同志と共に

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P0051
守護国家論(しゆごこつかろん)

謗法のあらわれた姿・形はこの法を捨てさせるからである。選択集は人に法華経を捨てさせる書である。閣抛の二字は仏性論の憎背の二字である。また法華経誹謗の姿・形は小善成仏を四十年余りの諸経のように、別時意趣と定めている等の文である。
ゆえに天台大師の釈にこうある。
「もし小善成仏を信じなければすなわち世間の仏種を断じるのである
妙楽大師は重ねて、この義を宣べている。
「この経はあまねく六道の仏種を開く。もしこの経を誹謗すれば仏種を断じることに当たる」
釈迦・多宝仏・十方の諸仏・天親菩薩・天台大師・妙楽大師の趣意の通りであれば、源空は謗法の者である。所詮選択集の趣旨は人に法華・真言を捨てさせることとはっきり書かれている。謗法であることは疑いない。
大文の第三に選択集の謗法の理由を明かす。
問う。
どのような証拠をもって源空を謗法の者と称するのか。
答える。
選択集の現文を見ると、一代聖教を二つに分けている。一には聖道・難行・雑行、二には浄土・易行・正行である。その中で聖・難・雑というのは華厳・阿含・方等・般若・法華・涅槃・大日経等である(取意)。浄・易・正とは浄土の三部経の称名念仏等である(取意)。聖・難・雑の失を判じて、末代の凡夫がこれを修行すれば、百人の時に希に一・二人が得脱し、千人の時に希に三から五人が得脱するか或いは千人のうちに一人もいない。そして群賊・悪衆・邪見・悪見・邪雑の人等であるときめつけている。浄・易・正の得を判じるときには、末代の凡夫がこれを修行するなら、十人は即ち十人が往生し、百人は即ち百人が往生する等としている。謗法の邪義とはこのことである。
問う。
一代聖教を聖道・浄土・難行・易行・正行・雑行と分けてその中の難・聖・雑を時機不相応と称するのは源空一人が立てた新しい義ではない。曇鸞・道綽・善導の三師の義である。しかもこれらの人師の私案でもない。その源は竜樹菩薩の十住毘婆沙論より出ている。もし源空を謗法の者と称するのであれば、竜樹菩薩並びに三師をも謗法の者と称することになる。
答える。
竜樹菩薩並びに三師の本意は法華経以前の四十年余の経々において難・易等の義を立てたのである。しかし源空よりは竜樹並びに三師の難行等の言葉を借りて、法華・真言等を難・雑等の内に入れたのである。