したがって、その帰伏状は比叡山に納められている。そのほか内裏にも記されている。諸学者の家々にも記し留められて今に伝わっている。
それ以来、華厳宗等の六宗の法門は、末法の今に至るまで一度も頭をさし出していない。どうして今新たに捨られた権教・無得道の法が真実であるように思って、このように仰るのか。理解できないと責めなさい。
次に真言宗の法門であるが、まず真言三部経は大日如来の説か釈迦如来の説かと尋ねなさい。たしかに釈迦の説であると言ったなら、釈尊は五十年の説教において已今当の三説を分別されている。その中では大日経等の三部は何れの分におさまっていますかとこう尋ねなさい。
三説の中では、どこそこにおさまっていると言うなら、例の法門でたやすい問答である。
もし法華経と同時の説である。義も理も法華経と同じであると言ったならば、法華経は純円一実の教であり、かつてより方便を交えて説かれた事はない。大日経等は四教を含んだ経である。どうして時も同じ義も理も同じと言うのか。誤りであると責めなさい。
次に大日如来の説法であると言うなら、大日如来の父母と生まれた所と死んだ所を詳しく論じなさいと問いなさい。
一句一偈も大日の父母について説かれている所はない。生死の所もない。有名無実の大日如来なのである。したがって、ことに法門は責めやすいのである。
もし法門の究極の理を言うなら、教主の有無を定めて、説教の得と不得を極めるべきである。
たとえ至極の理密・事密を論じようとも、訳者にも誤訳はある。法華経の極理を盗み取って、事密真言などと立てられているのだろう。不審なことである。
これによって法門の勝劣は教主の有無によって論じるべきである、と責めなさい。
次に大日如来は法身である[から勝れている]と言うなら、法華経から「未顕真実」と嫌い捨てられた爾前権教にも法身如来と説かれている。どうして不思議なのかといいなさい。もし、無始無終[であるから尊い]などと言って、尊い理由を立てて言うなら、大日如来に限らず私たちすべての衆生・ケラ・アリ・カ・アブ等に至るまで、みな無始無終の色心である。衆生は有始有終と思うのは外道の僻見である。あなたは外道と同じであるのかといいなさい。
次に念仏は浄土宗が用いる義である。これまた権教の中の権教である。
たとえば夢の中の夢のようなもので、有名無実にしてその実は無いのである。すべての衆生が願っても無意味である。
したがって、いう所の仏も有為無常の阿弥陀仏である。どうして常住不滅の道理に及ぼうか。
したがって日本の根本大師[伝教]の解釈でこういわれている。
「有為の報身仏は夢中の権果である。無作の三身は覚前の実仏である」と言われて、阿弥陀仏等の有為無常の仏をおおいに戒め捨てられている。
既にたのむ所の阿弥陀仏が有名無実であり、名のみがあってその実体がないのであるから、往生できる道理を詳しく須弥山のように高く立て、大海のように深く言おうとも、何の意味もない。
また経論に正しい明文があるというならば、明文はあっても「未顕真実」の文である。
浄土の三部経に限らず、華厳経等をはじめとして、いずれの経・教・論・釈にも成仏の明文がある。
しかしながら、権教の明文である時は、あなた方の執着は拙いことであり、経論に無い僻事である。
何れも法門の道理を宣べ飾り、依経を立ててはいるが、夢の中の権の仏果であって、無用の義と成るであろう。
つくづく残念である。