権力者は用いず、賢哲もまた随うことは無かった。
そのとき、天下無雙の智人で、広学多聞の明匠である斗賀尾トガノオの明慧房が、摧邪輪三巻を造って選択の邪義を破折し、希代の学者で名誉の才人である三井寺の長吏・実胤ジツイン大僧正が、浄土決疑集三巻を作って専修の悪行を非難し、天下無雙の学匠であり山門探題の棟梁である比叡山の住侶の仏頂房・隆真法橋が、弾選択上下を造って法然房の邪義を責めた。
それだけではなく、南都・山門・三井より度々奏聞を経て法然の選択の邪義は亡国の基であるとの旨を訴え申したことにより、人王八十三代・土御門院の時代の承元元年二月上旬に専修念仏の張本人である安楽・住蓮等を召し捉え、忽ち首を刎ねた。法然房源空は遠流の重科に沈んだ。その時の摂政左大臣の家実というのは近衛殿の事である。この事は皇代記にある。誰もこのことを疑うことはできない。
それだけではなく、法然房が死去した後もまた重ねて山門より訴えが出たことによって、人皇八十五代・後堀河院の時代の嘉禄三年に京都六箇所の本所より法然房の選択集並びに印版を責め出して、大講堂の庭に取り上げて、三千の大衆を会合して三世の仏恩を報じ奉るとしてこれを焼失し、法然房の墓所を犬神人ツルメソウに仰せ付けて、掘り出して鴨川に流した。
宣旨・院宣・関白殿下の御教書を五畿・七道に成し下されて、六十六箇国に念仏の行者を、一日片時もこれを置いてはならない、対馬の島に追い遣るように、との旨を諸国の国司に仰せ付けられた。これらの次第は両六波羅の注進状・関東相模守の請文等にはっきりとある。
嘉禄三年七月五日に山門に下された宣旨
専修念仏の行は諸宗衰微の基である。これによって代々の天皇はしきりに厳旨を降され、殊に禁遏キンアツを加えるものである。ところが、近頃また興行を構え、山門に訴えを申させ、先符にしたがって仰せ下されることは先のとおりである。
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