同志と共に

ページ番号検索

※入力例 1ページの場合は0001と入力してください。
トップページへ戻る
P0064
守護国家論(しゆごこつかろん)

この文のとおりならば、法華・涅槃を信じないで一闡提となる者は十方の土のように多い。法華・涅槃を信じる者は爪上の土のように少ない。この経文を見ていよいよ感涙を押え難いのである。今、日本国の諸人を見聞きすると、多くが権教を行じ、たとえ身と口では実教を行じるといえども心にはまた権教を思う。
故に天台大師は摩訶止観の五でこう述べている。
「そのおろかで鈍い者は毒気が深く入って本心を失っているので、もはやそれを信じないので手に入らない。(中略)大罪の集まる人である。(中略)たとえ出家した者でも下劣な教えを好む。根元を忘れ枝葉によじ登ったり、犬が主人を忘れ召使いになれなどといったり、サルを敬って帝釈と思ったり、瓦礫を崇んでこれは宝石である、などとするものである。このような道理にくらい人がどうして道を論じることができようか」
源空並びに所化の衆は深く三毒の酒に酔い、大通から受けた結縁の本心を失っている。法華・涅槃に不信の思いをなし、一闡提となり、観経等の下劣の教えに依って、方便の称名の瓦礫をもてあそび、法然房というサルを敬って智慧第一の帝釈と思い、法華・涅槃の如意宝珠を捨てて如来の聖教を軽んじているのは、権実二教を弁えていないからである。
故に弘決の第一でこう述べている。
「この円頓を聞いて崇重しない者はまことに近代大乗を習う者の雑濫によるためである」
大乗において権実二教を弁えないことを雑濫というのである。故に末代において法華経を信じる者は爪上の土のように少なく、法華経を信じないで権教に堕落する者は十方の微塵のように多い。
故に妙楽は歎いてこう述べている。
「像・末は情が薄く、信心が弱くなり、円頓の教は法蔵に溢れ、箱に満ちているけれども、少しも思索せず瞑目に至る。いたずらに生まれいたずらに死んでいく。全く何と痛しいことか
この釈はひとえに妙楽大師は菩薩の化身であるので、遠く日本国の当代を鑑みて記し置かれた未来記である。
問う。
法然上人の門弟の内にも一切経を安置し、法華経を行ずる者がいる。どうしてすべてを謗法の者と称するのか。
答える。
一切経を開き見て法華経を読み、難行道の理由を確認し、選択集の悪義を助けるためである。経論を開くにつけてますます謗法を増すことは、例えば善星が十二部経を、提婆達多が六万蔵を読んだようなものである。自らを智者と称するのは自身を重んじ悪法を助けるためである。