大旱魃の堅い土の上に落ちて腰骨を折り、二十四日に至るまでの七日七夜の間、悶絶して地を這いまわり、呻き叫びながら死んでいった。そのためにこれほどの高祖であるが、往生の人の内に入れられなかったと思われる。
このことは全く余宗の誹謗ではない。法華宗の妄語でもない。善導和尚の自筆の類聚伝ルイジユデンの文である。流れを酌む者はその源を忘れず、法を行ずる者はその師の跡を踏むべきである。
浄土門に入って師の跡を踏むべきなら、臨終の時は善導のように自害するべきである。念仏者として首をくくらなければ師に背く罪となるがどうであろう。
さて日本では法然上人が浄土宗の高祖である。十七歳にして一切経を習い極め、天台六十巻を学びつくし、八宗を兼学して一代聖教の大意を得たと噂された。天下無雙の智者であり、比叡山第一の学匠となった。
ところが天魔がその身に入った。広学多聞の智慧も空しく、諸宗の頂上たる天台宗を打ち捨てて、八宗の外の念仏者の法師と成ってしまった。大臣・公卿の身を捨てて、民百姓となったようなものである。
選択集という文を作って、釈尊の一代五時の聖教を非難して論破し、念仏往生の一門を立てた。
「仏説法滅尽経に『五濁の盛んな悪い世の中には、魔道が盛んに興り、魔が沙門となって我が道を壊乱し、悪人が甚だしく海中の砂のように多くなり、善人は甚だ少くなって、一人か二人となる』とある。即ち法然房がこれである」と山門の状に書かれている。
自分の浄土宗の専修の一行を五種の正行と定め、権実顕密の諸大乗を五種の雑行と排斥して、浄土門の正行だけを善導のように極楽浄土へ必ず往生できると勧めた。
観経等の浄土の三部経の外は、一代顕密の諸大乗経・大般若経を始めとして、終りは法常住経に至るまで、貞元録に載せる六百三十七部・二千八百八十三巻は、"すべてこれは千中無一の無用の物であり、永く得道できない"とし、難行・聖道門の門を閉じて抛ち閣き捨てて浄土門に入るべきであると勧めた。
日本中の貴賎は頭コウベを傾け、全国の道俗はみな掌を合わせ、勢至菩薩の化身と呼んだり、善導の再誕と仰いだりして、日本全国になびかない木や草はなくなった。智慧は太陽や月のように世間を照らして、肩を並べる人はなく、名徳は一天に充ちて善導を超え、曇鸞・道綽よりも勝れており、貴賎・上下はすべて選択集を仏法の明鏡であると思い、道俗の男女はことごとく法然房を生身の阿弥陀と仰いだ。
しかしながら恭敬・供養するのは愚かで道理にくらく、迷い惑う在俗の人々であり、帰依・渇仰する人は無智・放逸の邪見の輩であった。
|