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法華経は如来出世の本懐である故に「今者已満足・今正是其時・然善男子我実成仏已来(今はすでに満足した。今正しくこれその時である。然るに弟子たちよ、私は実に成仏して以来(無量無辺百千万億那由陀劫である)」等と説いている。ただし諸経の勝劣においては、仏自ら「私の説いた経典は無量千万億である」と挙げ、「已説・今説・当説」等と説いた時、多宝仏が大地より涌現して、「すべてこれは真実である」と定め、分身の諸仏は舌相を梵天に付けられた。このように諸経と法華経との勝劣を定められたのである。このほかは釈迦一仏の所説であるから、前後の諸経に対して法華経の勝劣を論じるべきではない。したがって涅槃経で諸経を嫌う中に法華経を入れていない。これは法華経が諸経より勝れる理由であり、このことをあらわすためである。ただし邪見とした文は、法華経を覚知しない一部の人が、涅槃経を聞いて悟りを得たために、迦葉童子が自身並びに引率の者を指して、涅槃経より以前は邪見等、といっているのであり、経の勝劣を論じたものではない。
第三に大・小乗を定めることを明かす。
問う。 大・小乗の差別とは。
答える。 通常の説のとおりであれば、阿含部の諸経は小乗である。華厳・方等・般若・法華・涅槃等は大乗である。あるいは六界を明かすものは小乗であり、十界を明かすものは大乗である。その他法華経に対して実義を論じる時、法華経以外の四十年余りの諸大乗経はすべて小乗であり、法華経が大乗である。
問う。 諸宗にわたって、自宗の拠り所の経を実大乗といい、他宗の拠り所の経を権大乗ということは常の習いである。末学においては是非を定め難い。しかし法華経に対しては諸大乗経は小乗である称することは、いまだ聞き及んだことがない。その証文はなにか。
答える。 各宗の立てる教義は互いに是非を論じている。なかでも末法において、世間・出世間について非を先とし、是を後とするので、自ら是非を知らず、愚か者の歎くべき所である。但ししばらく我等の智をもって、四十年余りの現文を見ると、この言葉を破る文がなければ、人の是非を信用すべきではない。そのうえ、法華経に対して諸大乗経を小乗と称することは自分の考えで答えるべきでもない。法華経の方便品に「仏は自ら大乗に住しておられる。(中略)自ら無上道・大乗・平等の法を証得した。もし小乗をもって教化することを一人に対してもするならば、私は慳貪に堕ちるであろう。この事は疑いもなく不可である」とある。この文の心は、法華経以外の諸経をすべて小乗と説いているのである。また寿量品に「小法を楽う」とある。これらの文は法華経以外の四十年余りの諸経をすべて小乗と説いているのである。天台大師・妙楽大師の解説で、四十年余りの諸経を小乗であると説明していても、他師はこれを許さないであろう。そのためにただ経文を出すのである。
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