同志と共に

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当世念仏者無間地獄事(とうせいねんぶつしやむけんじごくじ)

雙観経では念仏を無上功徳と名づけて弥勒に付属し、観経では念仏を芬陀利華と名づけて阿難に付属し、阿弥陀経の念仏を大善根と名づけて舎利弗に付属した。最終の付属では一経の肝心を付属した。また一経の名を付属したのである。
三部経には善根も多くあるが、その中でも念仏が最勝であるとする。したがって題目も無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経等と名付けているのである。
釈摩訶衍論[竜樹]・法華論[天親]等の論からこのことを考えると、すべての経の初めには必ず南無の二字がある。梵語で書かれた仏教の教典でこのことを言うならば、三部経の題目にはすべて南無がある。雙観経の「修諸」の二字には念仏以外の八万聖教は残らず収められている。観無量寿経の「三福九品」等の読誦大乗の一句にも一切経が残らず収まっている。阿弥陀経にある念仏の大善根に対する小善根の言葉には法華経等が漏れずに収まっている。
総じて浄土の三部経の趣意は行者の意楽[何事かをなそうとする心性]に随おうとするために、しばらく諸行をあげているが、再び念仏に対する時は諸行の門を閉じて捨閉閣抛している事は顕然である。例えば法華経を説くために無量義経を説く時に、「四十余年」の経を捨てて法華の門を開いたようなものである。
竜樹菩薩は十住毘婆沙論を造り、釈尊の一代聖教を難と易の二道に分けた。難行道とは三部経以外の諸行である。易行道とは念仏である。
経論にこのように明らかであるが、中国の人師はこの義を知らない。ただ善導一師のみこの義を発得した。ゆえに雙観経の三輩[阿弥陀仏の浄土に往生する衆生を、修行の浅深・優劣によって上中下の三種に分けたもの]を観念法門で「一切衆生は根性が不同であり上中下がある。その根性にしたがって仏は皆無量寿仏の名を専念することを勧めた」等と書いた。この文の趣意は、「発菩提心・修諸功徳」等と諸行を説いているのは、他力本願の念仏に出会う以前の修行の事で、ただちにこれを捨てよと言っても行者は用いないので、しばらくは諸行を許したのである。実際は念仏を離れて諸行で往生を遂げる者はないと書いたのである。
観無量寿経で「仏が阿難等に告げた」という文について、善導は疏の四でこれを受けて「今までに定・散の両門を説いたが、仏の本願に望めば、意衆生をして一向にもっぱら阿弥陀の名を称するに在り」と述べている。
定善・散善とは八万法蔵の権実・顕密の諸経のすべてを一括したもので、念仏に対してこれらを捨てよと言っているのである。善導の法事讃には阿弥陀経の大小善根の理由を「極楽は無為涅槃界である。随縁の雑善は恐らく生じ難い。故に如来は要法を選んで弥陀専修を教えて念じさせた」等と解説している。
諸師の中で三部経の意を得た人はただ善導和尚一人である。