同志と共に

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南条兵衛七郎殿御書なんじょうひょうえしちろうどのごしょ

御病気であるとお聞きしましたが、本当でしょうか。世の中が無常であることは、病気でない人も死を免れないことですから、まして病気の人ならばいうに及びません。ただ心ある人は後世をこそ思い定めるべきではないでしょうか。また後世を思い定める事は自分では不可能です。一切衆生の本師でおられる釈尊の教えこそが根本になることができるのです。
ところが仏の教えはまたまちまちです。人の心が定まらないからでしょうか。
しかしながら、釈尊の説教は五十年です。前の四十年余りの間の法門の、華厳経には「心仏及衆生・是三無差別(心・仏・衆生これらの三つには差別はない)」、阿含経には「苦・空・無常・無我(無常や無我・空なる世界にある人間の存在は苦である)」、大集経には「染浄融通(染法・浄法は互いに融合しあって差別もなく相互に障りはない)」、大品経には「混同無二(一切の法は本来空であり互いに混じり合って同化している)」、雙観経・観経・阿弥陀経等には「往生極楽」などと説いておられます。これらの説教はすべて正法・像法・末法の一切衆生を救うために説かれたのでしょう。しかし仏はどう思われたのでしょうか。無量義経に「方便の力をもって四十年余りには未だ真実を顕さない」と説かれて、前の四十年余りの往生極楽等の一切経は親の先判のように悔い返され、「無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぎるほど修行をしても、ついに無上菩提を成ずることはできない」と言いきられて、法華経の方便品に重ねて「正直に方便を捨ててただ無上の道を説く」と説かれたのです。方便を捨てよと説かれているのは、四十年余りの念仏等を捨てよと説かれたのです。
こう確かに悔い返され、真実の義を定めるには「世尊の法は久しくして後かならずまさに真実を説くだろう」と言われ、「久しくこの要法を黙していそいで速やかに説かなかった」等と定められたので、多宝仏は大地より湧き出られて、この事は真実であると証明を加え、十方の諸仏は八方に集まって広長舌相を大梵天宮につけられたのです。二処三会に連なった二界八番の衆生は一人ももれなくこれを見たのです。
これらの文を見ますと、仏教を信じない悪人や外道はさておき、仏教の中に入りながら爾前・権教・念仏等を厚く信じて、十遍・百遍・千遍・一万から六万遍等を一日に称え、十年・二十年の間に南無妙法蓮華経と一遍も唱えない人々は、先判に付いて後判を用いない者にではないでしょうか。これらは仏説を信じているように自分自身も人も思っているようですが、仏説のとおりであるならば不孝の者なのです。
したがって法華経の第二にこうあります。
「今この三界は皆これは我が所有である。そのなかの衆生はことごとくこれは我が子である。しかも今このところは多くの患難がある。ただ私一人のみがよく救護をなす。しかし種々に教詔しても信受しない」
この文の趣意は、釈迦如来は私たち衆生にとって親であり師であり主であります。私たち衆生のためには阿弥陀仏・薬師仏等は主ではあっても親と師ではありません。ひとり三徳を兼ね備えて恩の深い仏は釈迦一仏に限るのです。
親も親にこそよれ、釈尊ほどの親はおられません。師も師にこそよれ、主も主にこそよれ、釈尊ほどの師であり主となる方はおられないのです。この親と師と主との仰せに背く者が天神・地祇に見捨てられないことがあるでしょうか。不孝第一の者です。
故に「雖復教詔而不信受」等と説かれたのです。たとえ爾前の経について、百千万億劫修行したとしても、法華経を一遍も、南無妙法蓮華経と唱えることがなかったならば、不孝の人であるため、三世十方の聖衆にも捨てられ。天神・地祇にも怨まれるのです。[これが一}。
たとえ五逆罪・十悪・無量の悪をつくっている人も、機根さえ利であるなら得道する事はあります。提婆達多や鴦崛摩羅オウクツマラ等がこれです。たとえ機根が鈍であっても、罪がなければ得道する事はあります。須利槃特等がこれです。私たち衆生の機根が鈍であることは須利槃特を超え、物の色や形を判別できないことは羊の目のようです。貪・瞋・癡はきわめてあつく、十悪の罪を日々に犯し、五逆は犯さないけれども、五逆に似た罪は日々犯しています。また十悪・五逆を過ぎる謗法は人毎にあります。これといった言葉で法華経を誹謗する人は少ないですが、人ごとに法華経を用いず、また持っているようでも、念仏等のようには信心が深くありません。信心が深い者でも法華経の敵を責めることはありません。いかなる大善をつくり、法華経を千万部読み、書写し、一念三千の観道を得た人であっても、法華経の敵をば責めなければ、得道することはできません。たとえば、朝廷に仕える人で十年・二十年の奉公した者であっても、主君の敵を知りながら奏上もせず、個人としても怨まれなければ、奉公は全て消え失せて、かえって罪に問われるようなものです。今の世の人々は謗法の者と知っておくべきです。[これが二]。 仏が入滅された次の日より千年を正法といい、持戒の人が多く、得道する人もいました。正法千年の後は像法千年です。破戒の者が多くなり、得道する人は少なくなりました。像法千年の後は末法万年です。持戒の人もなく、破戒の人もおらず、無戒の者のみが国に充満するでしょう。しかも濁世といって乱れた世です。
清世シヨウセといって、澄んだ世には、墨縄が曲がった木を削りとらせるように、非を捨てて是を用います。正・像より五濁が次第に出てきて、末法になると五濁は盛んとなり、大風が大波を起こして岸を打つだけではなく、また波と波とを打ち合うようになります。
見濁というのは、正・像が次第に過ぎると、わずかの邪法の一つを伝えて無量の正法を破り、世間の罪によって悪道に堕ちる者よりも、仏法をもって悪道に堕ちるものが多く見えるでしょう。
しかるに今の世は正・像法から二千年が過ぎて末法に入って二百年余りであり、見濁が盛んで悪よりも善根によって多くが悪道に堕ちる時期です。悪は愚癡の人も悪と知れば従わないこともあります。火を水をもって消すようにです。善はただ善と思うものですから、小善に付いて大悪の起こる事を知らないのです。したがって伝教・慈覚等の聖跡があり、廃れて荒れ果てていても、念仏堂ではないといって、捨ておいてそのかたわらに新しく念仏堂を造り、もともと寄進されていた田畠を取り上げて念仏堂に寄進するのです。これらは像法決疑経の文のとおりであるなら、功徳は少ないことでしょう。これらをもって知るべきです。善であっても大善を破る小善は悪道に堕ちるということを。
今の世は末法のはじめです。小乗経の機・権大乗経の機は皆消え失せて、ただ実大乗経の機のみです。小船には大きな石を載せることはできません。悪人・愚者は大石のようなものです。小乗経並びに権大乗経・念仏等は小船なのです。大悪瘡の湯治等は病が大きいので小さな療治では及びません。末代濁世の私たちには念仏等は、たとえば冬に田を作るようなものです。時が逢わないのです。[これが三]。
国を知る必要があります。
国によって人の心も異なります。たとえば、揚子江南の橘を淮北ワイガに移せばからたちとなります。心がない草木でさえところによるのです。まして心のあるものがどうして所によって異ならないことがあるでしょうか。
したがって、玄奘三蔵は大唐西域記という文にインドの国々を多く記していますが、国の習わしとして不孝の国もあり、孝の心がある国もあり、瞋恚の盛んな国もあり、愚癡の多い国もあります。ただ小乗を用いるだけの国もあり、ただ大乗だけを用いる国もあり、大小兼学する国もありと書かれています。
またただ殺生を行う国や、偸盗の多い国、また穀の多い国、また粟等の多い国などさまざまです。
そもそも日本国はいかなる教えを習って生死の苦しみから離れるべき国であるのかと考えてみますと、法華経にはこうあります。
「如来の滅後において全世界に広く流布させて断絶させてはならない」
この文の心は、法華経は南閻浮提の人のための有縁の経であるということです。
弥勒菩薩は「東方に小国があり、ただ大乗の機根のみである」等と述べています。この論の文によると、全世界の中で、東の小国に大乗経の機根の者がいるということです。
肇公の記には「この法華経は東北の小国に有縁である」等と述べています。法華経は東北の国に縁があると書かれたのです。
安然和尚は「我が日本国は皆大乗を信ず」等と述べ、慧心は一乗要決に「日本全国は純粋に円の機である」等と述べています。
釈迦如来・弥勒菩薩・須梨耶蘇摩三蔵・羅什三蔵・僧肇法師・安然和尚・慧心の先徳等の趣意では、日本国は純粋に法華経の機根です。一句・一偈であっても修行したなら、必ず得道出来るのです。有縁の法だからです。
たとえば、鉄を磁石が吸いつけるようにです。方諸が水を招くことに似ています。
念仏等の他の教えには無縁の国なのです。磁石が鉄に吸い付かず、方諸も水をまねかないようにです。
故に安然の釈には「もし法華経の実乗でなければ恐らくは自他を欺くことになる」等と述べています。この釈の心は日本国の人に法華経ではない法を授ける者は、我が身をもあざむき、人をもあざむく者であるということです。それゆえ法は必ず国を考えて弘めるべきなのです。かの国に良い法であるから、必ずこの国にも良いだろうと思ってはいけません。[これが四]。
また仏法流布の国においてもその前後を検討する必要があります。仏法を弘める習いとして必ず前に弘まる法の様子を知るべきです。
例えば病人に薬を与える際、前に服用した薬のことを知る必要があります。薬と薬が副作用を起こして人の命を損なう事があります。仏法と仏法もかちあって争いとなり人の命を損なう事があります。先に外道の法が弘まっている国であるなら仏法をもってこれを破るべきです。仏はインドに生まれて外道を破り、マトウカ・ジクホウランは中国に来て道士を責め、上宮太子は大和国に生まれて物部守屋を滅ぼしました。
仏教においても小乗の弘まる国を大乗経をもって破るべきです。無著菩薩が世親の小乗を破折したようにです。権大乗の弘まる国は実大乗をもってこれを破るべきです。天台智者大師が南三・北七を破折したようにです。
したがって日本国は天台・真言の二宗が弘まって今まで四百年あまり、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆はすべて法華経の機根と定まりました。善人・悪人・有智・無智もすべて五十展転の功徳を備えています。たとえば崑崙山に瓦石はなく、蓬莱山に毒がないようにです。
ところがこの五十年余りに法然という大謗法の者が出現して、一切衆生をだまして宝石に似た石をもって、宝石を投げすてさせ、瓦石をとらせたのです。摩訶止観の五で「瓦礫を貴んで明珠だといっている」とはこのことです。一切衆生が石をにぎって宝石と思い、念仏を称えて法華経を捨てたのはこのことです。この事を言えば、かえって腹立てて法華経の行者を罵り、ことさらに無間地獄の業を増しています。[これが五]。
ただ殿はこの義を聞かれて念仏を捨てて法華経を持っておられたが、今はかえって念仏者になられているでしょう。法華経を捨てて念仏者となるのは、峯の石が谷へころび、空の雨が地に堕ちるようなことと思います。大阿鼻地獄に堕ちることは間違いありません。大通智勝仏に結縁した者が三千塵点劫の間、久遠に下種された者が五百塵点劫を経る間、(無間地獄で過ごしたのは)大悪知識にあって法華経を捨てて念仏等の権教に移ったからなのです。
一家の人々が念仏者であったようですから、必ず念仏を勧めているでしょう。自分が信じた事ですから、それも道理でしょうが、悪魔の法然の一類にたぶらかされている人々であると思って、大信心を起こし用いてはいけません。大悪魔は、貴い僧となり、父母・兄弟等にとりついて、人の後世を妨げます。いかに言おうとも、法華経を捨てよと欺こうとするのを信用してはいけません。
まずご推察するべきです。
念仏で実際に往生できるという証文が確かであるなら、この十二年間念仏者は無間地獄に堕ちるということを、(私が)いろいろなところへ申し出ても、難詰しないことはなかったはずです。よほど自信がないのでしょう。
法然・善導等が書き置いた程度の法門は、日蓮らは十七・八歳の時より知っていました。このごろの人のいうこともこれ以上ではありません。結局法門ではかなわないので、多勢で戦おうとするのです。念仏者は数千万であり、味方は多いでしょう。日蓮は唯一人であり、味方は一人もおりません。今まで生きているのは不可思議です。今年も十一月十一日安房の国・東条の松原という大路で、申酉の時数百人の念仏者等に待ち伏せされました。日蓮はただ一人、十人ばかりの供み、役に立つ者はわずかに三・四人です。射られた矢は雨のように降り、打つ太刀は稲妻のようでした。弟子一人は即座に打ち取られ、二人は深手を負いました。私自身も切られ、打たれ、もはやこれまでか思いましたが、なぜか打ち漏らされて、今まで生きております。
いよいよ法華経であると信心を増すばかりです。
第四の巻にこうあります。
「しかもこの経は如来の現在すらなお怨嫉が多い。まして滅度の後においては」
第五の巻にこうあります。
「一切世間は怨が多くて信じることは難しい」
日本国で法華経を読んで学ぶ人は多くおられる。人の妻をねらい、盗み等で傷つけられる人も多い。しかし法華経の故に傷つけられる人は一人もいません。したがって日本国の持経者はまだこの経文に符合しておりません。ただ日蓮一人が読んだのです。「我不愛身命但惜無上道」とはこのことです。したがって日蓮は日本第一の法華経の行者なのです。
もし私より先に旅立たれたならば、梵天・帝釈・四大天王・閻魔大王等に申してください。日本第一の法華経の行者・日蓮房の弟子であるとお名乗りください。よも不親切に扱われる事はないでしょう。ただ、一度は念仏、一度は法華経を唱えるというような二つの心があり、人の耳を気にするようであれば、たとえ日蓮の弟子と言っても信用されないでしょう。後で怨んでくださいませんように。
ただしまた法華経は今生の祈りともなねものですから、もし生き延びられることがあれば、直接お会いして私自らお話しをいたします。言葉は手紙では尽くせません。手紙では心を尽くしがたいことですので、これでとどめます。恐恐謹言。