同志と共に

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教機時国抄きようきじこくしよう

一に教とは。
釈迦如来が説かれたすべての経・律・論は五千四十八巻・四百八十帙チツである。インドに流布すること一千年を経て、仏の滅後一千一十五年にあたる年に中国に仏経が渡った。後漢の孝明皇帝の時代である永平十年丁卯より唐の玄宗皇帝の時代である開元十八年庚午に至る六百六十四年間に一切の経が渡り終えた。
この一切の経・律・論の中に小乗・大乗・権経・実経・顕経・密経がある。これらを理解しなければならない。この名称は学者や人を導く師より出たものではない。仏説から起こったものである。すべての世界の一切衆生は一人残らずこれを用いなければならない。これを用いない者は外道と知らなければならない。
阿含経を小乗と説くことは方等・般若・法華・涅槃等の諸大乗経を由来とする。法華経には「ただ小乗だけを説いて法華経を説かなければ仏は慳貪(ものおしみ)の罪に堕ちるだろう」と説かれている。涅槃経には「ただ小乗経を用いて、仏は無常であるという人は舌が口中で爛れるだろう」とある。
二に機とは。
仏教を弘める人は必ず機根を知る必要がある。舎利弗尊者は金師[鍛冶職人]に不浄観を教え、浣衣の者[洗濯屋]に数息観を教えたところ、九十日を経て所化の弟子は仏法を少しも理解せずかえって邪見を起こし一闡提と成ってしまった。仏は金師に数息観を教え浣衣の者に不浄観を教えられたところ、またたく間に覚ることができた。智慧第一の舎利弗でさえ機を知らなかった。まして末代の凡師が機を知ることは難しい。したがって機を知らない凡師は所化の弟子にはただ法華経を教えなさい。
問うていう。
法華経にある「無智の人の中においてこの経を説くことなかれ」という文があるがどういうことか。
答えていう。
機を知るとは智慧のある人が説法することである。しかし謗法の者に向ってはただ法華経を説くべきである。毒鼓の縁とするためである。例えば、不軽菩薩のようにである。また智者となる機と知るならば、必ずまず小乗を教え、次に権大乗を教え、最後に実大乗を教えなさい。愚者と知るならば、必ずまず実大乗を教えなさい。信じても誹謗しても共に下種となるからである。
三に時とは。
仏教を弘める人は必ず時を知る必要がある。
たとえば、農業をする人が秋・冬に田を作れば、種や土地や人の作業の労力にかかわらずまったく収穫がなく、かえって損をする。一段を作る者は少しの損、一町・二町等の者は大損である。春・夏に耕作すれば労力の多少によって皆それぞれに応じた収穫がある。仏法もまた同様である。時を知らずに法を弘めれば利益がないうえ、かえって悪道に堕ちるのである。
仏はこの世に出現されて必ず法華経を説かんと思われた。しかしたとえ機があっても時が来ていなかったので、四十年余りの間はこの経を説かれなかった。ゆえに経にこうある。
「説く時が未だ至らなかった故である」
仏の滅後の次の日より正法一千年は持戒の者は多く破戒の者は少ない。
正法一千年の次の日より像法一千年は破戒の者は多く無戒の者は少ない。
像法一千年の次の日より末法一万年は破戒の者は少なく無戒の者は多い。
正法時代においては、破戒・無戒の者にかまわず持戒の者を供養しなさい。
像法時代においては、無戒の者にかまわず破戒の者を供養しなさい。
末法時代においては無戒の者を供養しなさい。それは仏を供養するようにしなさい。
ただし法華経を誹謗する者に対しては正・像・末の三時代にわたり、持戒の者も無戒の者も破戒の者も共に供養してはいけない。供養すれば必ず国に三災七難がおき、供養した者も必ず無間大城に堕ちるだろう。法華経の行者が権経を誹謗するのは主君・親・師が家来・子息・弟子等を罰するようなものである。しかし権経の行者が法華経を誹謗するのは家来・子息・弟子等が主君・親・師を罰するようなものである。
また今の時代は末法に入って二百一十年余りである。権経・念仏等の時か、法華経の時か、よくよく時刻を考えるべきである。
四に国とは。
仏教は必ず国に応じて弘める必要がある。
国には寒い国・熱い国・貧しい国・富める国・中心の国・へき地の国・大きい国・小さい国・盗賊の多い国・殺生ばかりの国・ただ不孝者だけの国等がある。またただ小乗の国・ただ大乗の国・大小兼学の国もまたある。それでは日本国はただ小乗の国か、ただ大乗の国か、大小兼学の国なのか。よくこのことを考えなさい。
五に教法流布の先後とは。
まだ仏法が伝わっていない国にはまだ仏法を聞いたことがない者がいる。既に仏法が伝わった国には仏法を信じる者がいる。必ず先に弘まっている法を知って、後の法を弘めさない。先に小乗・権大乗が弘まっているならば、後に必ず実大乗を弘めなさい。先に実大乗が弘まっているならば、後に小乗・権大乗を弘めてはならない。瓦礫を捨てて黄金・宝珠を取るべきである。黄金・宝珠を捨てて瓦礫を取ってはならない。
以上のこの五義を知って仏法を弘めたならば、日本国の国師となるであろう。
したがって法華経は一切経の中の第一の経王であると知ることが教を知る者なのである。
ところが、光宅寺の法雲・道場寺の慧観等は、涅槃経は法華経より勝れているという。清涼山の澄観・高野山の弘法等は華厳経・大日経等は法華経より勝れているといっている。嘉祥寺の吉蔵・慈恩寺の基法師等は般若・深密等の二経は法華経より勝れているという。天台山の智者大師ただお一人が一切経の中では法華経が勝れていると立てられた。それだけではなく、「法華経よりも勝れた経があるという者を諌暁せよ。止まらなければ現世で舌が口中でただれ、後生は阿鼻地獄に堕ちるだろう」等といわれた。これらの相違をよくよく理解する者が教を知る者である。
今の時代の千万人の学者等は誰もがこのことをわかっていない。したがって教を知る者は少ない。教を知る者がいなければ、法華経を読む者などいない。法華経を読む者がいなければ国師となる者もいない。国師となる者がいないならば国中の人々は、一切経の大・小・権・実・顕・密の違いに迷い、誰一人として生死の苦悩から離れる者はいなくなる。その結果謗法の者となり法によって阿鼻地獄に堕ちる者は大地の微塵よりも多くなり、法によって生死の苦しみを離れる者は爪の上の土よりも少なくなる。恐るべきことである。
日本国の一切衆生は桓武皇帝以来四百年余りただ法華経の機根なのである。例えば霊鷲山で八箇年の説法を聞いた人々が純円の機根であったようにである。天台大師・聖徳太子・鑒真和尚・根本大師・安然和尚・慧心等の文書に記されている。これを機根を知るということである。ところが今の時代の学者は「日本国はただ称名念仏の機根である」等といっている。これは例えば舎利弗が機根に迷って所化の衆を一闡提としたようなものである。
日本国の今の世は如来の滅後二千二百一十年余り、後の五百歳にあたり、妙法蓮華経が広宣流布する時刻である。これを時を知るという。ところが、日本国の今の世の学者は、法華経を抛ってただ称名念仏を行じたり、あるいは小乗の戒律を教えて比叡山の大僧を蔑ったり、あるいは教外別伝(の法門)を立てて法華の正法を軽んじたりしている。これらは時に迷う者といえよう。例えば勝意比丘が喜根菩薩を謗り、徳光論師が弥勒菩薩を蔑って阿鼻地獄の大苦を招いたようなものである。
日本国はただ法華経の国である。例えば舎衛国がただ大乗の国であったようにである。またインドにはただ小乗のみの国・ただ大乗のみの国・大小兼学の国もある。しかし日本国はただ大乗のみの国である。大乗の中でも法華経の国であるというべきである。瑜伽論・肇公の記・聖徳太子・伝教大師・安然等の文書に記されている。これを国を知る者という。
ところが今の世の学者は、日本国の衆生に向ってただ小乗の戒律のみを授け念仏者等としているのは、「たとえば宝の器に汚れた食物を入れたようなものである」等と説かれているとおりである。この宝器の譬えは伝教大師の守護国界章にある。
日本国には欽明天皇の時代に仏法が百済国より伝来した。初めて伝わってから桓武天皇に至るまで二百四十年余りの間は、この国には小乗・権大乗のみが弘まった。法華経はあったがその実義はまだ顕れていなかった。例えば中国に法華経が伝わって三百年余りの間法華経はあったがその実義はまだ顕れていなかったのと同じである。桓武天皇の時代に伝教大師が出現して、小乗・権大乗の義を破り、法華経の実義を顕した。それ以来また異義も無く純一に法華経を信じてきた。たとえ華厳・般若・深密・阿含・大小の六宗を学ぶ者も法華経をもって究極とした。まして天台・真言の学者は当然であり、それにもまして在家の無智の者はなおさらであった。例えば崑崙山に粗石が無く蓬莱山に毒が無いようにである。
建仁のころから今に至る五十年余りの間に、大日や仏陀が禅宗を弘め、法然や隆寛が浄土宗を興し、実大乗を破って権宗につき、一切経を捨てて教外別伝を立てた。これはたとえるならば、宝の珠を捨てて瓦石をひろい、大地を離れて空に登るようなものである。これは教法流布の先後を知らない者である。
仏は誡めていわれた。
「悪い象に値っても悪知識に値ってはならない」
法華経の勧持品に、後の五百歳・二千年余りに当って法華経の敵人が三種類あるだろうと記し置かれた。今の世は後の五百年に当たる。日蓮が仏の言葉の実否を勘案したところ、三種類の敵人は存在する。これを隠したならば法華経の行者ではない。これを顕したならば身命を必ず失うであろう。
法華経第四にこうある。
「しかもこの経は如来のおられる現在でさえ怨嫉が多い。まして入滅された後においては(なおさらである)」
同じく第五にこうある。
「一切世間には怨む者が多く信じることは難しい」
またこうある。
「私は身命を愛さない。ただ無上道を惜しむ」
同第六にはこうある。
「自ら身命を惜まない」
涅槃経第九にはこうある。
「たとえば王の使いで論議が上手で方便に巧みな者が、王の命を受けて他国におもむき、むしろ身命を喪うことになっても、最後まで王の言った言葉や教えをかくさないのと同じである。智者もまた同様である。凡夫の中にいて身命を惜しまず、必ず大乗方等を宣説すべきである」
章安大師は解釈していわれた。
「寧喪身命不匿教とは身は軽く法は重いということである。身を死コロしても法を弘めなさい」
これらの本文を見れば、三種類の敵を顕さなければ法華経の行者ではなく、これを顕すものが法華経の行者である。しかし必ず身命を失う。例えば師子尊者・提婆菩薩等のようにである。