法華経は応身如来の所説であり、教主において既にこのような優劣がある。所説の法門においてどうして浅深が無いことがあろうか。したがって対告衆も法慧・功徳林・金剛幢等であって、永く二乗を交えない。法華経は舎利弗等を対告衆としたものである」という。(華厳宗の非難)
法相宗などは解深密経を依りどころとして難を加えていう。「解深密経は文殊観音等を対告衆とする。勝義生菩薩の領解には釈尊一代を有・空・中と分けている。その中の"中"とは華厳・法華・涅槃・深密等である。法華経の信解品の五時の領解は四大声聞である。菩薩と声聞では勝劣に天地の差がある」という。
浄土宗などは道理を立てて「我等は法華等の諸経を誹謗するのではない。彼等の諸経は正には大人の為、傍には凡夫の為に説かれた。断惑証理の深い法理の教えであり、末代の我等がこれを修行しても、千人の中で一人もその機根には当らない。在家の諸人の多くは文字を読めず、また華厳や法相等の名も聞いたことがない。ましてその教義を知るはずがない。浄土宗の本意は我等凡夫はただ口に任せて六字の名号を称えれば、現世に阿弥陀如来が二十五人の菩薩等を遣わし、身に影の従うように百重千重に行者を取り囲み守ってくださる。故に現世には七難即滅・七福即生し、臨終の時は必ず来迎して観音の蓮台に乗って即時に浄土に至り、その業に随って蓮華が開いて法華経を聞いて実相を覚る。なぜ煩しくも穢土において余行を行じるのか。何の意味があろうか。ただ万事を抛って一向に名号を称えなさい」という。
禅宗等の人は「一代聖教は月を指す指であり、天地や日月等もあなた方の妄心より出るのである。十方の浄土も執心の影像である。釈迦十方の仏陀はあなたの覚りの心が変化したものである。文字に執着する者は株を守る愚人である。我が達磨大師は文字を立てず方便を借りない。一代聖教の外に仏は迦葉に印によってこの法を伝えたのである。法華経等は未だ真実を宣べていない」という。
これらの諸宗の非難は一つではない。どうして法華経の信心を壊らないであろうか。
答える。
法華経の行者は心中に「四十余年」「已今当」「皆是真実」「依法不依人」等の文をたもち、しかも表には言葉にこれを出さないことである。
難に対してこのように問いなさい。そもそも所立の宗義は何の経に依るのかと。
相手が経を引いたならば、その引用についてまたこのように問いなさい。
釈尊一代五十年の間の説の中では、法華経より先か後か同時か前後不定かと。
もし先と答えたなら、未顕真実の文をもってこれを責めなさい。あえて彼の経の説く内容を尋ねてはならない。 後と答えたなら、「当説」の文をもってこれを責めなさい。
同時と答えたなら、「今説」の文をもってこれを責めなさい。
不定と答えたなら、不定の経は大部の経ではない。
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