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十法界明因果抄じっぽうかいみょういんがしょう

沙門[出家者]  日蓮撰す。
八十華厳経六十九にこうある。
「普賢道(普賢菩薩の悟り)に入ることができて、十法界を了知することができる」
法華経巻六[法師功徳品]にこうある。
「地獄の声・畜生の声・餓鬼の声・阿修羅の声・比丘の声・比丘尼の声(比丘・比丘尼は人道)・天の声(天道)・声聞の声・辟支仏の声・菩薩の声・仏の声」
以上十法界の名目である。
第一の地獄界とは。
観仏三昧経にこうある。
「五逆罪を犯し、因果の道理を無視し、大乗教を誹謗し、四重禁を犯し、人の施しを無にする者はこの中に堕ちる」
阿鼻地獄である。
正法念経にこうある。
「殺盗・婬欲・飲酒・妄語の者はこの中に堕ちる」
大叫喚地獄である。
また正法念経にこうある。
「昔、酒を人に与えて酔わせ、からかったりなぶったりして玩モテアソび、羞恥させる者はこの中に堕ちる」
叫喚地獄である。
また正法念経にこうある。
「殺生・偸盗・邪婬の者はこの中に堕ちる」
衆合地獄である。
涅槃経にはこうある。
「殺生に三種ある。下中上である。…下とは蟻の子ないし一切の畜生である。…下殺の因縁をもって地獄に堕ち、…具ツブサに下の苦を受ける」
問うていう。
十悪や五逆等を犯すと地獄に堕ちることは世間の道俗は皆知っている。しかし、謗法によって地獄に堕ちるとは、いまだそのようなことは知らないがどういうことか。
答えていう。
堅慧ケンネ菩薩が著し、勒那摩提ロクナマダイが訳した、究竟一乗宝性論にこうある。
「願って小乗の法を行じて、大乗の法及び法師を誹謗し、…如来の教えを知らないで説くことは、経典に背くことであり、しかもこれが真実の義であるという」
この文のとおりであれば、小乗を信じて真実の義といい、大乗を知らないことは謗法である。
天親菩薩が説き、真諦三蔵が訳した仏性論にこうある。
「もし大乗を憎み違背するならば、それは一闡提の因である。衆生にこの法を捨てさせてしまうからである」
この文のとおりであれば、大乗教と小乗経が流布する世に、ただ小乗を弘め、自身も大乗に背き、人にも大乗を捨てさせることを謗法という。
天台大師の梵網経の疏にはこうある。
「謗はこれ乖背ケハイの名である。解釈が道理にかなわず、いうことが言実ではなく、異った解釈をして説く者を皆名づけて謗という。自分の宗に背くために罪を得るのである」
法華経の譬喩品にこうある。
「もし人が信じないでこの経の悪口を言えば、そのことは一切の世間の仏の種を断つであろう。[中略]その人は命が終われば阿鼻獄に入るだろう」
この文の趣意は、小乗の三賢位以前の者・大乗の十信位以前の者・末代の凡夫で十悪や五逆罪を犯した者・父母に対して不孝の者・女人等を区別することなく、これらの者が法華経の名字を聞いて、題名を唱えたり、一字・一句・四句・一品・一巻・八巻等を受持し読誦したり、[中略]また上のように行ずる人を随喜し、讃歎する人は法華経以外の釈尊一代の聖教を深く習い、義理に通達し、堅く大小乗の戒を持つ大菩薩のような者よりも勝れて、往生成仏を遂げることができる、と説かれることを信じないで、逆に法華経は十地・十住以上の菩薩のために説かれた、あるいは上根・上智の凡夫のために説かれたのであり、愚人・悪人・女人・末代の凡夫等のための経ではないと言う者は、一切衆生の成仏の種を断つため、阿鼻地獄に入るのである、と説かれた文である。
涅槃経にはこうある。
「仏の正法に対して永く護惜建立の心が無い」
この文の趣意は、この大涅槃経でいう大法が世間において滅し尽くそうとするのを惜しまない者は、すなわち誹謗の者である、ということである。
天台大師は法華経の怨敵を定めて「(法を)聞く事を喜ばない者を怨という」といわれている。謗法には多種がある。大乗・小乗が流布している国に生まれて、ただ小乗教の法だけを学んで身を治め、大乗に遷らないことは謗法である。また華厳・方等・般若等の諸大乗経を習う人も、諸経と法華経とは同等であると思い、人にも同等であるとの義を学ばせ、法華経に遷らないことも謗法である。また、たまたま円教を受け入れる機根の者が法華経を学ぶのを、我が法に引き付けて、世法の利益を貪るために、あなたの機根は法華経に適さないなどと称して、この経を捨てさせ権経に遷らせる。これは大謗法の者である。
これらはすべて地獄へ堕する業因である。人間として生ずることは過去の五戒の力が強く、三悪道に堕ちる業因が弱いので人間として生まれてくるのである。また今の世間の人も五逆罪を作る者は少なく、十悪は盛んにこれを犯している。また、たまたま後世を願う人が十悪を犯さないで、善人のようではあっても、自然に愚癡の失によって身と口は善いが、意は悪い師を信じている。ただ自分だけがこの邪法を信じるだけではなく、国を治める人が、人民にすすめて邪法に同意させ、妻子・眷属・所従の人にもまたすすめて従わせ、自分と同じように修行をさせる。したがって、正法を修行させようとする人には結縁させず、また民衆・所従等にも正法の師に対して随喜の心を起こさせない。このため、自他共に謗法の者と成り、修善・止悪のように見える人も自然に阿鼻地獄の業を招くことが末法においては多分にあるだろう。
阿難尊者という浄飯王ジヨウボンノウの甥で、斛飯王コクバンノウの王子、提婆達多の弟、釈迦如来とは従子の人がいた。如来に仕えて二十年、覚意三昧を得て、一代聖教を覚った。仏が入滅の後、阿闍世王は阿難に帰依した。
仏の入滅後四十年の頃、その阿難尊者は一つの竹林の中にさしかかった。すると1人の比丘がいて、一つの法句の偈を誦していた。
「もし人が生まれて百歳となったとしても、水の溜まったり涸れたりすることを見なければ、生まれて一日でこれを見ることができたことには及ばない」
阿難はこの偈を聞き、比丘に語った。
「これは仏説ではない。あなたは修行すべきではない」
そのとき比丘は阿難に質問した。
「では仏説はどのようなものか」
阿難は答えて言った。
「"もし人が生まれて百歳となっても、生滅の法を理解しなければ、生まれて一日でこれを解了することができたことには及ばない"
この文が仏説である。あなたが唱えている偈はこの文を間違えたのである」
そのとき比丘はこの偈をもって本師の比丘に語った。本師は言った。
「私があなたに教えた偈が真の仏説である。阿難の唱える偈は仏説ではない。阿難は年をとり老衰して言葉に誤りが多い。信じてはならない」
この比丘はまた阿難の偈を捨ててもとの間違った偈を唱えた。阿難がまた竹林に入ってこれを聞くと、自分が教えた偈ではなかった。重ねてこのことを語ったが、比丘は信用しなかった。
仏の入滅後四十年でさえ既に間違いが出てきた。まして今は仏の入滅後既に二千年余りが過ぎた。仏法はインドから中国に至り、中国から日本に伝わった。学者や三蔵・人師等が伝来したのであるから、きっと間違いの無い法は万に一つであろう。それにもまして今の時代の学者は、偏執を先として我慢をさしはさみ、火を水と争い、糾そうともしない。たまたま仏の教えのとおりに教法を述べる学者がいても信用しない。したがって謗法とならない者は万人に一人だろう。
第二に餓鬼道とは。
正法念経にこうある。
「昔、財を貪って屠殺した者がこの報いを受ける」
またこうある。
「男が自らは美食を食べるが妻子には与えなかったり、妻が自ら食べて夫や子に与えない者はこの報いを受ける」
またこうある。
「名利を貪るために不浄な心で説法する者はこの報いを受ける」
またこうある。
「前世で酒を水で薄めて売った者はこの報いを受ける」
またこうある。
「もし他人が苦労して得た少しのものをだまし取った者はこの報いを受ける」
またこうある。
「前世で道で商売する人が病気で疲れて苦しんでいるのに、その売り物をだまし取り、わずかな代償しか与えない者はこの報いを受ける」
またこうある。
「前世で監獄の主で、人の飲食物を取った者はこの報いを受ける」
またこうある。
「前世で道行く人が凉をとるために植えられた木を切ったり、衆僧の住む園林を切った者はこの報いを受ける」
法華経にはこうある。
「もし人がいて法華経を信じないで、この経を毀謗するならば、[中略]常に地獄に処することは、園観で遊ぶようなもので、他の悪道にいることは自分の家にいるようなものである」
慳貪や偸盗等の罪によって餓鬼道に堕ちることを世間の人が知ることはたやすい。しかし、慳貪等の罪の無い多くの善人も謗法によって、また謗法の人に親しく交わることによって、自然にその教えを信じるようになり餓鬼道に堕ちるということ智者でなければ知ることができない。よくよく恐れなければならない。
第三に畜生道とは。
愚癡で自らを恥じず、信心の施しを受けても、これを償わない者がこの報いを受ける。
法華経にこうある。
「もし人がいて法華経を信じないで、この経を毀謗するならば、[中略]確実に畜生道に堕ちるだろう」
以上が三悪道である。
第四に修羅道とは。
摩訶止観第一にこうある。
「もしその心がいつも勝つことだけを願い、耐えられないので人を見下しも他を軽んじて自分を貴ぶ。その様子は鵄トビが空高く飛んで下を見下ろすようである。しかも外面では、仁・義・礼・智・信を掲げて、低い善心を起こし、阿修羅の道を行う」
第五に人道とは。
報恩経にこうある。
「三宝に帰依し、五戒を持つ者は人間として生まれる」
第六に天道とは。
二つある。六欲天には十善戒を守った者が生まれ、色・無色界には(境界の低い)下地はソ・苦・障と観じて嫌い、上地は静・妙・離の六行観によって生まれる。
問うていう。
六道に生まれる原因は以上と知った。しかし同時に五戒を持って人界に生を受けながら、どうして生盲[生まれながら目の不自由な人]・聾[耳の聞こえない人]・オンア[口の不自由な人]・ザル[背の低い人]・レンビャク[足の不自由な人]・背陋ハイウ[背骨に障碍のある人]・貧窮ビング・多病・瞋恚等の多くの違いがあるのか。
答えていう。
大智度論にこうある。
「もし衆生の眼を破ったり、衆生の眼をえぐったり、正法を持つ人の眼を破っても、罪にならないという者は、死んだ後地獄に堕ちて罪を終えて人として生まれ、生まれながらの盲となる。もしまた仏塔の中の火珠及び多くの灯明を盗む。これらの種々の前世の業・因縁によって眼を失う。
[中略]聾とは、この前世の因縁は、師匠や父の教訓を受けず、行わず、しかもかえって瞋恚する。この罪によって聾となる。また次に、衆生の耳を切ったり、衆生の耳を破ったり、仏塔や僧塔などの多くの善人にとっての福田の中の時を知らせる鈴・貝及び鼓を盗むためにこの罪を得る。
前世に他人の舌を切ったり、その口を塞いだり、悪い薬を与えて語れなくさせたり、師匠の教えや父母の教勅を聞いてその言葉を遮る。[中略]世に生まれて人となるが、口が不自由となり言葉を発することができない。[中略]前世に他人の坐禅を妨げたり、坐禅の道場を破壊したり、多くの呪術で人を呪って怒らせたり、争わせたり、婬欲を起こさせた者は、今の世において煩悩が深く厚く重なる。それは婆羅門がその稲田を失い、妻を亡くして即時に発狂し、裸のまま走りだしたようなものである。前世で仏・阿羅漢・辟支仏の食物や父母親族の食物を奪えば、仏の在世に生まれたとしても、なお飢渇する。罪が重いためである。
[中略]前世に好んで、鞭や杖で人を打ったり、拷問したり、拘束したりして、種々に悩ませたために、今世では病となるのである。
[中略]前世に他人の身を傷つけたり、頭を切ったり、手足を斬ったりして種々に身体を傷つけたり、あるいは仏像を破壊したり、仏像の鼻や多くの賢聖の形像をこわしたり、あるいは父母の形像を破壊する。これらの罪によって障碍の身となる。また次に不善法の報いとして醜い体として生まれる」
法華経にはこうある。
「もし人が信じないでこの経の悪口を言えば、[中略]人として生まれることがあっても、五根は完全ではなく、芽が見えず、口がきけず、障碍の身となるだろう[中略]呼気は常に臭く、鬼神等に悩まされ、貧しく窮しく、身分は低く、人に使われ、病気がちでやせ細り、頼る所もない[中略]また人からは背かれ、脅かされ、ものを盗まれる。このような誤った罪によりそうした災難にあう」
また普賢菩薩観発品第二十八にこうある。
「もしまたこの経典を受持する者を見て、その過去の過ちをいい出す者は、事実であってもなくても、この人は現世に白癩の病を得る。もし軽蔑して笑う者は、まさにいつの世でも歯は隙いて欠け、醜い唇で、平たい鼻となり、手や脚は曲がり、眼が片方つぶれていたり斜視であったりし、身体は臭く汚れていて悪瘡ができ膿や血はたまり、腹には水が溜まったり、息が乱れたり等の多くの悪い重病があるだろう」
問うていう。
どのような業因をつくる者が六道に生まれ、その中の王となるのか。
答えていう。
大乗の菩薩戒を持って、これを破る者は、色界の梵王・欲界の魔王・帝釈・四輪王・禽獣王・閻魔王等となる。
心地観経にこうある。
「諸王が受ける多くの福楽は、かつて三の浄戒を持ち、戒徳が積もって招き感ずるもので、人・天の妙果として王の身を受けるのである。
中程度に菩薩戒を受持すれば福徳が自在の転輪王として、心の思うがままにすべて成就し、無量の人・天の人々から尊敬される。
下の上品に(菩薩界)を持つならば、大鬼王として一切の非人がすべてしたがう。これは戒品を受持して後に破り犯したとしても、戒が勝れていたので王となることを得るのである。
下の中品に持つならば、禽獣の王として一切の鳥や獣がすべて帰伏する。清浄の戒において後に破り犯すことがあっても、戒が勝れていたので王となることを得るのである。
下の下品に持つならば、閻魔王として地獄の中にあって常に自在である。禁戒を破り悪道に生まれたとしても、戒が勝れていたので王となることを得るのである。
もし如来の戒を受けないことがあれば、ついにキツネ等の身となることも得ることができない。まして人・天の中の最勝の快楽を感じて王位につくことができるはずがない」
安然和尚の広釈にこうある。
「菩薩の大戒は、受持した者は法王と成り、犯した者は世王と成る。しかも戒のなくなることは、たとえば金銀を器として用いれば貴く、器を壊して用いることがなくなっても、宝としての価値は失くならないようなものである」
またこうある。
「無量寿観には、『この世の初めから今まで八万の王がいてその父を殺害した』とある。これはすなわち菩薩戒を受けて国王となったが、今殺生の戒を犯して皆地獄に堕ちたけれども、戒を犯した力でも王となるのである」
大仏頂経にこうある。
「発心した菩薩は罪を犯してもしばらくは天神地祇となる」
大随求陀羅尼経にはこうある。
「天の帝釈は、命が尽きた後たちまちロバの腹に入ったが、随求陀羅尼の力によってかえって天上に生まれた」
尊勝陀羅尼経にはこうある。
「善住天子は、死後七度畜生の身に堕ちるところを、尊勝陀羅尼の力によってかえって天界に居られる報いを得た」
昔、国王がいて千台の車で水を運び、仏塔が焼けるのを防いだ。しかし自ら驕慢の心を起こしたため阿修羅王となった。
昔、梁の武帝は五百の袈裟を須弥山の五百人の阿羅漢に施した。
誌公は「過去世に五百人に施したが、一人分足りなかった。その罪を犯したことにより人王として生まれた。すなわち武帝である。
昔、国王がいて民を治めるのに平等ではなかった。天王となったけれども、今世で大鬼王となった。すなわち東南西の世界を護る三天王がそうである。拘留孫仏の末に菩薩と成って誓願を立てたのが現在北方の毘沙門となっている」といっている。
これらの文から考えると、小乗戒を持って、それを破る者は六道の民となり、大乗戒を持ち、それを破壊する者は六道の王となり、持ち続けた者は仏と成るのである。
第七に声聞道とは、この界の因果については、阿含経という小乗の十二年の経にくわしく明かされている。諸大乗経においても、大乗と比較するためにまた明かされている。
声聞において四種がある。
一には優婆塞である。在俗の男性である。五戒を持って、苦・空・無常・無我の観を修め、自調自度の心が強く、あえて化他の意は無く、見思惑を断じ尽くして阿羅漢と成る。このような時、髪を剃ろうとすると自然に落ちてしまう。
二には優婆夷である。在俗の女性である。五戒を持って、髪を剃ろうとすると自ら落ちてしまう。男性と同様である。
三には比丘で、僧である。二百五十戒(具足戒)を持って、苦・空・無常・無我の観を修め、見思惑を断じて阿羅漢と成る。このような時、髪を剃らなくても生えてこない。
四に比丘で、尼である。五百戒を持つ。あとは比丘と同じである。
一代諸経に列座した舎利弗・目連等のような声聞はこれである。永く六道に生まれず、また仏や菩薩とも成らない。灰身滅智して、必ず決まって仏に成ることはない。小乗戒の手本である尽形寿の戒は、一度身体が滅べば永く戒の功徳はなくなる。上品を持つならば二乗と成り、中・下品を持つならば人・天に生じて民となる。これを破れば三悪道に堕ちて罪人となる。
安然和尚の広釈にこうある。
「三善道は世間の戒である。因によって生まれて果を感じ、業が尽きて悪道に堕ちる。たとえば、楊ヤナギの葉は秋がくれば金に似ているが、秋が去れば地に落ちるようなものである。二乗の小乗戒は持つ時には果は拙ツタナく、破る時には永く功徳はなくなってしまう。たとえば、瓦の器は完全であっても使っても価値はなく、もし壊れたならば永久に役に立たないようなものである」
第八に縁覚道とは、二つある。
一には部行独覚[声聞の時に第三果(阿那含果・不還果)まで得た人のうち、教を離れて独りで第四果(阿羅漢果・無学果)を覚る者]である。仏の在世にあって声聞のように小乗の法を習い、小乗の戒を持ち、見思惑を断じて永不成仏の者と成る。
二には鱗喩独覚リンユドクカク[無仏の世に自然現象を見て、苦・空・無常・無我を観じ、見思惑を断じる者]である。無仏の世においても飛花落葉を見て、苦・空・無常・無我の観念し、見思惑を断じて永不成仏の身と成る。戒もまた声聞と同じである。この声聞と縁覚を二乗というのである。
第九に菩薩界とは、六道の凡夫の中に、自身を軽んじ、他人を重んじ、悪を自身に向け、善を他に与えようと思う者がある。仏はこの人の為に、多くの大乗経において菩薩戒を説かれた。この菩薩戒に三つある。
一には摂善法戒シヨウゼンポウカイである。いわゆる八万四千の法門を習い尽くそうと願う。
二には饒益有情戒ニヨウヤクウジヨウカイである。一切衆生を救済して後に、自らも成仏しようと願うのがこれである。
三には摂律儀戒シヨウリツギカイである。一切の諸戒をことごとく持とうと願うのがこれである。
華厳経の心をわかりやすく説かれた梵網経にこうある。
「仏が多くの仏子に告げて言うには、十重の禁戒がある。もし菩薩戒を受けてこの戒をとなえない者は、菩薩ではなく仏の種子でもない。自分もまた同じようにとなえた。一切の菩薩はすでに学び、一切の菩薩はこれから学び、一切の菩薩は今学ぶ」
菩薩というのは、二乗を除いた一切の有情のことである。小乗戒は戒にしたがって異なるが、菩薩戒はそうではない。一切の有情の心に必ず十重禁等を授けるのである。一戒を持つのを一分の菩薩といい、もれなく戒を受けるのを具足の菩薩と名付ける。
故に瓔珞経にこうある。
「一分の戒を受けるならば一分の菩薩と名づけ、ないし二分・三分・四分・十分であるのを具足の受戒という」
問うていう。
(菩薩から)二乗を除くという文はあるのか。
答えていう。
梵網経に菩薩戒を受ける者を列ねてこうある。
「もし仏戒を受ける者は、国王・王子・百官・宰相・比丘・比丘尼・十八梵天・六欲天子・庶民・黄門・婬男・婬女・奴婢・八部・鬼神・金剛神・畜生、その他変化人であっても、ただ法師の言葉を理解し、すべて戒を受けることができるならば、皆第一清浄の者と名付ける」
この中に二乗は無い。方等部の結経である瓔珞経にもまた二乗は挙げられていない。
問うていう。
二乗が所持する不殺生戒と、菩薩所持が所持する不殺生戒との違いは何か。
答えていう。
持つ戒の名は同じであっても、持ち方や心念が永く異るのである。故に戒の功徳にもまた浅深がある。
問うていう。
どのように異なるのか。
答えていう。
二乗の不殺生戒は永く六道に還ろうと思わないため、化導の心がない。また仏や菩薩に成ろうと思わず、ただ灰身滅智の思いだけである。
たとえば、木を焼き灰となった後に一塵も無いようなものである。故にこの戒を瓦の器にてちえるのである。割れた後に用いることが無いからである。
菩薩はそうではない。饒益有情戒を持つことを発してこの戒を持つので、(衆生の)機を見て五逆や十悪を犯した者と同じように犯したとしても、この戒は破れず、かえってますます戒体を増す。
故に瓔珞経にこうある。
「犯すことがあっても壊れない。未来永劫に尽きない」
したがって、この戒を金や銀の器にたとえるのである。完全な形で持つ時も、壊した場合も、永く価値は失われないからである。
問うていう。
この戒を持つ人はどれほどの劫を経れば成仏するのか。
答えていう。
瓔珞経にこうある。
「いまだ初住の位に上らない前[中略]もしくは一劫・二劫・三劫から十劫を経て初住の位の中に入ることができる」
文の趣意は、凡夫の身においてこの戒を持つことを十信の位の菩薩という。しかしながら、一劫・二劫から十劫の間は六道に深く沈み、十劫を経て不退の位に入り、永い間六道の苦を受けないことを不退の菩薩という。まだ仏には成らず、還って六道に入るが苦脳はない。
第十に仏界とは、菩薩の位において四弘誓願を発すことをもって戒とする。三僧祇の間六度万行を修行し、見思・塵沙・無明の三惑を断じ尽くして仏と成る。
故に心地観経にこうある。
「三僧企耶大劫という長い間、百千の諸の苦行を修した功徳は円満であり法界に遍く、十地の位の究竟に達して三身を証得する」
因位[菩薩が仏果を得るための修行の位]において、諸の戒を持ち、仏果の位に至って仏身を荘厳する。三十二相・八十種好はこの戒の功徳の感ずるところである。
ただし仏果の位に至れば戒体は失われる。たとえば華が果と成れば華の形がなくなるようにである。
故に天台大師の梵網経の疏にこうある。
「仏果に至ると廃する」
問うていう。
梵網経等の大乗戒は、現身で七逆罪を犯した者と決定性の二乗を許しているのか。
答えていう。
梵網経にこうある。
「もし戒を受けたいと願う時は師に問いかけなさい。あなたは現身で七逆の罪を作ったことはないか、と。菩薩の法師は七逆罪を犯した人には現身に戒を受けさせることはできない」
この文によれば、七逆罪を犯した人は現身に受戒を許されていない。
大般若経にこうある。
「もし菩薩はたとえ恒河沙劫という長期間、妙の五欲を受けたとしても、菩薩戒を破ったとはいわれない。しかし、もし一念に二乗の心を起こすならば、即ち戒を破ったことになる」
大荘厳論にこうある。
「常に地獄の境界であっても、大菩提の障りにはならない。しかし、もし自利の心を起こせば、それは大菩提の障りである」
これらの文によれば、六道の凡夫には菩薩戒を授けるが、二乗には制止を加えるということである。二乗戒を嫌うのは、二乗が持っている五戒・八戒・十戒・十善戒・二百五十戒等を嫌うのではない。それらの戒は菩薩も持っている。ただ二乗の心念を嫌うのである。
よくよく考えるならば、戒を持つことは父母・師匠・国王・主君、一切衆生、三宝の恩を報じるためである。父母には養育された恩が深い。一切衆生には互いに助け合う重い恩がある。国王は正法で世を治めるならば自他ともに安穏となる。こうして(民衆が)善をおさめれば恩は重い。主君もまたその恩を蒙って父母・妻子・眷属・所従・牛馬等を養う。たとえそうでなくても、一身を顧る等の恩は重い。師はまた邪道を閉じて正道に趣かせる等の恩が深い。仏の恩は言うまでもない。
このように無量の恩を受けている。ところが、二乗はこれらの報恩が皆欠けている。したがって、一念でも二乗の心を起こすことは、十悪・五逆よりも過ぎるのである。一念でも菩薩の心を起こすことは、一切諸仏の後心の功徳を起こすことになるのである。以上は四十年余りの間の大・小乗の戒である。
法華経の戒には二つある。
一には相待妙の戒であり、二には絶待妙の戒である。
まず相待妙の戒とはなにか。
四十年余りの大・小乗の戒と法華経の戒を比較して、爾前をソ戒といい、法華経を妙戒といって、諸経の戒を未顕真実の戒・歴劫修行の戒・決定性の二乗戒と嫌う。法華経の戒は真実の戒・速疾頓成の戒・二乗の成仏を嫌わない戒等と相対して、ソと妙を論ずることを相対妙の戒という。
問うていう。
梵網経にこうある。
「衆生が仏戒を受けるならば、即座に諸仏の位に入る。位は大覚と同じであり、すでに実に諸仏の子である」
華厳経にこうある。
「初めて発心した時、即座に正覚を成じたのである」
大品経にこうある。
「初めて発心した時、即座に道場に坐した」
これらの文によると、四十年余りの大乗戒には法華経のように速疾頓成の戒がある。どうしてただ歴劫修行の戒であるというのか。
答えていう。
このことについて二義がある。
一義には、四十年余りの間には歴劫修行の戒と速疾頓成の戒があり、法華経にはただ一つの速疾頓成の戒だけがある。その中の四十年余りの間の歴劫修行の戒は法華経の戒には劣るけれども、四十年余りの間の速疾頓成の戒については法華経の戒と同じなのである。
したがって上に記した「衆生が仏戒を受けるならば、即座に諸仏の位に入る等」の文は法華経の「須臾聞之・即得究竟(須臾もこれを聞くなら即ち究竟することを得る)」という文と同じである。ただし、無量義経に四十年余りの経を挙げて歴劫修行等であるといっているのは、四十年余りの内の歴劫修行の戒だけを嫌っているのである。速疾頓成の戒は嫌っていない。
一義には、四十年余りの間の戒はただ歴劫修行の戒であり、法華経の戒は速疾頓成の戒である。
ただし上に記した四十年余りの諸経の速疾頓成の戒においては、凡夫の位から速疾頓成するのではなく、凡夫の位から無量の行を成じて、無量劫を経て、最後に凡夫の位から即身成仏するのである。ゆえに最後のところによって速疾頓成と説くのである。詳しく論ずるならば歴劫修行に収まるのである。ゆえに無量義経で総ての四十年余りの経を挙げて、仏は無量義経の速疾頓成に対して『宣説菩薩歴劫修行(菩薩の歴劫修行を宣説せしかども)』と嫌ったのである。
大荘厳菩薩がこの義をうけて領解して述べられた。
「無量無辺・不可思議阿僧祇劫を過ぎたとしても、ついに無上菩提を成ずることはできない。なぜかというと、菩提の大直道を知らないからである。険しい道を行くには留難が多いからである。[法華経を聞けば]大直道を行っても留難がないからである」
もし四十年余りの間に無量義経や法華経のような速疾頓成の戒があるとするならば、仏はみだりに四十年余りの実義を隠した罪があることになる。二義の中では後の義をたてるということは世間でも皆知っている義である。以上は相待妙の戒である。
次に絶待妙の戒とは、法華経においては別の戒があるわけではない。爾前経の戒がそのまま法華経の戒である。その理由は、爾前経に説く人・天の楊葉戒、小乗である阿含経の二乗の瓦器戒、華厳・方等・般若・観経等に説く歴劫修行の菩薩の金銀戒、これらの行者は法華経に至っては互いに和会して一同となる。したがって、人・天の楊葉戒の人は二乗の瓦器・菩薩の金銀戒を具え、菩薩の金銀戒に人・天の楊葉・二乗の瓦器を具える。あとは推して知るべし。
三悪道の人は現身においては戒を持っていない。過去において人・天に生れた時、人・天の楊葉・二乗の瓦器・菩薩の金銀戒を持ち、あとで破って三悪道に堕ちたけれども、その功徳はいまだ失われずにある。三悪道の人は法華経に入る時、その戒を呼び起こす。三悪道にもまた十界を具える。ゆえに爾前の十界の人が法華経に来れば皆持戒の人である。
したがって法華経にこうある。
「これを持戒と名づける」
安然和尚の広釈にはこうある。
「法華経には、『よく法華を説くことを持戒と名づける』とある」
爾前経のように、師にしたがって戒を持つのではなく、ただ此の経を信じることが即ち持戒である。爾前の経には十界互具を明かしていない。したがって菩薩が無量劫を経て修行しても、二乗・人天等の余戒は功徳が無く、ただ一界の功徳を成ずるだけであり、一界の功徳だけでは成仏は遂げられないから、一界の功徳もまた成ずることはない。
爾前の人が法華経に至るならば、その他の界の功徳を一界に具えるので、爾前の経は即ち法華経であり、法華経は即ち爾前の経である。法華経は爾前の経を離れず、爾前の経は法華経を離れない。これを妙法という。この覚りが起った後の行者は、阿含などの小乗経を読んでも、一切の大乗経を読誦し、法華経を読んだ人とかる。
したがってに法華経にこうある。
「声聞の法を決定すれば、これは諸経の王である」
阿含経は即ち法華経という文である。
「一仏乗であるものを分別して三乗と説いた」
華厳・方等・般若は即ち法華経であるという文である。
「もし俗間の経書・治世の語言・資生の業等を説くとしてもすべて正法に従う」
すべての外道・老子・孔子等の経は即ち法華経であるという文である。
梵網経等の権大乗の戒と法華経の戒とには多くの違いがある。一には権大乗の戒は二乗と七逆を犯した者には許していない。二つには戒を持つ功徳に仏果を具えていない。三つには歴劫修行の戒である。このような多くの失ずある。法華経においては、二乗と七逆を犯した者にも受戒を許すうえ、博地の凡夫が一生のうちに仏位に入り、妙覚に至って因果の功徳を具えることができるのである。