同志と共に

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小乗大乗分別抄しょうじょうだいじょうふんべつしょう

夫れ小大定めなし一寸の物を一尺の物に対しては小と云い五尺の男に対しては六尺七尺の男を大の男と云う、外道の法に対しては一切の大小の仏教を皆大乗と云う大法東漸通指仏教以為大法等と釈する是なり、仏教に入つても鹿苑十二年の説・四阿含経等の一切の小乗経をば諸大乗経に対して小乗経と名けたり、又諸大乗経には大乗の中にとりて劣る教を小乗と云う華厳の大乗経に其余楽小法と申す文あり、天台大師はこの小法というは常の小乗経にはあらず十地の大法に対して十住・十行・十回向の大法を下して小法と名くと釈し給へり、又法華経第一の巻・方便品に若以小乗化・乃至於一人と申す文あり天台妙楽は阿含経を小乗と云うのみにあらず華厳経の別教・方等般若の通別の大乗をも小乗と定め給う、又玄義の第一に会小帰大・是漸頓泯合と申す釈をば智証大師は初め華厳経より終り般若経にいたるまで四教八教の権教諸大乗経を漸頓と釈す泯合とは八教を会して一大円教に合すとこそ・ことはられて候へ、又法華経の寿量品に楽於小法・徳薄垢重者と申す文あり、天台大師は此経文に小法と云うは小乗経にもあらず又諸大乗経にもあらず久遠実成を説かざる華厳経の円乃至方等般若法華経の迹門十四品の円頓の大法まで小乗の法なり、又華厳経等の諸大乗経の教主の法身・報身・毘盧遮那盧舎那・大日如来等をも小仏なりと釈し給ふ、此の心ならば涅槃経・大日経等の一切の大小権実顕密の諸経は皆小乗経・八宗の中には倶舎宗・成実宗・律宗を小乗と云うのみならず華厳宗・法相宗・三論宗・真言宗等の諸大乗宗を小乗宗として唯天台の一宗計り実大乗宗なるべし、彼彼の大乗宗の所依の経経には絶えて二乗作仏・久遠実成の最大の法をとかせ給はず、譬えば一尺二尺の石を持つ者をば大力といはず一丈二丈の石を持つを大力と云うが如し、華厳経の法界円融四十一位・般若経の混同無二・十八空乾慧地等の十地・瓔珞経の五十二位仁王経の五十一位薬師経の十二の大願雙観経の四十八願大日経の真言印契等此等は小乗経に対すれば大法秘法なり、法華経の二乗作仏久遠実成に対すれば小乗の法なり、一尺二尺を一丈二丈に対するが如し、又二乗作仏・久遠実成は法華経の肝用にして諸経に対すれば奇たりと云へども法華経の中にてはいまだ奇妙ならず一念三千と申す法門こそ奇が中の奇妙が中の妙にて華厳大日経等に分絶たるのみならず、八宗の祖師の中にも真言等の七宗の人師名をだにもしらず天竺の大論師竜樹菩薩・天親菩薩は内には珠を含み外には書きあらはし給はざりし法門なり、雨衆が三徳・米斉が六句の先仏の教を盗みとれる様に華厳宗の澄観・真言宗の善無畏等は天台大師の一念三千の法門を盗み取つて我が所依の経の心仏及衆生の文の心とし心実相と申す文の神とせるなり、かくのごとく盗み取つて我が宗の規模となせるが又還つて天台宗を下し華厳宗・真言宗には劣れる法なりと申す、此等の人師は世間の盗人にはあらねども仏法の盗人なるべし、此等をよくよく尋ね明むべし。 又世間の天台宗の学者並びに諸宗の人人の云く法華経は但二乗作仏・久遠実成計りなり等云云、今反詰して云く汝等が承伏に付いて但二乗作仏と久遠実成計り法華経にかぎつて諸経になくば此れなりとも豈奇が中の奇にあらずや、二乗作仏・諸経になくば仏の御弟子・頭陀第一の迦葉・智慧第一の舎利弗・神通第一の目連等の十大弟子・千二百の羅漢・万二千の声聞・無数億の二乗界・過去遠遠劫より未来無数劫にいたるまで法華経に値いたてまつらずば永く色心倶に滅して永不成仏の者となるべし豈大なる失にあらずや、又二乗界・仏にならずば迦葉等を供養せし梵天・帝釈・四衆・八部・比丘・比丘尼等の二界・八番の衆はいかんがあるべき、又久遠実成が此の経に限らずんば三世の諸仏・無常遷滅の法に堕しなん、譬えば天に諸星ありとも日月ましまさずんば・いかんがせん地に草木ありとも大地なくばいかんがせん、是は汝が承伏に付いての義なり実をもつて勘へ申さば二乗作仏なきならば九界の衆生・仏になるべからず、法華経の心は法爾のことはりとして一切衆生に十界を具足せり、譬えば人・一人は必ず四大を以てつくれり一大かけなば人にあらじ、一切衆生のみならず十界の依正の二法・非情の草木・一微塵にいたるまで皆十界を具足せり、二乗界・仏にならずば余界の中の二乗界も仏になるべからず又余界の中の二乗界・仏にならずば余界の八界・仏になるべからず、譬えば父母ともに持ちたる者・兄弟九人あらんか二人は凡下の者と定められば余の七人も必ず凡下の者となるべし、仏と経とは父母の如し九界の衆生は実子なり声聞・縁覚の二人・永不成仏の者となるならば菩薩・六凡の七人あに得道をゆるさるべきや、今此の三界は皆是我が有なり其の中の衆生は悉く是吾子なり乃至唯我一人のみ能く救護を為すの文をもつて知るべし、又菩薩と申すは必ず四弘誓願をおこす第一衆生無辺誓願度の願・成就せずば第四の無上菩提誓願証の願も成就すべからず、前四味の諸経にては菩薩・凡夫は仏になるべし二乗は永く仏になるべからず等云云、而るをかしこげなる菩薩もはかなげなる六凡も共に思へり我等仏になるべし二乗は仏にならざれば・かしこくして彼の道には入ざりけると思ふ、二乗はなげきをいたき此の道には入るまじかりし者をと恐れかなしみしが・今法華経にして二乗を仏になし給へる時二乗・仏になるのみならず・かの九界の成仏をも・ときあらはし給へり、諸の菩薩・此の法門を聞いて思はく我等が思ひは・はかなかりけり爾前の経経にして二乗仏にならずば我等もなるまじかりける者なり、二乗を永不成仏と説き給ふは二乗一人計りなげくべきにあらざりけり我等も同じなげきにてありけりと心うるなり。 又寿量品の久遠実成が爾前の経経になき事を以て思ふに爾前には久遠実成なきのみならず仏は天下第一の大妄語の人なるべし、爾前の大乗第一たる華厳経・大日経等に始めて正覚を成じ我昔道場に坐す等云云、真実甚深・正直捨方便の無量義経と法華経の迹門には我先に道場にして・我始め道場に坐すと説れたり、此等の経文は寿量品の然るに我実に成仏してより已来無量無辺なりの文より思い見ればあに大妄語にあらずや、仏の一身すでに大妄語の身なり一身に備えたる六根の諸法あに実なるべきや、大冰の上に造れる諸舎は春をむかへては破れざるべしや水中の満月は実に体ありや、爾前の成仏往生等は水中の星月の如し爾前の成仏往生等は体に随ふ影の如し、本門寿量品をもつて見れば寿量品の智慧をはなれては諸経は跨節・当分の得道共に有名無実なり、天台大師此の法門を道場にして独り覚知し玄義十巻・文句十巻・止観十巻等かきつけ給うに諸経に二乗作仏・久遠実成絶えてなき由を書きをき給ふ、是は南北の十師が教相に迷つて三時・四時・五時・四宗・五宗・六宗・一音・半満・三教四教等を立てて教の浅深勝劣に迷いし此等の非義を破らんが為にまず眼前たる二乗作仏・久遠実成をもつて諸経の勝劣を定め給いしなり、然りと云つて余界の得道をゆるすにはあらず、其の後華厳宗の五教・法相宗の三時・真言宗の顕密・五蔵・十住心・義釈の四句等は南三北七の十師の義よりも尚〓れる教相なり。 此等は他師の事なれば・さてをきぬ又自宗の学者が天台・妙楽・伝教大師の御釈に迷うて爾前の経経には二乗作仏・久遠実成計りこそ無けれども余界の得道は有りなんど申す人人・一人二人ならず日本国に弘まれり、他宗の人人・是に便を得て弥天台宗を失ふ此等の学者は譬えば野馬の蜘蛛の網にかかり渇る鹿の陽炎をおふよりもはかなし・例せば頼朝の右大将家は泰衡を討たんが為に泰衡を誑して義経を討たせ、太政入道清盛は源氏を喪して世をとらんが為に我が伯父平馬介忠正を切る義朝はたぼらかされて慈父為義を切るが如し、此等は墓なき人人のためしなり、天台大師法華経より外の経経には二乗作仏・久遠実成は絶えてなしなんど釈し給へば菩薩の作仏・凡夫の往生はあるなんめりとうち思いて我等は二乗にも・あらざれば爾前の経経にても得道なるべし此の念い心中にさしはさめり、其の中にも観経の九品往生はねがひやすき事なれば法華経をばなげすて念仏申して浄土に生れて観音・勢至・阿弥陀仏に値いたてまつて成仏を遂ぐべし云云、当世の天台宗の人人を始として諸宗の学者皆此くの如し実義をもつて申さば一切衆生の成仏のみならず六道を出で十方の浄土に往生する事はかならず法華経の力なり、例せば日本国の人・唐土の内裏に入らん事は必ず日本の国王の勅定によるべきが如し・穢土を離れて浄土に入る事は必ず法華経の力なるべし、例せば民の女・乃至関白大臣の女に至るまで大王の種を下せば其の産る子・王となりぬ、大王の女なれども臣下の種を懐姙せば其の子王とならざるが如し、十方の浄土に生るる者は三乗・人天・畜生等までも皆王の種姓と成つて生るべし皆仏となるべきが故なり、阿含経は民の女の民を夫とし華厳・方等・般若等は臣の女の臣を夫とせるが如し、又華厳経・方等・般若・大日経等の円教の菩薩等は大王の女の臣下を夫とせるが如し、皆浄土に生るべき法にはあらず、又華厳・阿含・方等・般若等の経経の間に六道を出づる人あり是は彼彼の経経の力には非ず過去に法華経の種を殖えたりし人・現在に法華経を待たずして機すすむ故に爾前の経経を縁として過去の法華経の種を発得して成仏往生をとぐるなり、例せば縁覚の無仏世にして飛花落葉を観じて独覚の菩提を証し孝養父母の者の梵天に生るるが如し・飛花落葉・孝養父母等は独覚と梵天との修因にはあらねどもかれを縁として過去の修因を引きおこし彼の天に生じ独覚の菩提を証す、而るに尚過去に小乗の三賢・四善根にも入らず有漏の禅定をも修せざる者は月を観じ花を詠じ孝養父母の善を修すれども独覚ともならず色天にも生ぜず、過去に法華経の種を殖ざる人は華厳経の席に侍りしかども初地・初住にものぼらず、鹿苑説教の砌にても見思をも断ぜず観経等にても九品の往生をもとげず、但大小の賢位のみに入つて聖位には・のぼらずして法華経に来つて始めて仏種を心田に下して一生に初地・初住等に登る者もあり、又涅槃の座へさがり乃至・滅後・未来までゆく人もあり、過去に法華経の種を殖たる人人は結縁の厚薄に随つて華厳経を縁として初地初住に登る人もあり、阿含経を縁として見思を断じて二乗と成る者もあり、観経等の九品の行業を縁として往生する者もあり、方等・般若も此れをもつて知んぬべし、此等は彼彼の経経の力にはあらず偏に法華経の力なり譬えば民の女に王の種を下せるを人しらずして民の子と思ひ大臣等の女に王の種を下せるを人しらずして臣下の子と思へども大王より是を尋ぬれば皆王種となるべし、爾前にして界外へ至る人を法華経より之を尋ぬれば皆法華経の得道なるべし、又過去に法華経の種を殖えたる人の根鈍にして爾前の経経に発得せざる人人は法華経にいたりて得道なる、是は爾前の経経をば・めのととしてきさき腹の太子・王子と云うが如くなるべし、又仏の滅後にも正法一千年が間は在世の如くこそなけれども過去に法華経の種を殖えて法華・涅槃経にて覚りをとぐる者もありぬ現在・在世にて種を下せる人人も是多し。 又滅後なれども現に法華経ましませば外道の法より小乗経にうつり小乗経より権大乗にうつり権大乗より法華経にうつる人人・数をしらず、竜樹菩薩・無著菩薩・世親論師等是なり、像法一千年には正法のほどこそ無けれども又過去・現在に法華経の種を殖えたる人人も少少之有り、而るを漸漸に仏法澆薄になる程に宗宗も偏執・石の如くかたく我慢・山の如く高し、像法の末に成りぬれば仏法によつて諍論・興盛して仏法の合戦ひまなし、世間の罪よりも仏法の失に依つて無間地獄に堕つる者・数をしらず。 今は又末法に入つて二百余歳・過去現在に法華経の種を殖えたりし人人も・やうやくつきはてぬ、又種をうへたる人人は少少あるらめども世間の大悪人・出生の謗法の者数をしらず国に充満せり、譬えば大火の中の小水・大水の中の小火・大海の中の水・大地の中の金なんどの如く悪業とのみなりぬ、又過去の善業もなきが如く現在の善業もしるしなし、或は弥陀の名号をもつて人を狂はし法華経をすてしむれば背上向下のとがあり、或は禅宗を立てて教外と称し仏教をば真の法にあらずと蔑如して増上慢を起し、或は法相・三論・華厳宗を立てて法華経を下し、或は真言宗大日宗と称して法華経は釈迦如来の顕教にして真言宗に及ばず等云云、而るに自然に法門に迷う者もあり或は師師に依つて迷う者もあり、或は元祖・論師・人師の迷法を年久しく真実の法ぞと伝へ来る者もあり、或は悪鬼・天魔の身に入りかはりて悪法を弘めて正法ぞと思ふ者もあり、或ははづかの小乗一途の小法をしりて大法を行ずる人はしからずと我慢して我が小法を行ぜんが為に大法秘法の山寺をおさへとる者もあり、或は慈悲魔と申す魔・身に入つて三衣一鉢を身に帯し小乗の一法を行ずるやからはづかの小法を持ちて国中の棟梁たる比叡山・竜象の如くなる智者どもを一分我が教にたがへるを見て邪見の者・悪人なんどうち思へり、此の悪見をもつて国主をたぼらかし誑惑して正法の御帰依をうすうなしかへつて破国破仏の因縁となせるなり、彼の〓己・妲己・褒〓と申せし后は心もおだやかに・みめかたちも人にすぐれたりき、愚王これを愛して国をほろぼす因縁となす、当世の禅師・律師・念仏者なんど申す聖一・道隆・良観・道阿弥・念阿弥なんど申す法師どもは鳩鴿が糞土を食するが如し西施が呉王をたぼらかししに似たり、或は我が小乗の臭糞・驢乳の戒を持て。