如来の三部経においてはこのとおりであるが、正法・像法の時は根機はなお利根であるので、諸行往生の機根もあっただろう。ところが機根が衰えて末法となり、諸行の機根はだんだんと失われ、念仏の機根のみとなった。更に阿弥陀如来が善導和尚と生まれて中国でこの義をあらわし、法然和尚は日本に生まれて、はじめは比叡山に入って修行し、後には比叡山を出て一向に専修念仏して三部経の意をあらわされたのである。
あなたが捨閉閣抛の四字を謗法と非難するのは、いまだ善導和尚の釈や三部経の文を知らないからであろう。犬が雷を噛む様なもので、地獄の業因を増す。あなたは知らないのなら浄土宗の智者に問いなさい。
不審に思っていう。
以上の所立の義をもって法然の捨閉閣抛の謗言は救われたというのか。
実際、浄土の三師並びに竜樹菩薩が仏説によってこの三部経の文を開いて、念仏に対して諸行を傍とした事は大体経文にも見えている。経文に嫌われている諸行が念仏に対しても嫌われたとしてもとがめるべきではない。
ただし不審なところは雙観経の念仏以外の諸行、観無量寿経の念仏以外の定散、阿弥陀経の念仏の以外の小善根の中で、法華・涅槃・大日経等の極大乗経を入れて、念仏に対して不往生の善根であると仏が嫌われたのを、竜樹菩薩・三師並びに法然がこれらを嫌うならば何の罪もない。しかし三部経の小善根等の句に法華・涅槃・大日経等が入るとは思えないので、三師並びに法然の釈は用いないのである。
無量義経などは「四十余年・未顕真実」と説いている。法華経が説かれた八年を除いた以前の四十二年に説かれた大小・権実の諸経は一字一点も未顕真実のことばに漏れるとは思えない。それだけではなく、四十二年の間に説かれた阿含・方等・般若・華厳の名目にはこのことがはっきり出ている。既に大小の諸経を出して"生滅無常"を説く諸の小乗経を「阿含」の句に取り入れ、三無差別の法門を説く諸大乗経を華厳海空の句に取り入れ、十八空等を説く諸大乗経を般若の句に取り入れ、弾呵の意を説く諸大乗経を方等の句に取り入れている。このように年限を指し、経の題目を挙げ、無量義経によって法華経に対して諸経を排斥したのである。仏によって嫌われた諸経によって諸宗を下すことは天台大師の私見ではない。
あなた方は浄土の三部経の中に、念仏に対して諸行を嫌う文があるというが、嫌われる諸行が浄土の三部経以外の五十年の諸経であるという現文はない。また無量義経のように阿含・方等・般若・華厳等をも挙げていない。
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