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権・実、浅・深の勝劣を論じたのではない。雑行というのも区別して雑というのではない。雑というのは不純ということである。そのうえ諸の経論並びに諸師もこの意思がないわけではない。故に比叡山の先徳の往生要集の趣意もひとえにここにある。
したがって、往生要集の序にこうある。
「顕・密の教法のその文は一つではない。事・理の業因もその行法は多くある。利智・精進の人は難しいとはしないが、私のような頑固で愚かな者がどうしてそのような修行ができようか。そのために念仏の一門によるのである」
この序の趣意は、慧心先徳も法華・真言等を破折したのではない。ただひとえに我等のような頑固で愚かな者の機根に当てて、法華・真言は聞き難く行じ難いゆえであり、我が身が鈍根であるがゆえである。あえて法体を嫌ったのではない。そのうえ、序以外の正宗に至るまで十門がある。大文の第八の門にこうある。
「今、念仏を勧めることは、他の種々の妙行を遮えぎるのではない。ただ男女・貴賎・行住坐臥を選ばず、時や場所、諸縁を問わずこれを修行するのは難しくなく(中略)・臨終に往生を願い求めるのに、その便宜を得ることは念仏に及ばないからである」
以上、これらの文を見ると、源空の選択集と源信の往生要集とは一巻・三巻の違いはあるが、一代聖教の中で易行を選んで末代の愚人を救おうとする考えはただ同じ事である。源空上人が法華・真言を難行と立てて悪道に堕ちるならば、慧心先徳もまたこの罪を免れないことになるがどうであるか。
答える。
あなたは師の謗法の失を救う為に、事を源信の往生要集に寄せている。謗法の上にますます重罪を招く者である。
その理由は釈迦如来の五十年の説教には、総じて前の四十二年の趣意を無量義経に定めて「険しい道を行くに困難が多い故に」といい、無量義経以後を定めて「大直道を行くのに困難が無いが故に」という。仏が自ら難易・勝劣の二道を分けられたものである。仏より以外の等覚から以降の末代の凡師に至るまで、我見で難・易の二道を分けて、この教えに背く者は外道・魔王の説と同じであろう。したがって四依の大士である竜樹菩薩の十住毘婆沙論には、法華経以前にて難・易の二道を分けたが、あえて四十年余り以後の経については難行の義は立てなかった。そのうえも修行しやすいことをもって易行と定めるのであれば、法華経の五十展転の行は称名念仏より行じ易いこと百千万億倍である。もしまた勝れていることをもって易行と定めるのであれば、分別功徳品に爾前四十年余りの八十万億劫の間の布施・持戒・忍辱・精進・念仏三昧等前の五波羅蜜の功徳を法華経の一念信解の功徳と比較すると、一念信解の功徳は念仏三昧等の前の五波羅蜜に勝れている事は百千万億倍である。
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