同志と共に

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弥三郎殿御返事やさぶろうどのごへんじ

承わり候いしに貴く思ひ進らせ候いしは・法華の第二の巻に今此三界とかや申す文にて候なり、此の文の意は今此の日本国は釈迦仏の御領なり、天照太神・八幡大菩薩・神武天皇等の一切の神・国主並に万民までも釈迦仏の御所領の内なる上・此の仏は我等衆生に三の故御坐す大恩の仏なり、一には国主なり・二には師匠なり・三には親父なり、此の三徳を備へ給う事は十方の仏の中に唯釈迦仏計りなり、されば今の日本国の一切衆生は設い釈迦仏に・ねんごろに仕ふる事・当時の阿弥陀仏の如くすとも又他仏を並べて同じ様にもてなし進らせば大なる失(とが)なり、譬えば我が主の而(しか)も智者にて御坐さんを他国の王に思ひ替えて・日本国にすみながら漢土高麗の王を重んじて・日本国の王におろそかならんをば・此の国の大王いみじと申す者ならんや、況や日本国の諸僧は一人もなく釈迦如来の御弟子として頭をそり衣を著たり、阿弥陀仏の弟子には・あらぬぞかし、然るに釈迦堂・法華堂・画像・木像・法華経一部も持ち候はぬ僧共が・三徳全く備はり給へる釈迦仏をば閣(さしお)きて・一徳もなき阿弥陀仏を国こぞりて郷・村・家ごとに人の数よりも多く立てならべ阿弥陀仏の名号を一向に申して一日に六万・八万なんどす、打ち見て候所はあら貴や貴やと見へ候へども・法華経を以て見進らせ候へば中中・日日に十悪を造る悪人よりは過重(とがおも)きは善人なり、悪人は何れの仏にも・よりまいらせ候はねば思い替る辺もなし、若し又善人とも成らば・法華経に付き進らする事もや有りなん、日本国の人人は何にも阿弥陀仏より釈迦仏・念仏よりも法華経を重くしたしく心よせに思い進らせぬる事難かるべし、されば此の人人は善人に似て悪人なり、悪人の中には一閻浮提第一の大謗法の者・大闡提の人なり、釈迦仏此の人をば法華経の二の巻に「其の人命終して阿鼻獄に入らん」と定めさせ給へり、 したがって今の日本国の諸僧等は提婆達多や瞿伽梨(くぎやり)尊者にも過ぎたる大悪人である。また在家の人々はこれらを貴び供養しているため、この国は眼前に無間地獄と変じ、諸人は現身に大飢渇・大疫病など、先代にはない大苦を受けている。そのうえ他国から責められる。これはひとえに梵天・帝釈・日月等の御はからいである。 かかる事を日本国ではただ日蓮一人が知って、始めはいうべきかいわないべきかと思案したけれども、それではどうしようもないと、一切衆生の父母たる仏の仰せに背くべきか、我が身こそ何様(いかよう)にもなれと思い、いい出したところ、二十余年の間、所をおわれ、弟子等を殺され、我が身も疵(きず)を蒙り、二度まで流され、あげくは首を切られようとした。これはひとえに日本国の一切衆生が大苦に遭う事を兼て知り、歎いてのことである。 それゆえ、心ある人なら自分たちの為にと思うべきである。もし恩を知り心ある人であるならば、二度ふられた杖のうち一度は替わるべき事てはないか。それもしないどころか、かえって怨(あだ)をなしたりする事は、考えられないのである。 又在家の人人の能くも聞きほどかずして或は所を追ひ或は弟子等を怨まるる心えぬさよ、設(たと)い知らずとも誤りて現の親を敵ぞと思ひたがへて詈り或は打ち殺したらんは何(いゥ)に科(とが)を免るべき、此の人人は我があらぎをば知らずして日蓮があらぎの様に思へり、譬えば物ねたみする女の眼を瞋らかして・とわりをにらむれば己が気色(けしき)のうとましきをば知らずして還つてとわりの眼(まなこ)おそろしと云うが如し、此等の事は偏に国主の御尋ねなき故なり、又何なれば御尋ねなきぞと申すに・此の国の人人余り科多くして一定今生には他国に責められ後生には無間地獄に堕つべき悪業の定まりたるが故なりと、経文歴歴と候いしかば信じ進らせて候、此の事は各各設い我等が如くなる云うにかひなき者共を責めおどし或は所を追わせ給い候とも・よも終には只は候はじ、此の御房の御心をば設い天照太神・正八幡もよも随へさせ給ひ候はじ、まして凡夫をや、されば度度の大事にもおくする心なく弥よ強盛に御坐すと承り候と加様のすぢに申し給うべし。 さて其の法師物申さば取り返して・さて申しつる事は僻事(ひがごと)かと返して釈迦仏は親なり・師なり・主なりと申す文・法華経には候かと問うて・有りと申さば・さて阿弥陀仏は御房の親・主・師と申す経文は候かと責めて・無しと云わんずるか又有りと云はんずるか・若しさる経文有りと申さば御房の父は二人かと責め給へ、又無しといはば・さては御房は親をば捨てて何に他人を・もてなすぞと責め給へ、其の上法華経は他経には似させ給はねばこそとて四十余年等の文を引かるべし、即往安楽(そくおうあんらく)の文にかからば・さて此れには先ずつまり給へる事は承伏(しょうふく)かと責めて・それもとて又申すべし、構へて構へて所領を惜み妻子を顧りみ又人を憑みて・あやぶむ事無かれ ただひとえに思い切りなさい。今年の世間を鏡としなさい。多くの人が死んだのに今まで生きながらえてきたのは、この事にあうためである。これこそ宇治川を渡す所であり、これこそ勢多を渡す所である。名を揚(あぐ)るか名をくだすかである。 人身は受け難く法華経は信じ難しとは是なり、釈迦・多宝・十方の仏・来集して我が身に入りかはり我を助け給へと観念せさせ給うべし、地頭のもとに召さるる事あらば先は此の趣を能く能く申さるべく候、恐恐謹言。