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したがって大文第十の"問答料簡"の中の第七の諸行の勝劣門においては、念仏を最勝とし、次下に爾前最勝の念仏と法華経の一念信解の功徳の勝劣を判じる時、一念信解の功徳は念仏三昧より百千万倍勝れると定められたのである。まさに知るべきである。往生要集の本意は、爾前最上の念仏を法華最下の功徳と対比することによって、人々を法華経に入らせる為に著した書なのである。ゆえに往生要集の後に一乗要決を著して自身の内証を述べる時、法華経をもって本意としたのである。
しかし源空並びにその弟子たちはこの意義を知らないために、法華・真言も三師並びに源信が破折した難・聖・雑並びに往生要集の序の顕密の中に入れて、三師並びに源信を法華・真言に対する謗法の人とした。そのうえ、日本国の一切の道俗を教化して法華・真言は時機不相応の旨を習わしめ、在家・出家の諸人が法華・真言に結縁することを止めた。まさに仏が記された「悪世中比丘邪智心諂曲(悪世の中の比丘は、邪智にして心諂曲)」の人ではないか。また「則ち一切世間の仏種を断ず」の失を免れることはできないのである。
そのうえ、比叡山・三井門流・東寺・天台並びに日本国中の法華・真言を習う諸人を、群賊・悪衆・悪見の人等に譬えた源空の重罪は、どのような時にその苦果を消し去ることができようか。法華経の法師品に、持経者を罵る罪を説いてこうある。
「もし悪人がおり、不善の心をもって一劫の中で現に仏前において常に仏を毀罵するその罪はまだ軽い。もし人が一つの悪言をもって在家・出家の法華経を読誦する者を毀るその罪は甚だ重い」(以上経文)
一人の持者を罵る罪でさえこのようである。まして書を著し日本国の諸人に罵らせる罪においては、ましてこの経を千中無一と定めて法華経を行じる人に疑いを生じさせる罪においては、さらにこの経を捨てて観経等の権経に移られる謗法の罪はなおさらである。願わくば一切の源空の門下の四衆はすみやかに選択集の邪法を捨てて法華経に移り、今度こそ無間地獄を脱れよ。
問う。 源空が法華経を誹謗する証文とはなにか。
答える。
法華経の第二にこうある。
「もし人が信じないで、この経を毀謗するならば、それはすなわち一切世間の仏種を断ずることである」(経文) 不信の相貌は人に法華経を捨てさせるからである。
したがって天親菩薩は仏性論の第一でこの文を解説している。
「もし大乗を憎み背く者は、これ一闡提の因である。衆生にこの法を捨てさせるからである」(論文)
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