同志と共に

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一念三千法門いちねんさんぜんほうもん

法華経が他の経に勝れていることは何か。
この経に一心三観・一念三千という法門がある。薬王菩薩が中国に出現して天台大師といわれ、この法門を悟られた。まず法華玄義十巻・法華文句十巻・覚意三昧・小止観・浄名疏・四念処・次第禅門等の多くの法門を説かれたが、この一念三千の法門は説かれなかった。百界千如の法門だけを説かれた。御年五十七歳の夏四月のころ、荊州の玉泉寺というところで、御弟子の章安大師に教えられた魔訶止観という文が十巻ある。上四帖にはまだ秘されていた。ただ六即・四種三昧等だけであった。五の巻に至って十境・十乗・一念三千の法門を立て、「そもそも一心に(十方界を)具える」等と説かれた。これより二百年後に妙楽大師が解釈して「まさに知ることができる。身土一念の三千である。故に成道の時この本理にかなって一身一念は法界に遍満する」といわれた。この一念三千・一心三観の法門は法華経の一の巻の十如是から起こっている。文の趣旨は百界・千如・三千世間である。
さて、一心三観とは他の宗では如是とする。これは間違いである。二つの義がかけている。天台大師と南岳大師の御義を知らないからである。したがって、当宗では天台の釈にしたがって三遍読む。そこに功徳は勝るのである。
第一に「是相如」と相・性・体・力以下の十を如という。如というのは空の義であるから十法界はすべて空諦である。これを読んで観ずる時は我が身は即報身如来である。八万四千又は般若ともいう。
第二に「如是相」、これは我が身の色と形に顕れる相である。これはすべて仮である。相・性・体・力以下の十であるから十法界はすべて仮諦といって仮の義である。これを読んで観ずる時は、我が身は即応身如来である。または解脱ともいう。
第三に「相如是」というのは中道といって仏の法身の形である。これを読んで観ずる時は、我が身は即法身如来である。または中道とも法性とも涅槃とも寂滅ともいう。
この三つを法・報・応の三身とも、空・仮・中の三諦とも、法身・般若・解脱の三徳ともいう。この三身如来は全く外にあるのではない。我が身が即三徳の究竟の体であり、三身即一身の本覚の仏である。このことを知るのを如来とも聖人とも悟りともいう。知らないのを凡夫とも衆生とも迷いともいう。
十界の衆生がおのおの互いに十界を具足する。合せれば百界である。百界におのおの十如を具えれば千如である。この千如是に衆生世間・国土世間・五陰世間を具えれば三千である。百界と顕れた色相[姿・形]は皆総て仮の義であるから仮諦の一義である。千如は総て空の義であるから空諦の一義である。三千世間は総じて法身の義であるから中道の一義である。法門が多いといえどもただ三諦である。この三諦を三身如来とも三徳究竟ともいう。はじめの三如是は本覚の如来である。終わりの七如是と一体であり無二無別であるから本末究竟等というのである。本というのは仏性、末というのは未顕の仏で九界の名である。究竟等というのは妙覚究竟の如来と理即の凡夫である私たちには差別が無いことを究竟等とも平等大慧の法華経ともいう。
はじめの三如是は本覚の如来である。本覚の如来を悟り出された妙覚の仏であるから、私たちは妙覚の父母であり、仏は私たちの所生の子である。
摩訶止観の一にこうある。
「止は則ち仏の母・観は即ち仏の父である」
たとえば、人が十人いるとして、各人が各蔵に宝を積んでいるのに、自分の蔵に宝のある事を知らず、飢えて凍え死ぬ。または一人この中に賢い人がいて気付くようなものである。九人は最後まで知らない。しかし、教えられて食べたり、口に含められて食べるようなものである。止観輔行伝弘決の一に「止観の二字は正しく聞体を示す。聞かない者は本末究竟等もいたずらであろう」とある。子であるけれども親より勝れていることは多い。重華チヨウカは頑固な父を敬って賢人の名を得た。沛公ハイコウは帝王となった後もその父を仰いだ。その敬われた父を全く王といわず、敬う子を王と仰ぐようなものである。仏は子であるが賢くあられるので悟り出された。凡夫は親であるが愚かで未だ悟らない。詳しい道理を知らない人は毘盧遮那仏の頂上を踏むなどと悪口を言うが、大いなる誤りである。
一心三観について「次第の三観」・「不次第の三観」ということがある。詳しく述べるには及ばない。
この三観を心得て成就したところを華厳経に「三界唯一心」と説いている。天台大師は「諸水入海」と述べている。仏と私たちすべて一切衆生は、理性において同一であり、隔てがないことを平等大慧という。平等と書いて"おしなべて"と読む。この一心三観・一念三千の法門は諸経にはまったくない。法華経に遇わなければどうして成仏できるだろう。他の経には六界・八界から十界を明かしているが、具足の義は明かしていない。法華経は念々に一心三観・一念三千の意義を観ずると、我が身は本覚の如来であることが悟り出され、無明の雲は晴れて法性の月が明らかになり、妄想の夢は醒めて本覚の月輪は清らかになり、父母の所生の肉身・煩悩具縛の身が即本有常住の如来となることができる。
このことを即身成仏とも煩悩即菩提とも生死即涅槃ともいう。
このとき、法界を照して見れば、ことごとく中道の一理であり、仏も衆生も一如である。
したがって天台大師の釈に「一色一香中道でないものはない」と解釈されている。
このときは、十方世界はすべて寂光浄土であり、どこを阿弥陀・薬師等の浄土といえようか。これをもって法華経に「この法は法位に住して世間の相は常住である」と説かれているのである。
では経を読まなくとも心地の観念だけで成仏できるかと思えば、一念三千の観念も一心三観の観法も妙法蓮華経の五字に納まっている。妙法蓮華経の五字はまた私たちの一心に納まっている。天台大師の釈に「この妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵・三世の如来の証得されたところである」とある。
さてこの妙法蓮華経を唱える時、心中の本覚の仏が顕れる。私たちの身と心を蔵にたとえ、妙の一字を印にたとえている。天台大師の釈に「秘密の奥蔵を発ヒラく。これを称して妙となす。権実の正軌を示すゆえに号して法となす。久遠の本果を指す。これをたとえるに蓮をもってする。不二の円道に会す。これをたとえるに華をもってする。声は仏事をなす。これを称して経となす」とある。また「妙とは不可思議の法をたたえるのである。また妙とは十界・十如・権実の法である」という。
経の題目を唱えることと観念は一体であると納得できない愚癡の人は思われるだろう。しかし天台大師は摩訶止観の二に"而於説黙ニオセツモク"と説いている。説とは経であり黙とは観念である。また四教義の一に「ただ功をむなしく捨てるものでないだけでなく、またよく理にかなうための要である」とある。
天台大師という人は薬王菩薩(の再誕)である。この大師が「説而観而」と説かれている。もとより天台大師の所釈に因縁・約教・本迹・観心の四種の釈がある。四種の解釈を知らなくて、一種類を見た人は一向に本迹をむねとし、一向に観心を面オモテとする。法華経(迹門)に法・譬・因縁という三説がある。法説の段に至って諸仏出世の本懐は一切衆生の成仏の直道と定める。自分だけではなく一切衆生の直至道場の因縁と定められたのは題目である。ゆえに天台大師の法華玄義の一に「衆善の小行[爾前経で説かれる一切ま善行]を開会して広大の一乗[法華経の題目]に帰す」とある。広大というのは(一切衆生を)残らず引導されることをいう。たとえ釈尊一人だけが出世の本懐と述べられても、等覚以下の者は仰いでこの経を信じるべきである。まして(法華経は)諸仏出世の本懐なのである。
禅宗は観心を本懐と仰ぐというが、それは四種の一面である。一念三千・一心三観等の観心だけが法華経の肝心であるなら、題目に十如是を置くべきところに、題目に妙法蓮華経と置かれたうえはくわしく論ずるまでもない。
また今の世の禅宗は教外別伝といわれると思えば、また捨られた円覚経等の文を引かれるので、実経の文において干渉されるに及ばない。智者は読誦に観念をも並べるべきである。愚者は題目のみを唱えたとしてもこの理にかなうのである。
この妙法蓮華経とは私たち心性であり、総じては一切衆生の心性・八葉の白蓮華の名である。これを教えられた仏のお言葉である。無始より以来、我が身中の心性に迷って生死を流転してきた身が、今この経に値って三身即一の本覚の如来を唱えることによって顕れ、現世でその内証成仏することを即身成仏という。死ねば光を放つ。これ外用の成仏という。「来世得作仏(来世に作仏することを得ん)」[法華経方便品]とはこのことである。
(妙楽大師の法華文句記に)「略挙経題・玄収一部(略して経題を挙げるに玄に一部粒を収める)」といって、一遍(の題目)は(法華経)一部をおさめるという。妙法蓮華経と唱える時、心性の如来が顕れる。耳にふれた人々は無量阿僧祇劫[極めて長い期間]の罪を滅する。一念も随喜するとき即身成仏する。たとえ信じなくても下種と成り熟と成って必ずこれによって成仏する。
妙楽大師は述べている。
「もしは取、もしは捨、耳に経て縁と成る。あるいは順、あるいは違、ついにこれによって得脱する」
日蓮にとってこの若取・若捨・或順・或違の文は肝に銘ずる言葉である。
法華経(方便品)に「若有聞法者(もし法を聞くことがある者は一人として成仏しないことはない)」等と説かれたのはこのことか。
既に聞く者と説かれている。観念だけで成仏するのならば、"もし法を観ることがある者は"と説かれるはずである。
ただ天台大師の説明に「十如是というのは十界である。この十界は一念より事が起こり、十界の衆生は出来したのである」とある。この十如是というのは妙法蓮華経である。この娑婆世界は耳根ニコン得道[仏法を聞くことによって成仏得道する]の国である。以前にのべたように「当知身土(まさに知るべし。身土一念の三千である)」とある。一切衆生の身に百界千如・三千世間を納める理由を明かすゆえに、これを耳に触れる一切衆生は功徳を得る衆生である。
一切衆生というが草木や瓦礫も一切衆生の内だろうか。(有情・非情)。
そもそも草木とは何か。金ペイ論にこうある。
「一草一木・一礫一塵におのおの一仏性があり、おのおの一因果がある。縁や了を具足する」
法師品のはじめにこうある。
「数えきれない数ほどの天・竜王・夜叉・乾闥婆ケンダツバ・阿修羅・迦楼羅カルラ・緊那羅キンナラ・摩ゴ羅伽マゴラカ・人と非人、及び比丘・比丘尼[中略]。妙法蓮華経の一偈一句を聞いて乃至一念も随喜する者には、私はすべての者に阿耨多羅三藐三菩提の記を与え授ける」
非人とは総じて人界以外の一切の有情界である。それらでさえ心があるのである。まして人界ならなおさらである。
法華経の行者が仏の教説のとおりに修行すれば、必ず一生のうちに一人も残らず成仏できるのである。
たとえば春や夏に田を作るとき、早稲・晩稲の違いがあっても、一年のうちには必ず収穫が出来る。法華経の行者も上中下の機根があっても、必ず一生のうちに証得する。
法華玄義の一にこうある。
「上根・中根・下根に皆記別を与える」
しかし観心だけで成仏しようと思う人は一方がかけている人である。まして教外別伝の坐禅はなおさらである。
法師品にこうある。
「薬王、多くの人がいて、在家・出家の菩薩の道を行じる際に、もしこの法華経を見聞し、読誦し、書持し、供養することができなければまさに知りなさい。この人は未だ善く菩薩の道を行じていないのである。もしこの経典を聞くことがあれば、すなわちよく菩薩の道を行じるのである」
観心だけで成仏するなら、どうして「見聞・読誦」というのか。この経はもっぱら聞をもって根本とするのである。
およそこの経は悪人・女性・二乗・闡提を差別しない。ゆえに皆成仏道ともいい、また平等大慧ともいう。
善悪不二[善と悪は衆生の心にそなわる二つの働きであり、その体は不二である]・邪正一如[衆生の生命には性悪・性善をともにそなえ、そこに差別等はなく一体である]と聞くところにやがて内証成仏する。したがって、即身成仏といって一生に証得するので一生妙覚という。
意味を知らない人であっても唱えればただ仏と仏とが悦ばれる。「我即歓喜諸仏亦然(我すなわち歓喜する。諸仏もまたしかり)」とあるとおりである。
百千種類を合わせた薬であっても、口で飲まなければ病は治らない。蔵に宝を持っていても開く事を知らないで飢え、懐に薬を持っていても飲むことを知らずに死ぬようなものである。
如意宝珠という玉は五百弟子品に説かれている。この経の徳もまたこれと同じである。
観心と並べて読めばいうに及ばない。観念しなくとも最初に述べたように、「所謂諸法如是相如」云々と読む時は、如は空の義であるから我が身の先業に受けるところの相・性・体・力、それに具えるところの八十八使の見惑・八十一品の思惑、その空は報身如来である。「所謂諸法如是相」云々と読めば、これは仮の義であるから、我がこの身の先業によって受けた相・性・体・力など、その具えた塵沙の惑はことごとくその身のまま応身如来である。「所謂諸法如是」と読む時は、これは中道の義に順じて業によって受けるところの相・性などである。それにしたがった無明はすべて退いてその身のまま法身の如来と心を開く。
この十如是を三回読むことは、三身即一身・一身即三身の義である。三身に分かれるけれども一身である。一身に定まるけれども三身である。