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このような多くの悪い僧は魔の伴侶である。(中略)たとえば、牛飼いの女が水を乳に加えるように、多くの悪い僧もまたこのように世間の言葉を混ぜ、誤ってこの経を定める。多くの衆生に正説・正写・正取・尊重・讃歎・供養・恭敬することをできないようにする。この悪い僧は私利私欲のために、この経を広宣流布することはできない。分かれて流布できる所も少なく、言うに足らない。かの牛飼いの貧しい女が次々に水を混ぜて売る乳で(中略)粥を作っても乳の味がしないようなものである。この大乗経典である大涅槃経もまたこのように、次々に薄く淡くなり、味がなくなるのである。しかし味気が無いといっても、なお余経に勝れることは千倍である。かの乳味が多くの苦味に比べて千倍勝ることと同様だからである。なぜかというと、この大乗経典の大涅槃経は声聞の経において最上首であるからである」とある。(是十)
問う。 不了義経を捨てて了義経に就けというが、大円覚修多羅了義経や大仏頂如来密因修証了義経などの諸大乗経はすべて了義経である。依りどころとして用いてもよいものか。
答える。 了義・不了義は対比するものによって異なる。二乗や菩薩等の説いた不了義に対すれば、一代の仏説はすべて了義である。仏説について考えると、小乗経は不了義、大乗経は了義である。大乗経においては、また四十年余りの諸経は不了義経であり、法華・涅槃・大日経等は了義経である。ところが、円覚・大仏頂等の諸経は小乗及び歴劫修行の不了義経に対すれば了義経であるが、法華経のような了義経ではない。
問う。華厳・法相・三論等の天台・真言以外の諸宗の高祖は、おのおのその拠り所の経々によって、その経々の深義を極めたと思っている。これはその通りなのか。
答える。 華厳宗などは、華厳経によって諸経を判じて華厳経の方便としている。法相宗などは阿含・般若等を見下して、華厳・法華・涅槃を深密経と同じとし、同じく中道教であると立てている。また法華・涅槃は二乗の成仏を説くために不了義経としている。これに対し、深密経では五性各別を論じるので了義経であると立てている。三論宗などは二蔵(声聞蔵・菩薩蔵)を立てて一代聖教を収め、大乗(菩薩蔵)の浅深を論じない。しかも般若経を拠り所としている。これらの諸宗の高祖の多くは四依の菩薩であろうか。必ず心の中に思うことがあろう。是非を論ずるのは及ぶところではない。
しかしながら、私自身の疑いを晴らすために、しばらく人師の異なる解釈をさしおき、諸宗が拠り所とする経々を開き見ることとする。
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