同志と共に

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立正観抄りっしょうかんしょう

法華止観同異決日蓮撰 当世天台の教法を習学するの輩多く観心修行を貴んで法華本迹二門を捨つと見えたり、今問う抑観心修行と言うは天台大師の摩訶止観の説己心中所行法門の一心三観・一念三千の観に依るか、将又・世流布の達磨の禅観に依るか、若し達磨の禅観に依るといわば教禅は未顕真実妄語方便の禅観なり法華経妙禅の時には正直捨方便と捨てらるる禅なり、祖師達磨禅は教外別伝の天魔禅なり、共に是れ無得道妄語の禅なり仍て之を用ゆ可からず、若し天台の止観一心三観に依るとならば止観一部の廃立・天台の本意に背く可からざるなり、若し止観修行の観心に依るとならば法華経に背く可からず止観一部は法華経に依つて建立す一心三観の修行は妙法の不可得なるを感得せんが為なり、故に知んぬ法華経を捨てて但だ観を正とするの輩は大謗法・大邪見・天魔の所為なることを、其の故は天台の一心三観とは法華経に依つて三昧開発するを己心証得の止観とは云う故なり。 問う天台大師・止観一部並びに一念三千・一心三観・己心証得の妙観は併しながら法華経に依ると云う証拠如何、答う予反詰して云く法華経に依らずと見えたる証文如何、人之を出して云く「此の止観は天台智者・己心中所行の法門を説く或は又故に止観に至つて正く観法を明かす並に三千を以て指南と為す乃ち是れ終窮究竟の極説なり故に序の中に説己心中所行法門と云えり良に以有るなり」文、難じて云く此の文は全く法華経に依らずと云う文に非ず既に説己心中所行の法門と云うが故なり天台の所行の法門は法華経なるが故に此の意は法華経に依ると見えたる証文なり但し他宗に対するの時は問答大綱を存す可きなり、所謂云う可し若し天台の止観・法華経に依らずといわば速かに捨つ可きなりと、其の故は天台大師兼ねて約束して云く「修多羅と合せば録して之を用いよ文無く義無きは信受す可からず」云云、伝教大師の云く「仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ」文、竜樹の大論に云く「修多羅に依るは白論なり修多羅に依らざるは黒論なり」文、教主釈尊云く「依法不依人」文、天台は法華経に依り竜樹を高祖にしながら経文に違し我が言を飜じて外道邪見の法に依つて止観一部を釈する事全く有る可からざるなり、問う正しく止観は法華経に依ると見えたる文之有りや、答う余りに多きが故に少少之を出さん止観に云く「漸と不定とは置いて論ぜず今経に依つて更に円頓を明かさん」文、弘決に云く「法華経の旨を攅て不思議・十乗・十境・待絶滅絶・寂照の行を成ず」文、止観大意に云く「今家の教門は竜樹を以て始祖と為す慧文は但内観を列ねて視聴するのみ南岳天台に及んで復法華三昧陀羅尼を発するに因つて義門を開拓して観法周備す、○若し法華を釈するには弥弥須く権実本迹を暁了すべし方に行を立つ可し此の経独り妙と称することを得・方に此に依つて以て観意を立つ可し、五方便及び十乗軌行と言うは即ち円頓止観全く法華に依る円頓止観は即ち法華三昧の異名なるのみ」文、文句の記に云く「観と経と合すれば他の宝を数うるに非ず方に知んぬ止観一部は是れ法華三昧の筌〓なり若し斯の意を得れば方に経旨に会う」云云、唐土の人師行満の釈せる学天台宗法門大意に云く「摩訶止観一部の大意は法華三昧の異名を出でず経に依つて観を修す」文、此等の文証分明なり、誰か之を論ぜん、問う天台四種の釈を作るの時・観心の釈に至つて本迹の釈を捨つと見えたり、又法華経は漸機の為に之を説き・止観は直達の機の為に之を説くと如何、答う漸機の為に説けば劣り頓機の為に説けば勝るとならば今の天台宗の意は華厳・真言等の経は法華経に勝れたりと云う可きや、今の天台宗の浅〓さは真言は事理倶密の教なる故に法華経に勝れたりと謂えり、故に止観は法華に勝ると云えるも道理なり道理なり。 次に観心の釈の時本迹を捨つと云う難は法華経何れの文・人師の釈を本と為して仏教を捨てよと見えたるや設い天台の釈なりとも釈尊の金言に背き法華経に背かば全く之を用ゆ可からざるなり、依法不依人の故に竜樹・天台・伝教元よりの御約束なるが故なり、其上天台の釈の意は迹の大教起れば爾前の大教亡じ本の大教興れば迹の大教亡じ観心の大教興れば本の大教亡ずと釈するは本体の本法をば妙法不思議の一法に取り定めての上に修行を立つるの時、今像法の修行は観心修行を詮と為るに迹を尋ぬれば迹広し本を尋ぬれば本高うして極む可からず、故に末学機に叶い難し但己心の妙法を観ぜよと云う釈なり、然りと雖も妙法を捨てよとは釈せざるなり若し妙法を捨てば何物を己心と為して観ず可きや、如意宝珠を捨て瓦石を取つて宝と為す可きか、悲しいかな当世天台宗の学者は念仏・真言・禅宗・等に同意するが故に天台の教釈を習い失つて法華経に背き大謗法の罪を得るなり、若し止観を法華経に勝ると云わば種種の過之有り止観は天台の道場所得の己証なり、法華経は釈尊の道場所得の大法なり是一釈尊は妙覚果満の仏なり天台は住前未証なれば名字・観行・相似には過ぐ可からず四十二重の劣なり是二法華は釈尊乃至諸仏出世の本懐なり止観は天台出世の己証なり是三法華経は多宝の証明あり来集の分身は広長舌を大梵天に付く皆是真実の大白法なり是四止観は天台の説法なり是くの如き等の種種の相違之有れども仍お之を略するなり、又一つの問答に云く所被の機・上機なる故に勝ると云わば実を捨てて権を取れ天台云く「教弥弥権なれば位弥弥高し」と釈し給う故なり所被の機下劣なる故に劣ると云わば権を捨てて実を取れ、天台の釈には教弥弥実なれば位弥弥下しと云う故なり、然而して止観は上機の為に之を説き法華は下機の為に之を説くと云わば止観は法華に劣れる故に機を高く説くと聞えたり実にさもや有るらん、天台大師は霊山の聴衆として如来出世の本懐を宣べたもうと雖も時至らざるが故に妙法の名字を替えて止観と号す迹化の衆なるが故に本化の付属を弘め給わず正直の妙法を止観と説きまぎらかす故に有のままの妙法ならざれば帯権の法に似たり、故に知んぬ天台弘通の所化の機は在世帯権の円機の如し、本化弘通の所化の機は法華本門の直機なり、止観・法華は全く体同と云わん尚人師の釈を以て仏説に同ずる失甚重なり、何に況や止観は法華経に勝ると云う邪義を申し出すは但是れ本化の弘経と迹化の弘通と・像法と末法と迹門の付属と本門の付属とを末法の行者に云い顕わさせん為の仏天の御計いなり、爰に知んぬ当世天台宗の中に此の義を云う人は祖師天台の為には不知恩の人なり豈其の過を免れんや、夫れ天台大師は昔霊山に在ては薬王と名け・今漢土に在ては天台と名け・日本国の中にては伝教と名く三世の弘通倶に妙法と名く、是くの如く法華経を弘通し給う人は在世の釈尊より外は三国に其の名を聞かず有り難く御坐します大師を其の末学其の教釈を悪く習うて失無き天台に失を懸けたてまつる豈大罪に非ずや。 今問う天台の本意は何法ぞや碩学等の云く「一心三観是なり」今云く一実円満の一心三観とは誠に甚深なるに似たれども尚以て行者修行の方法なり三観とは因の義なるが故なり慈覚大師の釈に云く「三観とは法体を得せしめんが為の修観なり」云云、伝教大師云く「今止観修行とは法華の妙果を成ぜんが為なり」云云、故に知んぬ一心三観とは果地・果徳の法門を成ぜんが為の能観の心なることを何に況や三観とは言説に出でたる法なる故に如来の果地・果徳の妙法に対すれば可思議の三観なり。 問う一心三観に勝れたる法とは何なる法ぞや、答う此の事誠に一大事の法門なり唯仏与仏の境界なるが故に我等が言説に出す可からざるが故に是を申す可らざるなり、是を以て経文には「我が法は妙にして思い難し言を以て宣ぶ可からず」云云妙覚果満の仏すら尚不可説・不思議の法と説き給う何に況や等覚の菩薩已下乃至凡夫をや、問う名字を聞かずんば何を以て勝法有りと知ることを得んや、答う天台己証の法とは是なり、当世の学者は血脈相承を習い失う故に之を知らざるなり故に相構え相構えて秘す可く秘す可き法門なり、然りと雖も汝が志神妙なれば其の名を出すなり一言の法是なり伝教大師の一心三観一言に伝うと書き給う是なり、問う未だ其の法体を聞かず如何、答う所詮一言とは妙法是なり、問う何を以て妙法は一心三観に勝れたりと云う事を知ることを得るや、答う妙法は所詮の功徳なり三観は行者の観門なる故なり此の妙法を仏説いて言く「道場所得法・我法妙難思・是法非思量・不可以言宣」云云、天台の云く「妙は不可思議・言語道断・心行所滅なり法は十界十如・因果不二の法なり」と、三諦と云うも三観と云うも三千と云うも共に不思議法とは云えども天台の己証天台の御思慮の及ぶ所の法門なり、此の妙法は諸仏の師なり今の経文の如くならば久遠実成の妙覚極果の仏の境界にして爾前迹門の教主・諸仏菩薩の境界に非ず経に唯仏与仏・乃能究尽とは迹門の界如三千の法門をば迹門の仏が当分究竟の辺を説けるなり、本地難思の境智の妙法は迹仏等の思慮に及ばず何に況や菩薩凡夫をや、止観の二字をば観名仏知・止名仏見と釈すれども迹門の仏智仏見にして妙覚極果の知見には非ざるなり、其の故は止観は天台己証の界如三千・三諦三観を正と為す迹門の正意是なり、故に知んぬ迹仏の知見なりと云う事を但止観に絶待不思議の妙観を明かすと云えども只一念三千の妙観に且らく与えて絶待不思議と名けるなり。 問う天台大師真実に此の一言の妙法を証得したまわざるや、答う内証爾らざるなり、外用に於ては之を弘通したまわざるなり、所謂内証の辺をば祕して外用には三観と号して一念三千の法門を示現し給うなり、問う何が故ぞ知り乍ら弘通し給わざるや、答う時至らざるが故に付属に非ざるが故に迹化なるが故なり、問う天台此の一言の妙法を証得し給える証拠之有りや、答う此の事天台一家の祕事なり世に流布せる学者之を知らず潅頂玄旨の血脈とて天台大師自筆の血脈一紙之有り、天台御入滅の後は石塔の中に之有り伝教大師御入唐の時八舌の鑰を以て之を開き道邃和尚より伝受し給う血脈とは是なり、此の書に云く「一言の妙旨・一教の玄義」文、伝教大師の血脈に云く「夫れ一言の妙法とは両眼を開いて五塵の境を見る時は随縁真如なるべし両眼を閉じて無念に住する時は不変真如なるべし、故に此の一言を聞くに万法〓に達し一代の修多羅一言に含す」文、此の両大師の血脈の如くならば天台大師の血脈相承の最要の法は妙法の一言なり、一心三観とは所詮妙法を成就せん為の修行の方法なり、三観は因の義・妙法は果の義なり但因の処に果有り果の処に因有り因果倶時の妙法を観ずるが故に是くの如き功能を得るなり、爰に知んぬ天台至極の法門は法華本迹未分の処に無念の止観を立てて最祕の大法とすと云える邪義大なる僻見なりと云う事を四依弘経の大薩〓は既に仏経に依つて諸論を造る天台何ぞ仏説に背いて無念の止観を立てたまわんや、若し此の止観・法華経に依らずといわば天台の止観・教外別伝の達磨の天魔の邪法に同ぜん都て然る可からず哀れなり哀れなり。 伝教大師の云く「国主の制に非ざれば以て遵行する無く法王の教に非ざれば以て信受すること無けん」と文、又云く「四依・論を造るに権有り実有り三乗旨を述ぶるに三有り一有り、所以に天台智者は三乗の旨に順じて四教の階を定め一実の教に依つて一仏乗を建つ、六度に別有り、戒度何ぞ同じからん受法同じからず威儀豈同じからんや、是の故に天台の伝法は深く四依に依り亦仏経に順う」文、本朝の天台宗の法門は伝教大師より之を始む若し天台の止観法華経に依らずと云わば日本に於ては伝教の高祖に背き漢土に於ては天台に背く両大師の伝法既に法華経に依る豈其の末学之に違せんや、違するを以て知んぬ当世の天台家の人人・其の名を天台山に借ると雖も所学の法門は達磨の僻見と善無畏の妄語とに依ると云う事、天台伝教の解釈の如くんば己心中の秘法は但妙法の一言に限るなり、然而当世の天台宗の学者は天台の石塔の血脈を秘し失う故に天台の血脈相承の秘法を習い失いて我と一心三観の血脈とて我意に任せて書を造り錦の袋に入れて頚に懸け箱の底に埋めて高直に売る故に邪義国中に流布して天台の仏法破失するなり、天台の本意を失い釈尊の妙法を下す是れ偏えに達磨の教訓・善無畏の勧なり、故に止観をも知らず・一心三観・一心三諦をも知らず一念三千の観をも知らず本迹二門をも知らず相待・絶待の二妙をも知らず法華の妙観をも知らず教相をも知らず権実をも知らず四教・八教をも知らず五時五味の施化をも知らず、教・機・時・国・相応の義は申すに及ばず実教にも似ず権教にも似ざるなり道理なり道理なり。 天台・伝教の所伝は法華経は禅・真言より劣れりと習う故に達磨の邪義・真言の妄語と打ち成つて権教にも似ず実教にも似ず二途に摂せざるなり、故に大謗法罪顕れて止観は法華経に勝ると云う邪義を申し出して過無き天台に失を懸けたてまつる故に高祖に背く不孝の者・法華経に背く大謗法罪の者と成るなり。 夫れ天台の観法を尋ぬれば大蘇道場に於て三昧開発せしより已来目を開いて妙法を思えば随縁真如なり目を閉じて妙法を思えば不変真如なり此の両種の真如は只一言の妙法に有り我妙法を唱うる時・万法〓に達し一代の修多羅一言に含す、所詮迹門を尋ぬれば迹広く本門を尋ぬれば本高し如かじ己心の妙法を観ぜんにはと思食されしなり、当世の学者此の意を得ざるが故に天台己証の妙法を習い失いて止観は法華経に勝り禅宗は止観に勝れたりと思いて法華経を捨てて止観に付き止観を捨てて禅宗に付くなり、禅宗の一門云く松に藤懸る松枯れ藤枯れて後如何上らずして一枝なんど云える天魔の語を深く信ずる故なり、修多羅の教主は松の如く其の教法は藤の如し各各に諍論すと雖も仏も入滅して教法の威徳も無し爰に知んぬ修多羅の仏教は月を指す指なり禅の一法のみ独妙なり之を観ずれば見性得達するなりと云う大謗法の天魔の所為を信ずる故なり、然而法華経の仏は寿命無量・常住不滅の仏なり、禅宗は滅度の仏と見るが故に外道の無の見なり、是法住法位・世間相常住の金言に背く僻見なり、禅は法華経の方便無得道の禅なるを真実常住法と云うが故に外道の常見なり、若し与えて之を言わば仏の方便三蔵の分斉なり若し奪つて之を言わば但外道の邪法なり与は当分の義・奪は法華の義なり法華の奪の義を以ての故に禅は天魔外道の法と云うなり、問う禅を天魔の法と云う証拠如何、答う前前に申すが如し。