同志と共に

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守護国家論(しゆごこつかろん)

答える。
普賢経にこうある。
「この後、三月たって私はまさに涅槃に入るであろう」
涅槃経三十にはこうある。
「如来はどうして二月に涅槃されるのか。また如来は誕生・出家・成道・転法輪はすべて八日であったが、どうして涅槃だけは十五日なのかという」
大部の経の大略は以上である。これよりほかの諸大・小乗経の順序は不定である。阿含経より後に華厳経を説いたり、法華経より後に方等や般若を説いているが、すべて共通性を見て、これを収めていずれか一処に置くべきである。
第二に諸経の浅深を明かす。
無量義経に「初めに四諦を説き(阿含)、次に方等十二部経・摩訶般若・華厳海空を説き、菩薩の歴劫修行を宣説する」、また「四十余年には未だ真実を顕わさず」、また「無量義経は尊く過ぎるものは無い」とある。これらの文のとおりであるならば、四十年余りの諸経が無量義経に劣ることは疑いが無い。
問う。
密厳経では「一切経の中で勝れている」、大雲経では「諸経の転輪聖王である」、金光明経では「諸経の中の王である」と説かれている。これらの経文を見ると、諸大乗経においては通例の表現である。どうして一文を見て、無量義経は四十年余りの諸経に勝るといえるのか。
答える。
教主釈尊がもし諸経において互いに勝劣を説かなければ、大・小乗の差別や権・実の不同はあるはずがない。もし実際に差別が無いのに、互いに差別・浅深等を説いたなら、論争の根源となり、悪業をつくり、起罪の原因となる。爾前の諸経の第一とは、縁に随って不定である。小乗の諸経に対して第一といったり、報身如来の寿命を説くところで諸経の第一といったり、俗諦・真諦・中諦等を説くところが第一である、といったりしているのであって、すべてに対しての第一ではない。今の無量義経においては、四十年余りの諸経に対して第一なのである。
問う。
法華経と無量義経とではどちらが勝れているのか。
答える。
法華経が勝れている。
問う。
何をもってそれを知るのか。
答える。
無量義経ではいまだ二乗作仏と久遠実成を明かしていない。故に法華経と区別されて今説の中に入るのである。
問う。
法華経と涅槃経ではどちらが勝れているのか。
答える。
法華経が勝れている。
問う。
何をもってそれを知るのか。
答える。
涅槃経自ら「法華経の中で八千人の声聞が記別を受けたのは、大果実を成ずるが如くである」と説き、「更に所作がないようなものである」といっている。法華経に当説を指して難信難解といわない理由である。
問う。
涅槃経の文を見ると、涅槃経以前をすべて邪見であるといっているが、どうなのか。
答える。