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華厳経には旧訳五十巻本・六十巻本、新訳には八十巻本・四十巻本があるが、その中に法華・涅槃のように一代聖教を集めて方便としている文は無い。四聖を説くが、その中の仏乗においては十界互具・久遠実成を説かない。ただし中国の学者に至って、五教を立てて先の四教に諸経を収めて華厳経の方便とした。法相宗などは三時教を立てて、法華等を深密経と同じであるとしているが、深密経五巻を開いて見ると、全く法華等を中道の内に入れていない。
三論宗などは二蔵を立てる時、菩薩蔵において華厳・法華等を収め、般若経と同じとしているが、新旧の大般若経を開いて見ると、全く大般若をもって法華・涅槃と同じであるとした文は無い。「華厳は頓教・法華は漸教」等とは人師の思い願うことであり仏説ではない。
法華経などは序分の無量義経に、はっきりと四十年余りの年限を挙げ、華厳・方等・般若等の大部の諸経の題名を呼んで未顕真実と定め、正宗分の法華経に至って一代聖教の勝劣を定める時、「私の説く経典は無量千万億あり、すでに説き、今説き、当に説く」との金言を述べ、しかもその中において「この法華経は最も難信難解である」と説かれた時、多宝仏が大地より涌き出て、「妙法蓮華経はすべて真実である」と証言し、分身の諸仏は十方よりことごとく一所に集まって舌を梵天に付けられた。
今、この道理をもって私が推察を加えると、中国・日本に渡った五千・七千余巻の諸経、それ以外のインド・竜宮・四王天・過去の七仏等の諸経並びに阿難の未結集の経、十方世界の塵の数ほどの諸経の勝劣・浅深・難易は掌の中にある。無量千万億の経の中にどうして釈迦如来の所説の諸経を漏らすことがあろうか。已説・今説・当説の年限に入らない諸経があるだろうか。願うことは、末代の人々は、しばらく諸宗の高祖の根拠の弱い文や、道理の無いものを捨てて、釈迦・多宝仏・十方の諸仏の根拠の強い文・道理あるものを信じるべきである。まして諸宗の末学の偏った執着心を先とし、末代の愚かな学者を本として、経論を投げ捨てる者を拠り所としてよいものか。故に法華の流通分であり、雙林で最後に説かれた涅槃経において、仏は迦葉童子菩薩に遺言して「法に依って人に依ってはならない。義に依って語に依ってはならない。智に依って識に依ってはならない。了義経に依って不了義経に依ってはならない」と説かれたのである。
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