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一代聖教大意いちだいしょうぎょうたいい

四教は一には三蔵教・二には通教・三には別教・四には円教である。
はじめに、三蔵とは阿含経の趣意である。
この経の趣意は六道以外は明かしていない。ただし六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)の内の因果の道理は明かしている。
ただし、正報については十界を明かしている。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏である。依報は六つであるから六界という。この教えの趣意は六道以外を明かしていないので、三界[欲界・色界・無色界]以外に浄土という世界があるといわない。また、三世に仏は次第次第に出現するとはいっても、横に(並んで同時に)十方に仏がいるとはいっていない。
三蔵とは一には経蔵(また定蔵という)、二には律蔵(また戒蔵という)、三には論蔵(また慧蔵という)である。
ただし経律論の定戒慧・戒定慧・慧定戒ということもある。戒蔵とは五戒・八戒・十善戒・二百五十戒・五百戒である。定蔵とは味禅(禅を定と名づく)・浄禅・無漏禅である。慧蔵とは・苦・空・無常・無我の智慧である。
戒定慧の勝劣というのは、ただ上に述べた戒だけを持つ者は三界の内の欲界の人・天に生を受ける凡夫である。ただ上述の定だけを修行する人は、戒を持たないけれども、定の力によって上述の戒を具えている。この定の内にある味禅・浄禅(を修行する人)は三界の内の色界・無色界へ生じる。無漏禅(を修行する人)は声聞・縁覚となって見思惑[三界六道の苦果を招く惑]を断じ尽くし灰身滅智する。
慧はまた苦・空・無常・無我と自分の色心を観ずるので上述の戒・定を自然に具足して声聞・縁覚ともなる。故に戒より定は勝れ、定より慧が勝れる。
しかし、この三蔵教の趣意は戒が本体である。したがって、阿含経を総結する遺教経には戒を説いているのである。この教の趣意は依報には六界、正報には十界を明かしているが、依報にしたがって六界を明かす経と名づける。また正報では十界を明かしているが、縁覚・菩薩・仏も声聞の悟りに過ぎないので、ただ声聞教ともいう。したがって、仏も菩薩も縁覚も灰身滅智する教えである。
声聞について七賢・七聖の位がある。六道は凡夫である。
七賢 智ということである
三賢(外凡)
一 五停ジヨウ心
二 別想念処
三 総想念処
四善根(内凡)
一 ナン法
二 頂法
三 忍法
四 世第一法
この七賢の位は六道の凡夫より賢く、生死を厭い煩悩を具えながら煩悩をおこさない賢人である。例えば外典の許由や巣父がそうである。
五停心
一 数息シユソク 息を数えて散乱を治す
二 不浄 身の不浄を観じて貪欲を治す
三 慈悲 慈悲を観じて嫉妬を治す
四 因縁 十二因縁を観じて愚癡を治す
五 界方便 地水火風空識の六界を観じて障道を治す。または念仏という
別想念処
一 身 外道は身を浄といい、仏は不浄と説かれる
二 受 外道は三界を楽といい、仏は苦と説かれる
三 心 外道は心を常といい、仏は無常と説かれる
四 法 外道は一切衆生に我があるといい、仏は無我と説かれる
外道は心が常、受は楽、法は我、身は浄と説き、仏は苦・不浄・無常・無我と説く。
総想念処とは先の苦・不浄・無常・無我を修練して観じることである。
ナン法は智慧の火ょもって、煩悩の薪を蒸すと煙が立つようなものである。故にナン法という。
頂法は山の頂に登って四方を見るとき雲が無いようなものである。
世間・出世間の因果の道理をくわしく知って、暗いことが無いのに譬えたものである。初めの五停心からこの頂法に至るまでは退位といって悪縁にあえば悪道に堕ちる。しかし、この頂法の善根は消えないと習う。忍法はこの位に入る人は永く悪道に堕ちない。世第一法はこの位に至る賢人である。やがて聖人となるのである。
七聖三 正ということである
一 見道 二 随信行―鈍根、随法行―利根
二 修道 三 信解―鈍根、見得―利根、身証―利鈍にわたる
三 無学道 阿羅漢 二 慧解脱 鈍根、倶解脱 利根
見惑・思惑の煩悩を断ずる者を聖という。この聖人に三道がある。見道とは見思惑の内の見惑を断じ尽くす。この見惑を断じ尽くす人を初果の聖者という。
この人は、欲界の人界・天界には生まれるけれども、長い間地獄・餓鬼・畜生・修羅の四悪趣には堕ちない。
天台大師は述べている。
「見惑を破るゆえに四悪趣を離れる」
しかし、この人はまだ思惑を断じておらず、貪・瞋・癡が残っている。身に貪欲があるために妻を帯する。しかし他人の妻は犯さない。瞋恚シンニ[いかり]があるがいきものを殺さない。鋤で大地をすけば虫は自然に四寸[12cm]離れる。愚癡であるために我が身が初果の聖者とは知らない。
婆娑論にこうある。
「初果の聖者は妻を八十一回一晩に犯すと」(取意)
天台大師の解釈にこうある。
「初果(の聖者)が大地を耕すとき虫が四寸離れるのは道共戒[煩悩を断ち切った聖者が得る戒]の力である」
第四果の聖者である阿羅漢を無学といい、または不生という。
長い間見思惑を断じ尽くして、三界六道でこの生が尽きた後、(再び三界に)生まれることはない。見思の煩悩がないからである。
またこの教えの趣意は、三界六道以外に他の場所を明かさないので、(来世に仏に)生まれる所があると知らず、身に(見思惑以外の)煩悩があるとも知らない。
また、(三界に)生まれる因がなく、ただ灰身滅智といって、身も心も滅し大空のようになると習う。法華経でなければ長い間仏になれないというのはこの二乗である。
この教えの修行の期間は、鈍根の声聞は三生、利根の声聞は六十劫である。また同類の最上利根の声聞は一生の内に阿羅漢の位に登る事もある。
鈍根の縁覚は四生、利根の縁覚は百劫である。菩薩は一向に凡夫であり、見思惑を断じない。しかも四弘誓願をおこし、六度万行を修し、三僧祇・百大劫を経て三蔵教の仏と成る。仏と成る時、はじめて見思惑を断じ尽くす。
見惑とは、一には身見または我見という。二には辺見または断見常見という。三には邪見または撥無ハツム見という。四には見取見または劣謂勝見という。五には戒禁取見または非因計因非道計道見という。
見惑には八十八あるけれどもこの五つが根本である。
思惑とは、一には貪・二には瞋・三には癡・四には慢である。
思惑には八十一あるけれどもこの四つが根本である。
この法門は、阿含経四十巻・婆沙論二百巻・正理論・顕宗論・倶舎論につぶさに明かされている。別して倶舎宗という宗がある。また諸の大乗経にこの法門が少々明かされていることがある。つまり方等部の経や涅槃経等である。ただし華厳・般若・法華にはこの法門は無い。
次に通教とは大乗のはじめである
また戒定慧の三学がある。この教えの趣旨・大旨は六道を出ない。しかし少分の利根の菩薩は六道の外に進み出ることがある。声聞・縁覚・菩薩はともに一つの法門を習い、見思惑を三人とも断じ、しかも声聞・縁覚として灰身滅智の理に入る者もあり、入らない者もある。
この教に十地がある。
十地について
一 乾慧地 三賢 賢人
二 性地 四善根 賢人
三 八人地 見道位聖人 見惑を断じる
四 見地 初果の聖人 見惑を断じる
五 薄地 思惑を断じる
六 離欲地 思惑を断じる
七 已弁地 阿羅漢 思惑を断じる 見思を断じ尽くす
八 辟支仏地 習気を尽くす
九 菩薩地 誓って習気を帯びて三界に生じる
十 仏地 見思を断じ尽くす
この通教の法門はとくに一経に限らず、方等経・般若経・心経・観経・阿弥陀経・雙観経・金剛般若等の経に散在している。
この通教の修行の期間は、動踰塵劫を経て仏に成ると習う。
また利根の菩薩の一類は速やかに成るということもある。
以上、上述の蔵・通二教には六道の凡夫に本来仏性があるとも説かない。はじめて修行すれば、声聞・縁覚・菩薩・仏と思い思い(の境界)に成ると説く教えである。
次に別教もまた戒定慧の三学を説く。
この教えはただ菩薩だけのものであり、声聞・縁覚を交えない。
菩薩戒とは三聚ジユ浄戒[摂律儀戒・摂善法戒・摂衆生戒]である。
五戒・八戒・十善戒・二百五十戒・五百戒・梵網経の五十八の戒・瓔珞ヨウラク経の十無尽戒・華厳経の十戒・涅槃経の自行の五支戒・護佗の十戒・大智度論の十戒、これらはすべて菩薩の三聚浄戒の内の摂律儀戒である。
摂善法戒とは八万四千の法門を収めている。
饒益有情戒とは四弘誓願である。定とは観照・鍛錬・熏熟・修治の四種の禅定である。慧とは心生十界の法門である。
(別教では)五十二位を立てる。
五十二位とは一に十信、二に十住、三に十行、四に十回向、五に十地、等覚(一位)、妙覚(二位)である。以上五十二位。
五十二位
十信 退位 凡夫・菩薩 未だ見思惑を断じていない
十住 不退位 見思惑・塵沙惑を断じる菩薩
十行 不退位 見思惑・塵沙惑を断じる菩薩
十回向 不退位 見思惑・塵沙惑を断じる菩薩
十地 無明を断じる菩薩
等覚 無明を断じる菩薩
妙覚 無明を断じ尽した仏である
この教えは大乗である。戒定慧を明かす。この戒は前の蔵・通の二教(の戒)に似ず尽未来際の戒であり、金剛宝戒である。この教の菩薩は三悪道を恐ろしいとしないで、二乗道を恐れる。地獄・餓鬼・畜生等の三悪道は仏の種子を断じないが、二乗の道は仏の種子を断じるからである。大荘厳論に「常に地獄に住むといっても、大菩提を得る妨げにならない。もし自利の心を起こすなら、これは大菩提の妨げになる」と説かれている。この教の習いは真の悪道とは三無為の火キョウをいう。真の悪人とは二乗をいうのである。したがって、「悪を造るとも二乗の戒を持たない」と説く。ゆえに大般若経に「もし菩薩がたとえ恒河沙劫に妙なる五欲を受けるとも、菩薩戒においてはなお犯と名づけない。もし一念に二乗の心を起こすなら、即ち名づけて犯とする」とある。
この文の妙なる五欲とは色・声・香・味・触の五欲である。色欲とは青い黛・玉と雪・白い歯等声、欲とは絲竹管絃[音楽]、香欲とは沈香や栴檀の芳しい薫り、味欲とは猪や鹿等の(肉の)味、触欲とは柔肌等である。ここに恒河沙劫の間執着しても菩薩戒は破れない。一念でも二乗の心を起こすと菩薩戒は破れるという文である。
太賢の古迹記にこうある。
「(菩薩が)貪りに汚されるといっても、大菩提心が尽きないかぎり完全な犯とはならない。(貪りを)起こしても無犯と名づける」
二乗戒に趣くことを菩薩の破戒というのである。華厳・般若・方等、総じて爾前の経では強いて二乗をきらう。定と慧についてはこれを略す。
梵網経にこうある。
「戒をたとえて大地となし、定をたとえて室宅となす。智慧は灯明である」
この菩薩戒は人・畜・黄門[性的不能]・二形[両性]の四種を嫌わないで、ただ一種の菩薩戒を授ける。この教えの趣意は五十二位を一々の位に多倶低劫を経て、衆生界を尽くして仏に成るのである。一人として一生に仏に成る者はいない。また一つの修行だけで仏に成る事はない。すべての修行を積んで仏と成る。微塵を積んで須弥山とするようなものである。華厳・方等・般若・梵網・瓔珞等の経にこの旨が明らかである。ただし二乗界がこの戒を受ける事を嫌う。
妙楽大師の釈にこうある。
「法華経以前の諸経を調べるとに実に二乗作仏の文はどこにもない」
次に円教とは。
この円教に二種類ある。一つには爾前の円・二つには法華・涅槃の円である。
爾前の円に五十二位あり、また戒定慧がある。爾前の円とは華厳経の法界唯心の法門がそれである。
華厳経に「初発心の時、直ちに正覚を成ず」と、また「円満修多羅」とある。
浄名経に「我がなく造がなく、受者がないけれども、善悪の業は滅しない」とある。
般若経に「初発心から即座に道場に坐す」とある。
観無量寿経に「韋提希は時に応じて速やかに無生法忍を得る」とある。
梵網経に「衆生が仏戒を受ければ位は大覚[妙覚]に同じ、即座に諸仏の位に入り、真にこれは諸仏の子である」
これらはすべて爾前の円の証文である。
この教の趣意はまた五十二位を明かす。名は別教の五十二位のようであるが義は異なる。その理由は五十二位が互いに具わり浅深もなく勝劣もない。凡夫も位を経なくとも仏に成り、また往生するのである。煩悩も断じないけれども仏に成る障りはなく、一善一戒をもってしても仏に成る。少々開会の法門を説くところもある。いわゆる浄名経には、凡夫を(開いて仏に)会入し、煩悩や悪法も皆会入する。ただし二乗は会入しない。般若経の中には二乗の所学の法門は開会しているが、二乗の人と悪人は開会していない。観経等の経に凡夫が少しの煩悩をも断じないで往生すると説くのはすべて爾前の円教の心である。法華経の円経は後に書く。以上四教。
次に五時について。
五時とは。
一には華厳経(結経は梵網経)、別・円の二教を説く。
二には阿含経(結経は遺教経)、ただ三蔵教の小乗の法門を説く。
三には方等経・宝積経・観経等である。その説時は知られていない。権大乗経が説かれた(結経は瓔珞経)。ただし蔵・通・別・円の四教をすべて説く。
四には般若経(結経は仁王経)、通教・別教・円教の後三教を説く。三蔵教は説かない。
華厳経は三七日[二十一日]の間の説・阿含経は十二年の説・方等と般若は(合わせて)三十年の説である。以上、華厳経より般若経に至る四十二年である。比叡山の説では方等は説時が定まらず、説いた所も定まらない。般若経は三十年といっている。三井寺の説では方等は十六年・般若は十四年といっている。(証真の)秘蔵の大事の説では方等・般若は説時三十年である。ただし方等が前・般若は後といっている。
仏は十九歳で出家されて、三十歳で成道されたと定める事は大智度論に出ている。釈尊一代の聖教が五十年という事は涅槃経にある。法華経以前の(説時が)四十二年という事は無量義経に出ている。法華経(の説時が)八箇年という事は涅槃経の五十年の文と無量義経の四十二年の文の間を考えると八箇年となる。
以上のことから十九歳出家・三十歳成道・五十年の転法輪・八十歳入滅と定めるべきである。
これらの四十二年の説教はすべて法華経に導くための方便である。その理由は無量義経にこうある。
「私は先に道場の菩提樹の下に端坐すること六年にして、阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得た。[中略]方便力をもって(種々の法を説いた)。四十年余りには未だ真実を顕さなかった。初めに四諦を説いた。阿含経である。次に方等十二部経・摩訶般若華・厳海空を説いた」
私見をいえば、説法の順序に従うと、華厳・阿含・方等・般若・法華・涅槃である。法門を浅深の順序に並べると、阿含・方等・般若・華厳・涅槃・法華と並ぶのである。したがって、法華経・涅槃経にはこのとおりに説いている。
華厳宗という宗は、智厳法師・法蔵法師・澄観法師等の人師が華厳経を依教として立てた。
倶舎宗・成実宗・律宗は宝法師・光法師・道宣等の人師が阿含経を依教として立てた。
法相宗という宗は玄奘三蔵・慈恩法師等が方等部の内の弥勒上生経・弥勒下生経・弥勒大成仏経・解深密経・瑜伽師地論・成唯識論等の経論を所依として立てた。
三論宗という宗は般若経・百論・中論・十二門論・大論等の経論を所依として吉蔵大師が立てられた。
華厳宗というのは華厳経と法華経・涅槃経は同じく円教として立てる。その他はすべて劣るといっている。
法相宗では解深密経と華厳経・般若経・法華経・涅槃経は同じ程度の経といっている。
三論宗では般若経と華厳経・法華経・涅槃経は同じ程度の経という。ただし、法相宗の依経や多くの小乗経は劣ると立てる。
これらはすべて法華経以前の諸経を依教として立てた宗である。爾前の円を極理として立てた宗なのである。それぞれの宗の人々は争っているが、経々に依って勝劣を判じる時は、間違いなく法華経が勝れている。人師の釈によって勝劣を論ずる事はない。
五には法華経というのは開経として無量義経一巻・法華経八巻、結経として普賢経一巻がある。先の四教・四時の経論を書き挙げたのは、この法華経を知るためである。法華経の習いとして前の諸経を習わなくては永く肝心を得ることはできない。爾前の諸経は一経一経を習うときに、また他の経を検討しなくとも問題はない。
ゆえに天台大師の釈にこうある。
「もし余経を弘めるには教相を明かさなくとも義において傷むことはない。もし法華を弘めるには教相を明さなければ文義において闕けることがある」
法華経にはこうある。
「種々の道を示すといえども、それは実には仏乗の為である」
「種々の道」というのは爾前の一切の諸経である。「仏乗の為」とは法華経の為に一切の経を説くという文である。
問う。
諸経の類は、菩薩のために、また人・天のため、また声聞・縁覚のため、機根によって法門もかわり利益もかわる。この(法華)経はどのような人のためのものか。
答える。
この経は相伝でなければ知り難い。所詮、悪人・善人・有智・無智・有戒・無戒・男子・女子・四悪趣・八部、総じて十界の衆生のためである。
いわゆる悪人とは、提婆達多・妙荘厳王・阿闍世王である。善人とは韋提希等の人界・天界の人である。有智とは舎利弗、無智とは須利槃特である。有戒とは声聞・菩薩、無戒とは竜・畜生である。女人とは竜女である。
総じて十界の衆生は純円の一法を悟る。このことを知らない学者が、法華経は私たち凡夫のためではないなどといっている。仏意(に反していると)恐れるべきである。
この(法華)経にこうある。
「一切の菩薩の阿耨多羅三藐三菩提はすべてこの経に属する」
この文の菩薩とは九界の衆生・善人・悪人・女人・男子・三蔵教の声聞・縁覚・菩薩・通教の三乗・別教の菩薩・爾前の円教の菩薩は、すべてこの経の力でなければ仏に成れないという文である。
またこの経にこうある。
「薬王よ、多くの人がいて、在家・出家の菩薩の道を修行しているが、もしこの法華経を見聞ケンモンし、読誦し、書持し、供養することができなければ、まさに知るべきである。この人は未だ善く菩薩の道を修行していないと。もしこの経典を聞くことを得ることがあれば、すなわちよく菩薩の道を修行するのである」
この文は明らかに権教の菩薩が、三祇・百劫・動踰塵劫・無量阿僧祇劫とい長い間に修する六度万行・四弘誓願は、この経に至らなければ菩薩の修行ではない。善根を修したのでもないという文である。また菩薩の修行がなければ仏にも成らないことも明白である。
天台大師や妙楽大師が末代の凡夫を勧めて述べた文がある。
法華文句にこうある。
「好堅樹コウケンジユは地中にあるとき、牙はすでに百囲の大きさである。カリョウビンガは殻の中で雛であっても、美声は他の多くの鳥よりも勝れている」
この文は法華経の五十展転の第五十の功徳を説明する文である。仏がねんごろにこの功徳と他の功徳を比べて説かれるには、権教の長期間の修行や大聖[仏]の功徳よりも、この経にしばらくでも結縁した愚人の随喜の功徳のほうが百千万億倍勝れているということが法華経にあり、この趣意を天台大師がたとえをもって解釈されたものである。好堅樹という木は一日に百囲も高く育つ。頻伽という鳥は幼鳥でさえ多くの大小の鳥の声より勝れている。権教の修行の長いことを多くの草木が遅く生長することにたとえ、法華経の修行で速やかに仏に成る事を一日に百囲成長することにたとえ、権教の大小の聖人を多くの鳥にたとえ、法華経の凡夫の弱さが頻伽の声が多くの鳥よりも勝れていることにたとえているのである。
妙楽大師は重ねてこう説明されている。
「おそらくは、(他宗の)人が誤って解釈し、初心の功徳が広大であることを知らないで、功徳を上位に譲り、この初心者をあなどる。故に今その修行が浅く、功徳が深いことを示して経の力をあらわす」
末代の愚者が"法華経は理が深く尊いが、私たちの下劣な機根にあわない"と言って、法をあげ機根を下して退転する者について説明された文である。
また妙楽大師は末代にこの法華経が捨てられることを歎いてこう述べている。
「この円頓(の教法)を聞いて崇重しない者は、まことに近代[唐代]に大乗を習う者が乱すことによって起こるのである。まして像法・末法になると人情も薄くなり、信心のある者も少なくなり、円頓の教法は経蔵にあふれ、経函に満ちていても、少しも思索せずすぐに目をふさぐことになる。いたずらに生まれていたずらに死んでいく。いかに痛ましいことか。ある人が言うには、(法華経を)聞いて修行しなければ、あなたになんの利益があるだろうか、と。これは未だ深く久遠の利益を知らないもののいうことである。善住天子経には、『文殊舎利菩薩が舎利弗に告げた。正しい法を聞いて誹謗し、地獄に堕ちる者はガンジス河の(砂の数ほどの)仏を供養する者に勝れている。なぜかというと、地獄に堕ちるといえども、地獄より出てかえって法を聞くことができる』とある。これは仏を供養しながら、法を聞かない者をと比較して述べたものである。法を聞いて誹謗してさえ、法に縁したことにより下種となる。まして法を聞いて思索と人に勤めて修習することは(なおさら功徳となる)」
またこう述べている。
「一句でも心肝に染めれば、ことごとく彼岸[悟り]に至るたすけとなる。思惟・修習は永く(生死海の)航海に有用である。随喜・見聞は常に主や伴となる。法華経をとるにせよ、捨てるにせよ、耳にしたことが縁と成、法華経にしたがっても背いても、ついにはこれによって得脱するのである」
私見を述べれば、もしくは取る・もしくは捨てる・あるいはしたがう・あるいは背くの文は肝に銘じるところである。
法華翻経の後記にこうある。釈尊の末弟子・僧肇が記す。
「什羅什三蔵であるが姚興ヨウコウ王に対して述べた。私は昔天竺国[インド]にいた時、広くインドに遊学して大乗教を尋ね究め、大師・須梨耶蘇摩シユリヤソマに従って大乗り法理を受けた時、頂を撫でてこの経を相伝して言われた。仏の日が西に隠れ、遺光が東北を照らす。この経典は東北の諸国に有縁である。あなたは慎んで伝え弘めよ、と」
私見ではインドからこの日本は東北の国である。慧心の一乗要決に「日本一国は円機・純熟の機根で、朝廷も在野も遠方も近隣も、同じく一乗に帰依し、僧侶も在家も貴きも賤きもことごとく成仏を期すべきである。ただ(法相宗の)一師等がいて、もし信受しないで権としたり実としたりする。権とするならば責めなさい」とある。
浄名経には「種々の魔事を覚知して、その行に随わない。善の方便力をもって意に随って救う。方便を真実と見誤るならば、憐れむべきである」とある。
この経にには「未来世の悪人は仏説の一乗を聞いて迷い惑って信受しない。法を破って悪道に堕ちる」とある。
妙法蓮華経の妙について、天台大師は法華玄義で「言う所の妙とは妙は不可思議に名づける」と述べている。また「秘密の奥蔵をひらく。これを称して妙とする」とある。また「妙とは最勝の修多羅[経]であり、甘露の門である。故に妙というのである」とある。
法は法華玄義に「言う所の法とは十界十如・権実の法である。また「権実の正しい規範を示す。故に号して法とする」とある。
蓮華は法華玄義に「蓮華とは権実の法にたとえるのである」とある。また「久遠実成の仏果を指す。これをたとえるのに蓮を用い、(権実)不二の円妙の道に会入する。これをたとえるのに華を用いる」とある。
経はまた「声は仏事をなす。これを称して経という」とある。
私見を述べると、法華経以前の諸経のうちで、小乗は「(迷う)心が生ずれば六界であり、(迷う)心が滅すれば四界である」と説く。通教もまた同様である。しかし、爾前の別・円の二教は「心から十界が生じる」と説く。小乗の趣意は「六道・四生の苦楽は衆生の(迷う)心より生ずる」と習う。したがって迷う心が滅すれば六道の因果は無いのである。大乗の趣旨は「心から十界を生ずる」と教える。
華厳経にこうある。
「心は巧みなる画師のように種々の五陰を造る。一切の世界の中で法として造らないものはない」
「造種種五陰」とは、十界の五陰を作るということである。仏界をも心法をも造ると習う。心が過去・現在・未来の十方の仏と顕れると習うのである。
華厳経にまたこうある。
「もし人が三世の一切の仏を悟り知ろうとすれば、まさにこのように観るべきである。心が諸モロモロの如来を造ると」
法華経以前の経のおきては、上品の十悪は地獄の引業[引き起こす業因]であり、中品の十悪は餓鬼の引業であり、下品の十悪は畜生の引業であり、五常は修羅の引業であり、三帰・五戒は人の引業であり、三帰・十善は六欲天の引業である。有漏の坐禅は色界・無色界の引業である。五戒・八戒・十戒・十善戒・二百五十戒・五百戒の上に苦・空・無常・無我の観法は声聞・縁覚の引業である。五戒・八戒から三聚浄戒の上に六波羅蜜・四弘誓願の菩提心をおこすのは菩薩であり、仏界の引業である。蔵・通二教には仏性の定めはない。ただし菩薩の発菩提心を仏性という。別・円二教では衆生の仏性を論じる。ただし別教の趣意は二乗に仏性はないと説く。爾前の円教は別教に同調して二乗に仏性があると定めない。これらはすべてソ法である。
今の妙法とは、これらの十界を互いに具えると説くので妙法というのである。十界互具ということは十界のなかの一界に他の九界を具えることで、十界が互いに具わるので百法界である。法華玄義の二巻にこうある。
「また一法界に九法界を具えるので即ち百法界である」
法華経とはほかでもない。十界の因果は爾前の経に明かされているが、今(の法華経)は十界の因果の互具を定めていることにある。
爾前の経の趣意は、菩薩は仏に成ることができるが、声聞は仏に成ることができないと説いたので、菩薩は喜び、声聞は嘆き、人・天等は想像だにしないと述べている経もある。あるいは二乗は見思惑を断じて六道を出ようと思ったり、菩薩はわざと煩悩を断たずに六道に生まれて衆生を利益せんと思ったりする。あるいは菩薩の即身成仏を見たり、菩薩の長期間の修行を見たり、凡夫の往生の旨を説けば菩薩・声聞のためではないと見て、人の不成仏は自分の不成仏、人の成仏は自分の成仏、凡夫の往生は自分の往生、聖人の見思惑を断つことは私たち凡夫の見思惑を断つこととも知らず、四十二年を過ごしたのである。
ところが、法華経において十界互具が説かれた時、声聞の自調自度の身に菩薩界を具えることになり、六度万行も修せず、長い期間を経ない声聞が、多くの菩薩がかろうじて修行した無量無辺の難行道をも、その声聞に具えることになって、声聞が菩薩といわれ、人を責める獄卒や物惜しみし貪欲な凡夫もまた菩薩といわれるようになった。仏もまた修行の位になって菩薩界にいれられ、妙覚の仏でありながら等覚の菩薩となった。薬草喩品に声聞を説いてこうある。
「あなたたちの振る舞いは菩薩の道である」
また私たち六波羅蜜をも行じない者が六波羅蜜を満足する菩薩であるとの文は、無量義経に「いまだ六波羅蜜を修行することがないといっても、六波羅蜜は自然ジネンに具足する」と説かれている。私たち一戒をも受けない者が持戒の者といわれるとの文は、法華経に「これはすなわち勇猛である。これはすなわち精進である。これを戒を持ち頭陀を行ずる者と名づける」と説かれている。
問うていう。
諸経においても悪人が仏に成っている。華厳経の調達の授記、普超経の阿闍世王の授記、大集経の婆籔バソ天子の授記がそれである。また女性が仏に成るのは、菩薩処胎経の帝釈と女人の成仏がそれである。畜生が仏に成ることは、阿含経の家鳩と雀の授記である。二乗が仏に成るというのは方等陀羅尼経・首楞厳経等に説かれている。菩薩の成仏は華厳経等に説かれている。煩悩を具え縛られた凡夫の往生は観無量寿経の下品下生等である。女性が女の身を男性に転じて往生することは、雙観経の四十八願の中の三十五の願にある。これらは法華経の二乗・竜女・提婆菩薩の授記と何なる違いがあるのか。またたとえ違いがあっても諸経でも成仏は疑いないと考えるが、どうであるのか。
答える。
私が習い伝うる法門はこの答にあらわれる。この答で法華経は諸経に超過するか、また諸経が成仏を許すか許さないかがわかる。しかし秘蔵のためあらわに書かない。
問うていう。
妙法を一念三千というのはなぜか。
答える。
天台大師がこの法門を悟られた後、法華玄義十巻・法華文句十巻・覚意三昧・小止観・維摩経疏・四念処・次第禅門等の多くの法門を説かれたけれども、この一念三千は語られなかった。ただ十界・百界・千如の法門だけであった。御年五十七歳の夏、四月の頃、ケイ州の玉泉寺という所で、御弟子の章安大師という人に説いて聞かせられた魔訶止観十巻がある。上の四巻ではなお惜しんで説かれず、ただ六即・四種三昧等の法門であった。そして、五巻より十境・十乗を立てて一念三千の法門を書かれた。このことを妙楽大師は末代の人に勧進していわれている。
「並びに一念三千をもって指南とする[中略]願わくは尋ねて読もうとする者は心を他のものに奪われてはならない」
六十巻・三千枚の多くの法門は意味がない。ただこの(摩訶止観の)初めの二・三行を心得るべきである。
魔訶止観の五にこうある。
「一心に十法界を具える。一法界にまた十法界を具えれば百法界となる。一法界に三十種の世間を具えれば百法界には即ち三千種の世間を具える。この三千の諸法は一念の心にある」
妙楽大師がこの文を承けてこう説明されている。
「まさに知るべきである。身土(不二の)一念の三千である。故に成道の時、この本理にかなって一身一念は法界に遍満する」
日本の伝教大師が比叡山建立の時、根本中堂の場所として選んだ地中より舌が八つある鍵を引き出された。この鍵をもって入唐した時、天台大師より第七代・妙楽大師の御弟子である道邃和尚に会われ、天台の法門を伝へられた時、(伝教大師が)天性の才智が秀逸の人であったので、道邃和尚は喜んで天台の造られた十五の経蔵を開いて見せられた。しかし十四の蔵を開いて一つの蔵を開けなかった。そのとき、伝教大師は"師よ、この一蔵を開いてください"と願ったが、道邃和尚は"この一蔵は開くべき鍵がない。天台大師が自ら再びこの世に出られた開かれるのだ"といった。そのとき、伝教大師は日本から身につけてきた鍵で開いたところ、この経蔵は開き、経蔵の内より光が室内に満ちあふれた。その光のもとを探してみると、この一念三千の文から光を放っていた。世にも稀なことである。そのとは、道邃和尚はかえって伝教大師を礼拝され、天台大師の後身であるといわれたという。こうして天台大師の経蔵の典籍は残らず日本に渡ったのである。天台大師の御自筆の観音経・章安大師の自筆の魔訶止観は今比叡山の根本中堂に収められている。
四性計
一 自性 自力 迦毘羅外道
二 他性 他力 ウ楼僧伽外道
三 共性 共力 勒娑婆外道
四 無因性 無因力 自然外道
外道に三種類の人がいる。一には仏法外の外道(バラモン九十五種の外道)・二に附仏法成の外道(小乗の義をたてる外道)・三には学仏法の外道(妙法を知らない大乗の外道)である。
今の法華経は自力もたんなる自力ではない。十界の一切衆生を具える自己であるため、我が身に本来自己の仏界も一切衆生の他の仏界も具えている。したがって、今仏に成るというのも新たに仏になるのではない。また他力も単なる他力ではない。他仏も私たち凡夫自身に具わるので、また他の仏も私たちと同じように自ら現われるのである。共力と無因は省略する。
法華経以前の諸経は十界互具を明かしていないので、仏に成ろうと願うには必ず九界を厭って離れる。九界を仏界に具えないからである。したがって、必ず悪を滅し煩悩を断じて仏に成ると説く。凡夫の身を仏に具えるといわないからである。したがって、人・天・悪人の身を滅して仏に成るという。これを妙楽大師は厭離断九の仏と名づけている。したがって、爾前の経の人々は仏が九界の姿を現すことを、ただ仏の不思議な神変と思い、仏の身に九界がもとからあって現すとはいわない。したがって、事実をもって探ってみると、法華経以前にはただ権者の仏のみがあって、実の凡夫が仏に成ったことはない。煩悩を断ち九界を厭って仏に成ろうと願うけれども、実際には九界を離れた仏はないので、往生した実の凡夫もいない。人界を離れた菩薩界も無いので、ただ法華経の仏が爾前において十界の形を現して所化[弟子]とも能化[仏]とも悪人とも善人とも外道とも言われたのである。実際の悪人・善人・外道・凡夫は方便の権教を修行して真実の教えとの思いをなして過ごしてきたのだが、法華経に至ってあれは方便であった、実際には見思惑・無明惑も断じていなかった、往生もしていなかったと覚知するのである。一念三千は別に詳しく書くことにする。
この法華経には二つの妙がある。
(天台大師の)釈にこうある。[法華玄義]
「この経はただ二妙を論じる」
一には相待妙・二には絶待妙である。
相待妙の趣意は前の四時の一代聖教と法華経を相対して爾前経としてこれを嫌い、爾前を当分[限定された立場]と呼び、法華を跨節カセツ[更に広く立ち入った立場]という。絶待妙の趣意は一代聖教は即ち法華経であると開会する。
また法華経に二事がある。一には所開・二には能開である。
開示悟入の文[方便品]、あるいは「皆已成仏道」等の文、一部・八巻・二十八品・六万九千三百八十四字の一つ一つの字の下にすべて妙の文字がある。これらは能開の妙である。この法華経は(開会を)知らないで習い談じる者はただ爾前の経の利益を得るだけである。
阿含経を開会する文は(法華)経にこうある。
「私がこの九部の法は衆生に従い順じて説く。大乗に入るための準備である」
華厳経を開会する文は、「一切世間の天人及び阿修羅は皆思っている。今の釈迦牟尼仏」等の文である。
般若経を開会する文は安楽行品の十八空の文である。
観経等の往生安楽を開会する文は「ここにおいて命を終えて即ち安楽世界に往く」等の文である。
散善の開会の文は「ひとたび南無仏と唱えた者は皆すでに仏道を成じた」の文である。
一切衆生を開会する文は「今この三界は皆これ我が所有である。その中の衆生はことごとくこれ我が子である」(譬喩品)である。
外典の開会の文は「もし俗間経書、治世の語言、資生の業等を説くも皆正法にしたがう」である。
兜率開会の文、人・天の衆生の開会の文は繁多であるため出さない。
この(法華)経を心得ない人は経の文面にとらわれ、この経を読んで「人天に生ず(人天の中に生ずれば勝妙の楽を受ける)」と説く文を見て、あるいは「兜率天上の弥勒菩薩のみもとに往かん」・「この人は命を終えてトウ利天上に生ずべし」などの文を見て、あるいは「安養に生ずる(ここにおいて命を終えて、直ちに安楽世界の阿弥陀仏の大菩薩が囲繞する住処に往く)」の文を見て(誤解を生じ同じようにそうした他の国土に往生すると説いた爾前経を信じて)いる。穢土において法華経を修行しても、(法華)経は素晴らしいけれども、行者は不退の地に至らないので穢土において流転して、長い間五十六億七千万歳の晨アカツキ(弥勒菩薩が再びこの世に生まれて成仏し、衆生を救うとされる釈尊滅後の五十六億七千万年のとき)を期待する。あるいは人間や畜生等に生まれて、今の生と隔だっているため、自らの苦しみは限りが無いなどという。あるいは(法華経の修行は)自力の修行である。難行道である等という。
これは恐らくは爾前と法華の相違を知らないで、自ら愚かな闇に迷うだけではなく、一切衆生の仏眼を閉じる人である。
兜率往生を勧めていることは小乗経に多い。少しは大乗経にも勧めている。西方を勧めることは大乗経に多い。これらはすべて所開の文である。
法華経の真意は兜率に即して十方の仏土中、西方に即して十方の仏土中、人・天に即して十方の仏土中ということである。法華経が悪人に対して十界の悪を説くのは悪人も五眼を具えるとすることによって悪人の極悪を救うのである。女性に即して十界を説くのは十界すべて女性として成仏することを明かすのである。確かに法華によって完全なる菩提心を発こす人は迷いの九界へ悪業の力に引かれることはないのである。
この本意を知っていたのだろうか。法然上人も一向念仏の行者ながら、選択集という文には雑行・難行道にわけているが、法華経・大日経等を除いているところもある。詳しく見なさい。また慧心の往生要集にも(修行の勝劣を分けているが)法華経を除いている。たとう法然上人・慧心が法華経を雑行・難行道として末代の衆生の機根に叶わないと書かれようが、日蓮は全く用いない。一代聖教のおきてに相違し、三世十方の仏陀の誠言[真実の言葉]に相違するからである。ましてそのような教義はない。
ところが後の(浄土系の)人は消息で、法華経は難行道であり、経は素晴らしいが末代の衆生の機根に適さないといっている。
謗るならばこそ罪であろう。浄土に至って法華経を悟ればよいという。
日蓮の心は、間違いなくこの事は間違いと思っている。こういうのも間違いであろうか。よくよく智人に習うべきである。