同志と共に

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守護国家論(しゆごこつかろん)

私が世間を見聞きすると、自宗の人師を、三昧に入り悟りを開いた智慧第一と称するけれども、無徳の凡夫であるとして、実経に依って法門を信じさせようとせず、不了義の観経等を時機相応の教と称し、了義の法華・涅槃をさしおいて謗り、教理が深すぎて微かにしか理解できない欠点があるなどと言っている。如来の遺言に背いて「人に依って法に依ってはならない。語に依って義に依ってはならない。識に依って智に依ってはならない。不了義経に依って了義経に依ってはならない。」と説いているようなものではないか。請い願うことは、心がある人は思惟を加えるべきである。如来の入滅から既に二千二百年余りの歳月が過ぎた。文殊・迦葉・阿難が経典を結集して以後、四依の菩薩が重ねて世に出現し、論をつくり経の意味を述べた。末代の学者に至って次第に誤りが出てきた。また翻訳者においても、梵語や漢語に通達していない者や、権教に宿習のある人がいて、真実の経論の教義を曲げて、方便の経論の教義を反映している。これについてまた中国の人師が過去の権教に宿習があり、方便の経論が心に叶うために実経の教義を用いず、あるいは少しでも自分の見解と違う文があれば、道理を曲げて勝手に解釈し、自身の見解に合わせるようにする。たとえ後に道理であったとしても、名利にとらわれ、あるいは檀那の帰依によって権宗を捨てて実宗に入らない。世間の道俗もまた無智のため理非を弁えない。ただ人に依って法に依らず、たとえ悪法であっても多くの人の邪義にしたがって一人の実説に依らない。こうして衆生の機根の多くは流転にしたがう。たとえ出離を求めようも、多くの人は権経に依ってしまう。残念なことに悪業の身のために、善に付け悪に付け生死を離れ難いのである。しかしながら、今の世の一切の凡夫は、たとえ今生を損なっても、上述の涅槃経第九の文に依って、しばらく法華・涅槃を信じるべきである。その理由は世間の浅い事ですら、移り変わりの多い時は虚偽が多くなり真実は少なくなる。まして仏法の深義においてはなおさらである。如来の入滅後二千年年余りの間、仏法に邪義を混ぜてきたので、万に一つも正義は無く、一代の聖教にも多分に誤りがあるだろう。例をあげると、心地観経の「法爾無漏の種子」の文や、正法華経で属累品が経末に置かれていることや、婆沙論にない十六字や、摂論の識の八と九の違いや、法華論と妙法華経との相違や、涅槃論の「法華煩悩所汚」の文や、法相宗の定性・無性の不成仏や、摂論宗の法華経の「一称南無の別時意趣」などである。これらはすべて訳者や人師の誤りである。このほかに、また四十年余りの経々において多くの誤りがある。たとえ法華・涅槃において誤りがあろうとなかろうと、四十年余りの諸経を捨てて法華・涅槃に随うべきである。その証拠は上にあげたとおりである。まして誤りがある諸経において信心する者は生死を離れることができない。