同志と共に

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守護国家論(しゆごこつかろん)

この悪象等はただ身の怨であるが、悪知識は善法の怨となる。その故に菩薩よ、常に諸の悪知識を遠離しなさい」
請い願わくば、今の世の道俗はたとえこの書を邪義と思っても、しばらくその考えを捨てて、十住毘婆沙論を開き、その難行の内に法華経が入っているかいないかを考え、選択集の"準之思之(これに準じてこれを思う)"の四字を思案した後に是非を決めよ。誤って悪知識を信じ、邪法を習い、この生を空しくすることがないように。
第三に正しく末代の凡夫の為の善知識を明かす。
問う。
善財童子は五十余の善知識に会った。その中に普賢・文殊・観音・弥勒等がいた。常啼・班足・妙荘厳・阿闍世等は曇無竭・普明・耆婆・二子夫人に会って生死を離れた。これらはすべて大聖である。仏が世を去った後、このような師を得ることは難しい。仏滅後においてまた竜樹・天親も去った。南岳・天台にも会えない。どうすれば生死を離れることができるのか。
答える。
末代には真実の善知識がある。いわゆる法華・涅槃がそれである。
問う。
人をもって善知識とするのが常の習いである。法をもって知識とするとは証文にあるのか。
答える。
人をもって知識とするのが常の習いであるが、末代においては真の知識が無いので、法を知識とする。これには多くの証文がある。
摩訶止観にはこうある。
「あるいは知識に従い、あるいは経巻に従い、先に説く所の一実の菩提を聞く」
この文の意味は経巻をもって善知識とすることである。
法華経にはこうある。
「もし法華経を全世界に行じ受持する者は、まさにこの念をなすべきである。すべてこれは普賢菩薩の威神の力であると」
この文の心は末代の凡夫が法華経を信じるのは、普賢の善知識の力であるということである。
またこうある。
「もしこの法華経を受持して読誦して正しく憶念して修習して書写する者はまさに知るべきである。この人は即ち釈迦牟尼仏を見るのである。仏の口からこの経典を聞くようなものである。そしてこの人は釈迦牟尼仏を供養するものと知りなさい。」
この文を見ると法華経は即ち釈迦牟尼仏である。法華経を信じない人の前では釈迦牟尼仏は入滅されているが、この経を信じる者の前では滅後であっても仏の在世なのである。
またこうある。
「もし我が成仏して滅度の後、十方の国土において法華経を説くところがあれば、我は塔廟からこの経を聴くために、その前に涌現し、証明をするだろう」