同志と共に

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一代五時図いちだいごじず

大智度論によれば、(釈尊は)十九歳で出家し三十歳で成道したとある。
華厳経 権大乗教
華厳経を二十一日間の間説いた
華厳経を十四日間の間説いた
華厳宗
戒定慧
智儼チゴン(中国華厳宗の第二祖)
杜順トジユン(中国華厳宗の祖)
法蔵(中国華厳宗の第三祖)
澄観(中国華厳宗の第四祖)
阿含 小乗教
阿含経を十二年の間説いた
倶舎宗 戒定慧
成実宗 戒定慧
律宗 戒定慧 鑒真和尚
方等 権大乗教
方等教、般若経を三十年の間説いた
大集経
深密経教 法相宗 戒定慧 玄奘・慈恩
楞伽経 禅宗
観経・雙観経・阿弥陀経 浄土宗 善導
金剛頂経・大日経・蘇悉地経 真言宗 戒定慧
般若 権大乗教
百論 提婆菩薩の造
中論 竜樹菩薩の造
十二門論 同
大智度論 同
三論宗 戒定慧 嘉祥寺 吉蔵大師
無量義経にこうある。
「方便の力をもって四十年余りには未だ真実を顕していない」
またこうある。
「量ハカることも教えることも思議することもできない。また極めて長い時間を過ぎても、ついに無上菩提を成ずることはできない。その理由はというと、成仏にいたる大直道を知らないために、留難の多い険しい道を行かなければならないからである」
またこうある。
「留難のない大直道に行くことができる」と。
法華経 八箇年説いた。
法華宗 天台宗 戒定慧
「世尊は成道してから四十年余りの久ししい間にわたって方便権教を説いた後必ずまさに真実を説かれるのである」
「種々の道を示されたが、それは実はすべての人々を得道させる法華経を説くためである」
「正直に方便を捨ててただ無上道を説く」
「今この三界はすべて私の所有であり、その中の人々はことごとくれ我が子である。しかも今この世界は多くのわずらわしいことがある。ただ私一人がよく救い護ることができる。また教えようとしても、信じないで受けようとしない」
「もし人が信じないで、この経を毀謗すれば、一切世間の仏種を断つことになる。その人は命を終えて阿鼻地獄に入るだろう。まさに魔が仏となって我が心を悩み乱そうとしているのではないか。これは舎利弗の疑いであり、法華経二の巻にある。
妙法華経に「法華経の説法はすべて真実である」とある。
これは多宝如来が証明した文である。
涅槃経
涅槃経巻六に説かれている。
一日一夜で説かれた。
釈尊は八十歳で入滅された。
法の四依
法に依って人に依ってはならない。
義に依って語に依ってはならない。
智に依って識に依ってはならない。
了義経に依って不了義経に依ってはならない。
人の四依
初依 五品弟子位 天台大師等
六根清浄位
第二依 初地已上 竜樹菩薩等
第三依
第四依 等覚の菩薩
天竺(インド) 十住毘婆沙論の梵本は十四あるいは十五あるいは十六巻からなる。
十住毘婆沙論に次のようにある。竜樹菩薩の造であり羅什三蔵[鳩摩羅什]の訳である
不退地
難行道 たとえば険難の陸路を歩いて行けば苦難が多いが、
易行道 水の上をふねに乗っていけば楽なようなものである。
十仏・百三十余菩薩並びに阿弥陀仏等の諸仏の名号を称えること。
曇鸞法師は斉の時代の人である。もとは三論宗の人である。浄土論註・二巻を作る。
道綽禅師は唐の時代の人である。善導の師である。安楽集二巻を作る。
安楽集にこうある。「大集月蔵経には、『私の入滅後の末法の時代の数えきれないほど多くの衆生は、仏道修行を起こし、修するとしても、いまだ一人も得道する者はない。まさしく今の末法は五濁の悪世である。ただ浄土の一門のみがあって浄土に入ることのできる道である』」
善導は唐の時代の人である。
玄義分一巻・序分義一巻・定善義一巻・散善義一巻・観念法門経一巻・往生礼讃偈一巻・般舟讃一巻・法事讃上下、以上の五部九巻を著す。
法然は隠岐院(後鳥羽天皇)の時代の人である。建仁年中から今にいたるまで五十年余りである。
法然 (諱イミナは)源空
選択本願念仏集 一巻からなる。
道綽は安楽集で、(末法の衆生は聖道門を修行しても)いまだ一人も得道する者はいないとした。
善導は往生礼讃偈・観無量寿経疏で、浄土三部経以外の経教による修行、五種の正行以外の修行では、極楽往生できるものは千人の中に一人もいないとした。
釈尊一代の経典の中で、浄土三部経を除いてこれら以外の法華経等の一切の経教や、阿弥陀仏を除く一切の仏菩薩、一切の神祇等を信じることは、難行門・聖道門・雑行にあたり、成仏得道はできない。
難行門・聖道門・雑行
天台法華宗等の八宗を捨て、閉じ、閣サシオき、抛ナゲウつ。
易行道・浄土門・正行
阿弥陀仏を信じ、その名号を称えた場合は十人が十人とも、百人が百人とも極楽往生できる。
六百三十七部二千八百八十三巻の大乗経典のうち、雑を捨て、定散の門を閉じ、聖道門を閣き、諸雑行を抛て。
雙観経にこうある。
「たとえ私が仏を得ても、全宇宙のあらゆる衆生が真心から信じて成仏を願い、私の浄土に生れようと欲し、または、わずかに十回私を憶念し、十回私の名を称えただけの人でも、極楽浄土に生まれなければ、私は仏とならない。ただし、五逆罪の者と誹謗正法する者を除く」
道綽安楽集で、「いまだ一人も得道する者はいない」、善導が「極楽往生できるものは千人の中に一人もいない」法然の「捨閉閣抛」、これらは雙観経にある誹謗正法に当たるのではないか。
法華経巻二の譬喩品にこうある。
「もし人が信じないでこの経を毀謗するならば、すなわち一切世間の仏種を自ら断ち切ってしまう。」
「あるいは、顔をしかめ眉をひそめて法華経をそしり、非難し、しかも疑惑をいだくだろう。あなたはまさにこの人の罪報を説くのを聞きなさい」
「もしくは仏の在世に、もしくは入滅後の世にあって、このような経典を誹謗することがあるだろう。経を読誦したり書写したり、護持したりする者を見て、軽んじたり賤しめたり、憎んだり、嫉妬したりして、しかも恨んだりするだろう。この人の罪報を今また聞きなさい。その人は命が尽きて阿鼻獄に入るだろう。一劫という長い間にわたって苦しみ続け、年数が尽きたなら、また阿鼻獄に生まれ、このように地獄の中を巡って数えきれないほどの年数に至るだろう。地獄から出ることができたとしても、畜生道に堕ちるだろう」」
涅槃経第十にはこうある。
「問う。一闡提とは、どういう意味か。
仏が説いていう。純陀よ、もし比丘や比丘尼・優婆塞・優婆夷がいて、粗末で悪い言葉を発して正法を誹謗するというこのような重い罪業を造りながら、永く悔い改めず、心に恥じる気持ちのない者がいる。このような人を名づけて一闡提の道に向い趣く者となす。また、もし四重の罪を犯して、五逆罪を作って、自ら定めてこのような重大な悪事を犯すと知り、しかも心に初めより怖畏することも恥じることもなく、告白することもない。彼の正法において永く正法を護り惜しみ興隆させる心もなく、逆に欠点をそしり、軽んじて賤しめて、言葉に過ちや咎が多い。このような人も一闡提の道に向い趣く者と名づく。もしまた説いて仏法衆[仏と法と法を修学・伝持していく人々]などいないと言う。このような人も一闡提の道に向い趣く者と名づく。ただこのような一闡提の輩を除いて、そのほかの人々に施すならば、一切が讃歎するであろう」
十悪[十種の悪業]
上品[最も悪く悔いる心のまったくない者]は地獄に堕ちる
中品[ある程度悔いる心のある者]は餓鬼に堕ちる
下品[悔いる心のある者]は畜生に堕ちる
一 殺生(生きものを殺す)
下殺は螻ケラ・蟻アリ・蚊・アブなどの小さい生きものを殺すこと
中殺は凡夫及び前三果の聖人(凡夫から声聞の四果のうち、須陀恒果・欺陀含果・阿那含果の三果)を殺すこと
上殺は阿羅漢・辟支仏・菩薩・父母等を殺すこと
二 偸盗チユウトウ(人の物を盗む)
三 邪婬ジヤイン
四 妄語
五 綺語
六 悪言
七 両舌
八 貪
九 瞋
十 癡
四重禁戒
殺生
偸盗
邪婬
妄語
五逆
一 父を殺す
二 母ほ殺す
養父母を殺す
三 阿羅漢を殺す 凡夫でも最も徳のある人を殺す
四 仏身より血を出す 木画像等を損傷する
五 破和合僧 四人以上の凡夫僧を破壊する
これらはすべて一業が一生を引く。故に一度悪道に堕ちれば続けて二度悪道に堕ちることはない。
対して、謗法は一業が多生を引く。したがって一度三宝を破壊すれば繰り返し悪道に堕ちるというのはこのことをいう。
伝教大師の守護国家章にこうある。
「不正義を一切の学人は信受してはならない。理由は、その師が堕ちるところへ弟子もまた堕ち、檀那もまた堕ちる。仏の明きらかな説について、どうして慎まないでいられようか」
法然
第一の弟子 長楽寺 隆観 その弟子の南無房ならびに一切の鎌倉の人々
多念義を説く
第一 こさか 善慧房 往生院および京都中のすべての人々
第一聖光 筑紫九国のすべての人々
一条の覚明 その弟子・今の道阿弥等
成覚 一念義を説く
法本 一念義を説く
以上、法然の弟子八十人余りをはじめとして、日本国のすべての念仏者並びに檀那等、また一切の天台・真言等の諸宗の人々も、また法然の智慧を超えることはできない。
おのおのその宗を修習していても心は皆一同に念仏者である。法華経を読んでいても、真言を行じていても、すべて助業となして、念仏をもって正業としている。したがって謗法の失から脱れることはできない。