同志と共に

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持妙法華問答抄じみょうほっけもんどうしょう

そもそもまれに人間として生まれ、たまたま仏法を聞いた。しかし法には浅深があり、人の機根にも高低があるという。何なる法を修行すれば速やかに仏になることができるのでしょう。どうかその道を聞かせていただきたい。
答えていう。
家々に尊く勝れた親がおり、国々に高貴な君主がいる。皆その君主を貴み、その親を崇める。とはいえどうして国王に勝ることができようか。ここで知ることができる。大乗・小乗・権教・実教の争いは家々の争いのようなものである。一代聖教の中では法華経だけが勝れているのである。これは頓証菩提の指南であり[すみやかに仏の悟りを得ることができる教え]、直至道場の車輪[凡夫をただちに悟りを開く場所へ導く乗り物]である。
疑っていう。
人師[人を教え導く師]とは経論の心を得て釈を作る者である。したがって宗々の人師はめいめいそれぞれに教門を設け、釈を作り、義を立て、菩提を証得する道を志す。どうして役に立たないことがあろう。ところが、法華経だけが勝るといわれるのは、心が狭いように思われる。
答えていう。
法華経だけが尊いということが心の狭いことというのであれば、釈尊ほど心の狭い人は世に存在しない。何と誤りの甚しいことであろう。
しばらく一経・一流の釈を引いてその迷いを明かにしよう。
無量義経にこうある。
「(衆生の機根にあわせて)種々に法を説いてきた。種々に法を説くことは方便力をもってである。しかし四十年余りはまだ真実を顕さなかった」
この文を聞いて、大荘厳等の八万人の菩薩は一同に「無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぐるとも終に無上菩提を成ずることを得ず」と領解された。
この文の趣旨は、華厳・阿含・方等・般若の四十年余りに説かれた経にしたがってどのように念仏を称え、禅宗を持ち、仏道を願い、無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぎようとも無上菩提を成ずる事はできないということである。それだけではなく、方便品には「世尊は法を久しい間説いた後に、かならず真実を説かれるであろう」と説いて、また「唯有一乗法・無二亦無三(ただ一乗の法だけがある。二もなくまた三もない)」と説いて、この経だけが真実であるといわれ、また二の巻には「唯我一人のみ能く救護を為す」と教え、「ただ願って大乗経典を受持して、[中略]その他の経の一偈をも受けてはならない」と説かれた。
文の趣旨は、ただ自分一人だけがよく救い護ることができる。法華経を受持する事を願ってその他の経を一偈も受けてはならないということである。
またこうある。
「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば則ち一切世間の仏種を断ぜん乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」
この文の趣旨は、もし人がこの経を信じないでこの経に背いたならば、則ち一切世間の仏の種を断つことになる。その人は命が終われば無間地獄に必ず堕ちると説かれている。
これらの文を受けて、天台大師は、「将非魔作仏」の言葉はまさしくこの文によると判じられた。ただ人師の釈だけを頼りにして仏説によらないのであればどうして仏法という名をつけたのか。言語道断の次第である。これによって智証大師は「経に大小なく理に偏円なし」といって、すべて人によるのであれば仏説は無用であると釈された。天台大師は「もし深い道理があり、また経典と合うものは収録してこれを用いなさい。文も無く義の無いものは信受してはいけない」と判じられた。また「文証の無いものはことごとく邪見である」ともいわれた。どのように心得るべきか。
問うていう。
人師の釈はそうかもしれません。しかし爾前の諸経にこの経が第一であると説き、諸経の王であるとも宣べられています。そうすると仏説であっても用いてはいけないことになるのでしょうか。
答えていう。
たとえこの経が第一であるとか諸経の王であるなどと述べていようと、これらはすべて権教である。その言葉によってはいけない。このことを仏は「了義経によりて不了義経によらざれ[教えを完全に解き明かしている経によるべきであり、不完全な教えによってはならない]」と説き、妙楽大師は「たとえ経があって諸経の王といおうとも、已今当説最為第一といわなければ、兼但対帯の義によって方便の経と知るべきである」と釈されている。この釈の趣意は、たとえ経があって諸経の王といおうとも、前に説いた経にも後に説こうとする経にもこの経は勝っているといわなければ方便の経と知りなさいという釈である。したがって爾前の経の習いとして今説く経より後にまた経を説くべき由来をいわないのである。ただ法華経だけが最後の極説であるので、已今当の中ではこの経がひとり勝れていると説かれているのである。
よって法華玄義釈籤には「ただ法華経に至って前教の意を説いて今教の意を顕した」と述べられて、法華経において如来の本意も、教化の儀式も確定したとある。
これによって天台大師は「如来成道・四十余年未だ真実を顕さず法華始めて真実を顕す」といわれた。この文の趣意は如来は世に出現されて四十年余りの間は真実の法を顕さなかった。法華経ではじめて仏になる真実の道を顕されたということである。
問うていう。
已今当の中で法華経が勝れているということはそうかもしれません。ただ、ある人師のいう「四十年余りは真実を顕さなかった」というのは法華経によって仏になる声聞のための言葉である。爾前経で得益した菩薩のためには未顕真実といってはならないとの義はどのように理解すればよいのでしょうか。
答えていう。
「法華経は二乗のためのものである。菩薩のためではない。したがって未顕真実ということは二乗に限るのである」というのは徳一大師の義であろう。この人は法相宗の人である。この事を伝教大師は「現在のソ食者[粗食で満足している者]は偽わりの書物を数巻作って法を謗り人を謗っている。どうして地獄に堕ちないことがあろう」と破折されている。徳一はその言葉に責められて、舌は八つに裂けて死んでいった。
しかし未顕真実とは二乗のためであるということは最も道理を得ている。その理由は、如来の布教の根元の主旨は、もとより二乗のためである。一代の化儀[法華経に帰依させる形式]・三周の善巧[巧みな方便で衆生を教化すること]はことごとく二乗を正意とされたものである。したがって華厳経では地獄の衆生は仏になれても二乗は仏になることはできないと退け、方等経典では高い峰に蓮は生えないように、二乗は仏の種を煎った衆生であるといわれ、般若では五逆罪の者は仏になれるが、二乗の成仏は叶わないと見捨てられた。このようにあわれな捨てられた者が仏になることをもって如来の本意とし、法華経の規模とするのである。
したがって天台大師はいわれた。
「華厳経・大品般若経もこれ[二乗]を治すことはできない。ただ法華経だけがよく無学の二乗に善根を生じさせ仏道を成就させることができる。ゆえに妙と称する。また一闡提にも心があるからやはり仏となる。しかし二乗は智を滅するので菩提心は生じない。法華経はそれもよく治す。ゆえに称して妙という」
この文の趣意はくわしく述べるまでもない。
ここに知ることができる。華厳・方等・大品般若経等の法薬も二乗の重病をいやさず、また三悪道の罪人も菩薩であると爾前の経では許しているが、二乗は許していない、と。
これによって妙楽大師はいわれている。
「余趣[九界の衆生]を仏道に会入することは諸経にも説かれているが、二乗については全く無い。故に菩薩に合して、二乗に対して、その難しい二乗作仏を示して法華経の力量を説いた」と。
それだけではなく、二乗の作仏は一切衆生の成仏も顕わすと天台大師は判じられている。修羅が大海を渡ることは難しいこととするだろうか。赤子が力士を投げることをどうしてたやすいとするだろうか。したがって、仏性の種のあるものは仏になると爾前経にも説くけれども、いまだ焦種の者[二乗]が仏になるとは説かれず、このような重病を簡単に癒すのはひとり法華の良薬だけである。
ただすべからくあなたが仏になろうと思うならば、慢心のはたほこを倒し、忿イカりの杖を捨てて、ひとえに一乗に帰依することである。
名聞名利は今生の飾りである。我慢偏執は後生の足かせである。ああ恥ずべきである。恥ずべきである。恐るべし、恐るべし。
問うていう。
一をもって万を察するなら、おおよその法華経のいわれを聞いて、耳目がはじめて明らかになった。
そうすると、法華経をどのように心得たならば、速やかに菩提の岸に到ることができるのでしょうか。伝え聞くところ、一念三千の大空には智慧の太陽が輝いて曇ることがなく、一心三観の広大な池には智慧の水が濁るような事のない人こそが、その修行に堪えられる機根であると伺います。
ところが(私は)奈良の修学に臂をくだく事もなかったので、瑜伽・唯識も理解せず、比叡山の学文に眼をさらさなかったので、摩訶止観・法華玄義にも迷うところです。天台・法相の両宗などは鉢をかぶって壁に向かうような有様です。かといって法華の機根には既にもれています。どうしたらよいのでしょうか。
答えていう。
智慧にすぐれひたすら精進して観法の修行をする者だけが法華経の機根であるといって、無智の人を妨げているのは今の世の学者の所行である。これはかえって愚癡・邪見の至りである。一切衆生・皆成仏道の教えであるんら、上根・上機の者は観念・観法もよいであろう。しかし下根・下機はただ信心が肝要なのである。このことは法華経に「浄心に信敬して疑惑を生じない者は、地獄界・餓鬼界・畜生界に堕ちることなく、十方の仏前に生じるだろう」と説かれている。なんとしても(法華経を)信じて次の生で仏前を期すことである。たとえば高いがけの下に人がいて、登ることができないときに、また岸壁の上に人がいて、繩をおろしてこの繩につかまれば私ががけの上に引き登らせよう、といっているのに、引く人の力を疑い、繩が弱いかもしれないと怪しんで手を納めて、この縄につかまらないようなものである。どうして岸壁の上に登る事ができよう。その言葉にしたがって手をのばして綱をとれば登る事ができるのである。「唯我一人・能為救護」との仏の御力を疑い、「以信得入」の法華経の教えの繩を怪しみ、「決定無有疑」の妙法を唱えなければ、仏の力も及ばず菩提の岸に登ることは難かしい。不信の者は「堕在泥梨」の根元である。
このことを経に「疑いを生じて信じない者はすなわち悪道に堕ちるだろう」と説かれている。
受けがたき人身を受け、あいがたき仏法にあって、どうして(一生を)虚しく過ごすのか。同じ信じるのであれば、大・小・権・実とあるなかで、諸仏出世の本意・衆生成仏の直道の一乗こそを信じるべきである。
持タモつところの法華経が諸経に勝れているのなら、持つ人もまた諸人よりも勝るのである。このことを法華経に「能くこの経を持つ者は一切衆生の中に於てまた第一なり」と説かれている。大聖の金言は疑いない。しかし人はこの真理を知らず、また見もせずに名聞を求め、疑いためらい、偏見に固執する。地獄に堕ちる基である。
ただ願うことは法華経を持ち、名を十方の仏陀の誓願の海に流し、誉れを三世の菩薩の慈悲の天に施すことである。そうすれば法華経を持つ人は、天竜・八部衆・諸大菩薩を我が眷属とする者となる。それだけではなく因位の凡夫の身の肉団に果位円満の仏眼をそなえ、有為の凡夫の身に無為の聖衣を着たならば、三途にあっても恐れなく、八難にあっても憂いはない。七方便の山の頂に登って九法界の雲を払い、無垢地の園に花は開き、法性の空には月が明らかとなる。「是人於仏道・決定無有疑」の文は頼もしく、「唯我一人・能為救護」の仏説も疑いない。「一念信解」の功徳は五波羅蜜の行を越え、五十展転の随喜は八十年間の布施よりも勝れるのである。頓証菩提の教えは遥かに他の経典より秀でて、顕本遠寿の説は永く諸乗では絶えて久しい。
こうして八歳の竜女は大海より至り来て経力を一瞬に示し、本化の上行菩薩は大地より涌き出して仏寿を久遠に顕した。
(法華経は)言語道断の経王であり、心行所滅の妙法なのである。
それなのにこの真理をおろそかにして、他の経と同等とすることは謗法の至りであり、大罪の至極である。たとえを取るにしてもたとえる物もない。仏の神通力や変化のチカラによっても、どうしてこれを説き尽くせようか。菩薩の智慧の力でもどうしてこれを量ることができようか。
ゆえに譬喩品にこうある。
「もしその罪を説かば劫を窮むとも尽きず」
文の趣意は、法華経に一度でも背いた人の罪は劫をつくしても説き尽せないということである。したがって、三世の諸仏の化導にも漏れ、ガンジス河の砂のように多い如来の法門にも捨てられ、暗きより暗きに入って阿鼻大城の苦しみからどうして免れることができよう。心がある人なら長劫の悲しみを誰が恐れないでおれよう。
このことを法華経にこう説いている。
「経を読誦し書持する者を見て、軽賎憎嫉して結恨を懐くなら、その人は命終して阿鼻獄に入らん」
文の趣意は、法華経を読み持つ者を見て、軽んじたり賤しんだり憎んだり憎んだり妬んだり恨みを抱くようならば、その人は命を終えてのち阿鼻地獄に堕ちるだろうということである。大聖の金言であり、誰がこれを恐れずにおれようか。「正直捨方便」の明らかな文をどうして疑うことができよう。
ところが人は皆経文に背き、世はことごとく法理に迷う。あなたはどうして悪友の教えにしたがうのか。それゆえに邪師の法を信じて受ける者を名づけて毒を飲む者と天台大師は釈されているのである。あなたはよくよくこのことを慎むべきである。
つくづく世間を見ると、法を貴いというけれども、(その法を持つ)その人を万人は憎んでいる。あなたはよくよく法の源に迷っている。なぜかというと、一切の草木は大地から生えている。このことから考えると、一切の仏法もまた人によって弘まるのである。これを天台大師は「仏の在世でさえなお人によって法を顕わす。末代にあってどうして法は貴いけれども人は賎しいといえよう」と釈しておられる。
それゆえ、持つところの法さえ第一ならば、持つ人もしたがって第一なのである。
したがってその人を毀ることはその法を毀ることになる。その子を賎しむのは即ちその親を賎しむことになる。
ここで知ることができる。今の世の人は言葉と心が全くあわず、孝経でその親を打つようなものである。どうして仏・菩薩の照覧を恥かしいと思わないのか。地獄の苦しはまことに恐るべきであり、慎むべきである。
上根に比べても卑下してはならない。下根を見捨てないことが仏の本懐である。
下根に比べても高慢であってはならない。上根も救いに漏れることがある。心を尽くして仏法を求めないからである。
およそその里がゆかしいけれども、道も絶え縁もないので、通う心もおろそかになり、その人は恋しいけれども、頼りにできず、契りも交わしていないので待つ思いもなおざりになるように、かの月卿雲閣よりも勝れた霊山浄土は行きやすいけれどもまだ行かず、「我即是父」である柔和な仏の御姿も見奉るべきであるのにいまだ拝見していない。ひれは誠に袂をくだし胸をこがすほどの歎きではないか。
暮れ行く空の雲の色、有明方の月の光までも、心をもよおす思いである。事にふれ、おりにつけても、後世を心にかけ、花の春、雪の朝もこれを思い、風はさわぎ、村雲の迷う夕にも忘れる隙があってはならない。
出る息は入る息をまたず、何なる時節にあっても「毎自作是念」の悲願を忘れてはならない。
何なる月日にあっても「無一不成仏」の御経を持たずにおれようか。
昨日が今日になり、去年が今年となることも期待できない余命ではないか。総じて、過ぎた歳月を数えて年の積もることを知るというが、今から行く末において一日・片時も誰が命の数に入るだろうか。臨終はすでに今にありとは知りながら、「我慢偏執・名聞利養」に執着して、妙法を唱ないことは、志の程はまったく甲斐がない。それこそは「皆成仏道」の御法とはいいながら、この人がどうして仏道を成就できるだろう。色のない人の袖には、そぞろに月の宿る事はない。また命はすでに一念にすぎないので、仏は一念随喜の功徳と説かれたのである。もしこれが二念三念を期すというならば、「平等大慧」の本誓・「頓教一乗皆成仏」の法とはいわれないのである。流布する時は末世・法滅に及び、機根は五逆罪・謗法をも納めている。故に「頓証菩提」の心にしたがって、「狐疑執著」の邪見に身を任せてはならない。
生涯はいくばくもない。思えば一夜の仮の宿ということを忘れてどれほどの名利を得ようというのか。 また得たとしてもこれは夢の中の栄えであり珍しくもない楽しみである。
ただ先の世の業因に任せて生きるべきである。世間の無常を悟ることは、眼を遮り耳に満ちている。雲となり雨となったのだろう。昔の人はただ名のみを聞く。露と消え煙と登り、今の友も又見えない。
自分はいつまで三笠の雲と思えるだろう。春は花の風にしたがい秋は紅葉の時雨に染まる。これらはすべて生きながらえられない世の中のためしであるから、法華経には「世のすべてが牢固でならないことは水の沫泡や焔のようである」と説かれている。
「以何令衆生・得入無上道」の御心の底、順縁・逆縁の者もともに救おうというお言葉は、まさに本懐であるから、少しの間持つ者もまた本意に叶うのである。また本意に叶うならば仏の恩を報じることとなる。悲母まように慈悲が深く重い経文が心安ければ「唯我一人」の御苦しみもどうにか安らがれるだろう。釈迦一仏が悦ばれるだけではなく、諸仏出世の本懐であるから、十方三世の諸仏も悦ばれるであろう。
「我即歓喜・諸仏亦然」と説かれているので、仏が悦ばれるだけではなく、神も随喜されるであろう。
伝教大師が法華経を講義されたとき、八幡大菩薩は紫の袈裟を布施し、空也上人が法華経を読んだときは、松尾の大明神は寒風を防がれた。
それゆえ「七難即滅七福即生」と祈るにも、この御経が第一なのである。「現世安穏」と説かれているからである。
他国侵逼の難・自界叛逆の難の御祈祷にもこの妙典に過ぎるものはない。「令百由旬内無諸衰患」と説かれているからである。
ところが、今の世の御祈祷はさかさまである。先代に流布した権教である。末代に流布するべき最上・真実の秘法ではない。たとえば去年の暦を用いたり、烏を鵜のように使うようなものである。これはひとえに権教の邪師を貴んでいまだ実教の明師に会われていないためである。惜しいことに文王・武王の卞和ベンカのあら玉はどこに納めたのであろう。嬉いことに釈尊出世の髻モトドリの中の明珠は今度我が身に得た。十方諸仏が証明している。いいかげんなことではない。したがって「一切世間・多怨難信」と知りながらどうして少しでも疑う心を残して「決定無有疑」の仏に成らずにおれよう。
過去世以来ずっと続く苦しみはいたずらに受けてきただけであった。どうしてしばらくでも不変常住の妙因を植えずにおれようか。
未来・永遠の楽しみはわずかに心を養うとも、しいてあながちに電光や朝露のような名利を貪るべきではない。
「三界無安・猶如火宅」は如来の教えであり、「所以諸法・如幻如化」は菩薩の言葉である。
寂光の都でないならばどこもすべて苦しみである。本覚の栖スミカを離れて何事が楽しみとなるだろう。願うことは「現世安穏・後生善処」の妙法を持つことのみこそただ今生の名聞であり、後世の弄引となるだろう。すべからく心を一つにして南無妙法蓮華経と自分も唱え他人にも勧めることのみ今世の人界の思い出となるだろう。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。