同志と共に

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守護国家論(しゆごこつかろん)

大文の第二に、正・像・末における教法の興廃を明かす。
これについてはまた二段がある。
一では爾前四十年余りの内の諸経と、浄土の三部経と、末法においての久住・不久住を明かす。
二では法華・涅槃と浄土の三部経並びに諸経との久住・不久住を明かす。
第一に爾前四十年余りの内の諸経と、浄土の三部経と、末法においての久住・不久住を明かす。
問う。
如来の教法は大小・浅深・勝劣を論じていない。ただし時機に依ってこれを修行するなら必ず利益があるはずである。しかしながら賢劫・大術・大集等の諸経を見ると、仏滅後二千年余り以降は仏法はすべて滅び、ただ教えのみがあって行・証はない。したがって伝教大師の末法灯明記を開くと、我が国の延暦二十年辛巳は仏滅後一千七百五十年とある(一説である)。延暦二十年より以降更に四百五十年余りが過ぎて既に末法に入っている。たとえ教法があるといっても行と証は無い。そうであるなら仏法を修行する者は万が一も得道することはありえないであろう。然るに雙観経の「未来の世に経道が滅び尽きるときに、私は慈悲と哀れみをもって、この経だけを留め置こう。衆生がこの経にあうことがあれば、願いにしたがって皆得道するだろう」等の文を見ると、釈迦如来一代の聖教がすべて滅尽した後、ただ特に雙観経の念仏のみを留めて衆生を利益するであろうということが明らかである。
この趣旨によってほぼ浄土家の諸師の釈を考えると、その意義が述べられている。道綽禅師は「まさに今の末法は五濁悪世である。ただ浄土の一門だけが通入できる路である」と書き、善導和尚は「万年に三宝が滅してこの経のみ百年留まる」と宣べ、慈恩大師は「末法万年に余経はことごとく滅し、阿弥陀の一教だけが利益を増す」と定め、日本国の比叡山の先徳である慧心僧都は、一代聖教の要文を集めて末代の指南として教える往生要集の序に「往生極楽の教行は濁世末代の目足である。道俗・貴賎によらず帰依しない者がいるわけがない。顕・密の教法の文は一つではない。事・理の業因である修行も煩雑である。利智精進の人は難しいとはしないが、私のような頑なでおろかな者はどうして修行ができようか」(中略)次下に「なかんずく念仏の教えの多くは、末代の経道滅尽の後の濁悪の衆生を利益するのである」とある。総じて諸宗の学者もこの旨を知っている。とくに天台一宗の学者のうち、誰がこの義に背くことができようか。
答える。
爾前四十年余りの経々はおのおの時機によって興廃があるため、多分は浄土の三部経より以前に滅尽するのが道理である。